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夕子と一緒にアパートの階段を上がっていく。夜の闇を見下ろせるほどまで階段を上がって、下界の方ではチカチカと車やら何やらの光がうごめいている。
「ただいま。」
僕はいつもの通りに我が家の小さな扉をその言葉で開いた。返事が無い事は知っている。
「お帰り。」
夕子がそう呟いた。その言葉は家族の証でもある。今の夕子にはその資格がある。
夕子は沙耶の書いた桜の絵をじっと見ていた。何かを感じ取ったのだろう。しかし夕子は黙っていた。
玄関とそれに通じる廊下の電気をつけると走るようにして家の中が明るくなった。家の中は少し冷えていて、廊下を冷たい風が通っていく気がした。
夕子は久しぶりの僕の家をじっと噛み締めるように静観している。その様子が僕にも伝わってきた。
「どうぞ。」
そう言って夕子を奥へ行かせる。中も見てくれ。君の目で、様変わりした僕の家を見てくれ。
「匂いは変わってないね。」
廊下の奥から意外な夕子の感想が聞こえてきた。匂いはきっとまだ変わってないのだろう。
「そう?」
「慶介と同じ匂い。」
夕子が僕の家にいると少し違和感がする。やはり久しぶりだからだろうか。絵として少しぎこちない。そんな印象の光景だ。
「そこ座ってテレビでも見ててよ。ちょっと煙草吸ってくる。」
「うん」
そう言うと夕子は、いつもは母さんがダイニングの少し汚れた茶色の座椅子に腰掛けた。
僕はいつもの様にベランダへ出て、冷たい風を浴びた。すっと深呼吸をしながら、目をつむりそれからまたしばらくして目をあける。
遠くの空の下、環状道路を流れる車群がまるで銀河を流れる星々に見える。その少し先にはやっぱりあの大きな森らしき黒い影だ。
その変化は自分でも驚きだった。以前はあれほどまでに不気味さを醸し出していたその巨大な森が、どういうわけか・・僕になんの印象も与えないただの森になっている。僕は何度も何度も繰り返しその森を凝視した。しかし僕は恐怖を感じない。
「なるほど。」
そこで一つの答えがでた。
僕が森を恐れていた理由が分かったのだ。僕はその闇に覆われた黒く巨大な森に、自分が一人ぼっちで迷い込む想像をしていたのだ。それは自然な事で、それが人の性なのだろう。
そして僕は恐怖を感じた・・その理由は、僕は一人じゃなかったからだ。
逆に、今、恐怖を感じないのは僕が一人だからだ。
僕に家族はいない。それが答えだった。
僕は携帯を開いた。久しくメールをしていなかった仁にメールを送ろう。
題名は「遺書」。
メールの送信が終わって、僕は携帯をベランダから投げ捨てた。
静かな夜に小さく砕ける音が響いた。