33
戸塚駅を出て柏尾川の川沿いを歩いていく。川の音だけが聞こえる。時間も時間だったので人の気配はほとんど無い。静かだった。僕は川の流れに映る暗闇を見ながら歩いていた。街灯が僕の二三メートル先を照らし僕はそれに従って歩を進めていく。何も考えず、何にも囚われることなく、ただ歩くということだけに集中していた。家まであと五十メートルという地点だろうか、僕の背中で僕以外の人間の足音が鳴りはじめた。高く小さな足音だった、男の足音じゃない事だけは確かだった。
「慶介!」
僕を呼ぶ足音の主。聞き覚えがあるのに新鮮な声、少し震えている夕子の声だった。
「夕子・・」
僕は振り返る前に彼女の名前を呼んだ。そこには街灯に照らし出される夕子がいた。彼女の白を基調とした服装が闇の中でぼんやりと浮かび上がる。表情はよく判らないがどこか苦しそうな・・辛そうな感じが彼女の声と体から伝わってくる。
一歩一歩、僕へと近づいてくる。その時、僕は唯々、じっと彼女の目を見る事しかできずに思考は停止したままだった。
彼女の目に溜まった涙が僕を動けないように地面に縛り付けているのだろう、そこを動くな、という表情で彼女は僕の前へと立った。今にも手が届きそうな距離だった。
「ごめん・・」
そう言って夕子は僕の胸に飛び込んできた。冷たい。そう感じた。冷え切った彼女の体が僕の体を温める気がした。
「ごめん。」
僕も繰り返した。自分の非を認めた。間違っていたのは僕の方だ、心配を掛けてしまった。この十二日間で分かったはずなのに一人になる苦しみを分かったはずなのに僕は夕子に孤独を与えてしまった。僕は彼女を静かに抱きしめた。
僕の体で彼女の冷たい体を温められたなら、それは僕にとって、今の僕にとってもっとも嬉しい事だ。この柏尾川沿いの冷たい闇の中でずっと待たせてしまったんだね。
「あの時ね・・」
川沿いの冷たいの風に当たりながら街灯の明かりだけに照らされる夕子が僕の23メートル前に出て呟いた。それはそれは静かな声であった。
「あの時?」
僕は繰り返して尋ねた。
ここ何ヶ月か二人の間にあった隔たりはいつの間にか消えていた。僕はその時初めてそう感じた。
「慶介が、私の家に来て・・私が泣いちゃった時・・」
夕子が闇の中でこちらを振り返った。僕はあの時の夕子の涙がどうも思い出せない。それは今となってはどうでもいい事になってしまったからであろう。少し色々な事がありすぎた。
「あの時ね・・少し迷ってたんだ。」
僕は少しの間、夕子の話しに耳を傾ける事にした。
「あの時、迷ってたし不安だった。わかんないけど・・うまく言えないんだけど。慶介ですら・・私の味方じゃない、そんな気がしたの。」
驚いた。夕子が感じたその言葉では説明できない不安、それは僕が感じていた「闇」であろう。それをきっと夕子も感じていたんだ。
「慶介が私の家に来て、私と話をして、私は慶介の事が好きだけど・・慶介が私をどう思ってるかなんて本当は分からないから・・。」
あれほど落ち着いた夕子がこれほどまでにゆっくり、少しずつ言葉を出していた。そしてその声は震えていた。
「ずっと閉ざされた気分だった。何も見えないみたいだった。ホントなんて言ったらわかんないけど・・それから慶介と会えない日が続いた時、私は思ったんだ・・。」
僕はこれからもずっと、これからもずっとずっと、夕子が言った言葉を忘れないだろう。
「やっぱり私は、慶介の家族だよ。だから一人になっちゃったなんて言わないで。慶介も私の事・・家族って思ってもいいよ。」
僕は、母と沙耶が死ぬ前、こんな事を考えていた。二人が死んだりしたら、きっと毎日のように僕の精神に二人の虚像が現れて、僕と対話をするだろう。もちろんそれは僕の妄想なのだけれども、妙にリアルでまるで二人が言いそうな事を僕に話しかけたりするんだろう・・そんな事を二人が死ぬ前に考えていた。
しかしその予想は外れた。僕がそんな考えを持っていたからあえて僕がそうしなかったのかもしれないが、二人は現れなかった。二人が死んだら、本当に僕は二人と話せなくなってしまった。
でも僕は夕子のその言葉を聞いて、夕子の口から「家族」という言葉を聞いて、今までそこにいなかったはずの二人が、ほんの一瞬だけ、夕子の中に二人が見えた気がした。
そしてまたすぐに二人が消えて、僕はその時、二人が死んだという事を知った。
人は死ぬと、いなくなってしまう。その事はずっと昔から知っていたはずなのに僕はそれを知らない振りして、夕子や香織の影に二人を探していた。
そして夕子が僕に教えてくれた。大切な人の大切さを。
それから涙ぐみ、闇の中で立ち尽くす夕子を力いっぱい抱きしめた。夕子の小さな肩に顔を埋めて、本当に泣いた。力いっぱい涙を流した。
なんでこれほど泣けたのかも、なんでこんなに悲しいのかも・・分かったような分からないような。
「・・ありがとう。・・・・ありがとう。」
夕子が僕を抱きしめてくれた時、僕が今まで背負っていた「闇」ってやつが夜に溶けて消えていく気がした。