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 閑静の中で、僕はボーっとどこを見るわけでも針音に耳を貸していた。

 「ねぇ。」

 夕子は静かに微笑みながらそう言った。この静かな微笑みの後に来る言葉を僕は予想ができた。彼女は大抵…、

 「今日は何かあった?」

 こう言うのだ。僕はこれを彼女の趣味と言えてしまう様な行為だと決めつけていた。僕は夕子にこの質問によって図られ、試されているような気がするのだ。試すというのには多少、御幣があるかもしれないが、彼女は先ほどから強調してきた通り、寡黙な人間だ。だがしかしおっとしている人間ではない、全くそういうイメージは間違っていて、静かさの中で確実に高尚な思考が行われて。落ち着いて口を噤んでいても頭の中は常にいろんな事象が回転していて、僕の思考や心理について考えてくれているような気がするのだ。つまりそんなくだらない質問もそんな彼女から出されれば、僕は熟考せずにはいられないのだ。

 「いや・・何もないな。」

 しかしながら僕はいつもこう返してしまう。考えれば考えるほどに答えは出てこない、そもそもこの質問に答えなど存在していないのだが、僕は夕子を前に彼女の興味を少しでも引きたいと思い、つまらない答えを思い浮かべるのだが、それを口に出す勇気はなく結局こう言ってしまうのだ。僕はこういってしまう自分をいつも嫌になる。しかしこれではいつか夕子に愛想を尽かされるのではないか、と不安になることはなかった。自分でも確かな理由は分からないが、それはこの会話がまだ終わらないからだろう。しかしこれ以外の答えが出ることはとても稀であった。

 「またそれ・・」

 彼女は不平を言うような顔振りをして微笑んでいた。

 「それは僕のセリフだよ。またそれ?」

 彼女は僕のその言葉にうつむいた。そして言葉を失くしたように沈黙してしまった。再びあの針音が聞こえた時、僕は、しまったと思った。失策であった。先ほどとは違った少し重たい静けさが流れ始めたのだった。

 「あ・・・」

 僕は何かを思い出したように、わざとらしく言葉を出した。彼女は顔を上げて僕のほうを真面目な顔をして見ている。

 「そういえば、あったよ。面白い事が。」

 「聞きたい。聞かせてよ。」

 僕は運がいい。先ほどはあれだけ考えても出てこなかった物語がこの時はすんなり口から出たのだ。

 「面白い映画だよ。妹が借りてきたのを家族で見たんだけど。ショーシャンクの空に、って言う映画なんだけど・・・知ってる?」

 「ううん・・・知らない。ごめんなさい。」

 僕の精一杯の頑張りも彼女の笑顔を作ることはできなかった。彼女は再び疲れたように目を背けて下を向いてしまった。正直、僕はもうどうしようもない。出来る事は全てやりつくしてしまい、もう打つ手はない。しかしそれと同時に彼女に対する異変も感じていた。先程は全く気づかなかった彼女のその疲れのようなものを僕は心から心配した。沈黙が流れつつある中、

 「・・どうしたの?」

 僕はかろうじて残っていたエネルギーを絞って尋ねた。

 「もしかして・・疲れてる?・・」

 間を置きながら、彼女の表情の変化に対応すべく僕は言葉を選んだ。彼女の返事を期待しつつ、それが無いことも予測していた。彼女はまだ少しうつむいて顔に微かな影を作っていた。その表情はいつもの夕子ではない、まるで不治の病にでも冒された少女のような儚さを持っていた。そして僕が一瞬、彼女から目を外した瞬間、彼女からは言葉が返って来た。

 「そんなことない。」

 その言葉がいつも以上に弱々しく怯えたような声だった。しかし僕はそれでも彼女の返答が嬉しい。そして彼女が顔を上げてこちらを見たとき、僕と目があった時、、僕の衝撃を受け、混乱へと突き落とされた。彼女の白い頬を伝い、流れ落ちる悲涙が僕に今まで経験したことの無い不安を記憶させた。

 「ごめんなさい。」

 僕の不安そうな顔を見てだろうか、彼女は必死に涙を隠そうとしながら下を向いて声を上げる。僕は混乱と不安の中で、探るように言葉を吐き出した。

 「大丈夫?・・・・」

 そう言って、ポケットからハンカチを差し出す。しかし彼女はそれを受け取ろうとしない。

 「ごめん。平気。でも今日は帰って。」

 その言葉で僕は、まるで鉛を食わされたような気分になった。重たい何かが腹の中で生まれたような、具合だ。とても良いものではない。未だに彼女の部屋は確かな沈黙が流れている、しかし僕は混乱と衝撃により、時計の針が微動する音を聞き取る事ができない。

 「分かった。今日は帰るよ。」

 少し間を空けて僕は返答した。その言葉でその鉛は余計に重くなる心持がした。夕子は下を向いたまま僕をちらりとも見ることはなかった。この時より衝撃と混乱は少しずつ不安と悲しみに変わり始めていた。

 「お邪魔します。」

 腹に溜まった鉛を吐き出すようにこの言葉を吐き出した。しかしそれが出る事は無かった。そしてこれもまた僕が彼女の家から出る時は必ず行っていた儀式であった。いつもなら小さく手を振る彼女を一度振り返ってこの家を出るのだ。この日は初めて一人で家を出た。



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