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昼食は夕子と二人っきりで取る事になった。少し気まずい。僕自身、彼女の前で隠し事をしていると背中に汗をかいてしまいそうだ。夕子は僕の嘘などこれまで瞬時に見抜いてきた。しかし今日は違った。
これまでの夕子が嘘のようにのんびりとした静かな表情、今までももちろん静かではあったしかし静けさの中に常に冷静さを感じさせる表情であった。
「今日、何かいつもと違ってない?」
迷わずそう聞く事自体がいつもの僕と違う。しかし夕子は少し困ったような表情をしてこう答えた。
「そう?・・久しぶりだから前の私、忘れちゃった?」
なるほどと僕は納得して席へ着いた。食堂はこの日も空いていた、いつもならこの時間になると人気のあるメニューの前には列が出来るのだがこの日はそれもない。
「伊藤と話ししたんだ?」
いつもの僕ならこんな質問はしないはずだ。自分で分かっているのだが、この日は好奇心を抑えきれない。妙な勇気がどこからともなく湧いてきてしまうのだ。
「そう。心配してたんだよ。」
「ごめん。」
またこの言葉を繰り返す。自分の非を詫びる言葉。夕子はこの意味を覚えているだろうか?君たちは僕の言葉を覚えている?
夕子は無反応であった。
食事を終えて、午後の授業を終えて、僕にいつも通りの生活が戻ってきた。しかし納得は出来なかった。納得などするはずもない、死んだ二人なしの戻ってくるいつもの生活など僕は納得しない。しかし流れは止まらない、いつも通りの伊藤の軽はずみの言動、それに笑ってしまう僕、いつも通りの光景に馴染む自分が不思議だった。
そんな流れ作業とともに三限目の授業を終えて夕子の待つ談話室へ向かった。先ほどの食堂とは打って変わり人と人が押し合うように賑わうその部屋の奥、いつものスペースに静けさと知性と寂しさを漂わせる長い黒髪の色の白い女性が目についた。夕子だ。背の高い丸椅子に腰掛けて小難しい本を読んでいる。知性とは懸け離れた声が響きあうその空間で彼女の周囲だけはまるで静かに時が流れているかのように見えてしまう。
「待った?」
僕は彼女の横に座った。
「ううん。今来たところ。」
「ここは相変わらずだね。」
大袈裟な僕の不快な顔に夕子が微笑む。
「次は待ち合わせ場所変える?」
「次」と言う言葉が僕の中で糸を引くように引っかかった。
「次はないよ。」
心の中だけでそう叫んだ。
「次は食堂にしよう。」
僕の言葉はいつも通り淀みない。
二人はその喧騒をするりと抜け出し、さっさと飯田橋へたどり着いた。
「今日、夕子の家に行っていい?」
僕はホームで電車を待っている間彼女に尋ねた。この数ヶ月でこの言葉を搾り出すのが容易くなった。以前あれほど必要だった勇気も、爪の先ほどもいらない。
「いいよ。今日はアルバイト?」
一瞬の間の後、夕子は言った。流れ作業のような会話だが、夕子は気づいていない。淀みも迷いもない僕の言葉に彼女は疑問も何も感じずにただじっと静かに電車を待っている。
「うん。それまでの間だけ。」
夕子は遠い目をして線路に目をやっている。こんなボーっとした一瞬からも、夕子の美しさには隙は一瞬もない。微かな風に揺れる彼女の髪の一本一本だって隙はない。
飯田橋から電車で三十分程乗れば彼女の家のある駅へ着く。そしてそこから四五分歩けば、彼女の家族の白を基調をとしたモダンな造りの家が見えてくる。玄関前の花壇には枯れて萎れてしまって赤だか青だか区別のつかない、昔は朝顔と呼ばれた枯れ木が僕を見つめている。僕は思わず目を背けた。
「今日は家誰もいないよ。」
静けさだけが漂う室内、誰もいない部屋だった。僕の家も誰もいない。誰も帰ってこない。
「ただいま。」
「ただいまって・・・どうしたの?」
夕子は噴出すように笑ってそれに反応した。彼女にしては大きな笑いだ。二人の中でルール付けられた例のルールを破って僕は思わず「ただいま。」と言ってしまった。完全に無意識であった。誰もいない部屋の奥に向かってそう呟くのが僕の最近のルールになっていたからだ。