24
「ただいま。」
いつものように同じ調子、同じタイミングでそう声を掛けながらアパートへと帰ってきた。
「お帰り。」
予備校帰りでまだ制服のままの沙耶が母と夕食を食べている。カレーの匂いが部屋いっぱいに広がっていた。漠然とした安心感が僕を包む。
「バイト大変?」
沙耶のイメージが香織と重なった。もう妹がそんな年齢であった事を思い出し、僕はなぜか虚しくなり彼女の質問に答えられなかった。
「もしもーし・・」
その声で我に返った時、二人が同時に笑った。
「何ぼーっとしてるの?」
上着を脱ぎながら誤魔化すように僕も笑った。しかし笑ったのは自分でも少し不思議だったからだ。香織に対して「彼女はいない」という大胆な宣言をしてから、僕の肩の重みが下りたのか・・さっきどうも様々な事に関し思考がはかどらない。夕子に対する罪悪感が僕を悩ませるとでも思っていたのだろうか・・香織に対する思いがまた僕を締め付けるとでも思っていたのだろうか・・そう思ってた僕が馬鹿だった。
「いただきます。」
カレーを口に運びながらも思うのは、何でもない事ばかり・・夕子の事を考えようにもどうしてか今日は顔も思い出せないような気がする。別に格好つけて言っている訳じゃない。ここに帰る間に僕の中での気持ちの変化があったのでもないだろう・・。例えるなら決闘を終えしばらく時間が過ぎた戦士・・決闘の興奮ゆえに思い出せない相手の死顔と返り血。熱は完全に冷えて次へ進むでもなく、振り返るでも無く、ため息でもつきながらもう一度、剣を握り締める。
「お兄ちゃん。夕子さんと喧嘩でもした?」
沙耶から母の口からこの名が出るのは稀である。初めて彼女を二人に紹介した夜、二人が夕子を褒めてそれっきりだろうか。あの時は、僕には勿体無い、だとか美人だとか・・勝手な事を言ってくれた。そんな沙耶から久方ぶりに夕子の名前が出たのだから僕は一瞬、躊躇ってしまった。
「してないよ。」
少し間を置いてしまった事を後悔しつつ、真実を話している事を確信している。彼女との間には何も無い、いつも通り真っ白で「無」のような時間が過ぎただけ。今となってはそう思えてしまう。そして沙耶と母は僕の答えに納得したようでそれ以上は何も聞かなかった。
風呂から上がった後にベランダで煙草を吸っていると、仁からのメールが来た。
「元気か?」
それだけだ。風呂上り、益々冷静になっていた僕にとってもはや彼ほどに軽薄で無意味な存在はないと思った。見えもしない相手にこっちの状況を伝え続けてきたんだな。自分が馬鹿らしい。
仁がどこの誰だろうとそれはどうでも良かった、むしろどこの誰だか分からないからこそ僕は彼を信じたのだ。目の前にあるものが皆、闇に包まれるこの砂漠において、仁は僕の想像を超越した世界からの使者であり、こちらの世界の全てに囚われない、また彼の世界の全てを持ち込まない、非常に楽な存在だった。それが僕にとって無意味に思えてきたことが、自分自身で意外だった。しかし理由は簡単だ。彼に話すことがなくなったのだ。香織に告げた一言が認めたくは無いが、自分の世界の月と太陽を同時に消し去った・・それがきっと正しい答えだろう。突然すぎる、香織への思いと香織の告白が一種の「衝撃」となったのだ。僕の世界は夜もない、朝も無い・・一日中「闇」だけの世界となり・・そこでは仁を頼る必要も無い、なぜならその世界では答え以前に問いかけすら存在しないのだから。
結局、僕は仁にメールすることなく布団に入った。もう一生、彼と話す機会は訪れない気さえした。
電気が消えても、静かにはならなかった。この家では大抵、静かになるとどこからとも無く時計の秒針が鳴り始める。今日はそれの変わりに母と沙耶、二人のざわめき声が聞こえてきた。時折、ざわめきが笑い声に変わる。二人の寝室は壁一枚挟んだ向こう側にある。薄い壁一枚だから会話の内容までは聞こえないまでも何か音として聞こえてくるのだ。
以前に僕がこんな話をしたのを憶えているだろうか?
突然の不幸で家族を失い想像を僕がよくするという話を。最近になってその理由が分かったのだ。僕は確かめているのだと思う。自分の家族への愛情を確かめるためにあえて自分をそのような悲しみ中において自分に対して襲い掛かかろうとする恐ろしい悲しみに自分を対峙させるのだ、そうする事でその悲劇の恐ろしさを自分に仮想体感させて自分の家族へ対する愛を確かめて、結局は安心するのだ。
まだ二人の声が聞こえてくる。僕は暗闇の中で枕元を弄りティッシュケースを探り当てた。それを壁に向かって投げつける。それが壁に当たるとほぼ同時くらいに壁の向こうから笑い声が聞こえてくる。