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 電車内で順調だった伊藤との会話が途切れたのは、僕がふと夕子の事を考えたからだろうか。

 これでいいのだろうか?

 先ほどの夕子が見せた去り際のぎこちない笑顔が僕を不安にさせた。

 「今日はバイトだろ?」

 沈黙を破ったのは伊藤の方だった。僕は彼が沈黙を嫌う性格なのは知っていた。今はそれがよく感じ取れる。少し騒がしい電車内に取り残されたような気でもしたのだろう。

 「あぁ。」

 短く返事をした。今だけでも夕子のことを忘れて伊藤との会話に集中すべきなのは分かっていた、しかしこの伊藤自身も僕にそうさせてくれない気がする。

 彼の口から発せられる悲しく無意味な冗談を聞くたびに僕は彼を介して夕子の背中を思い出す。

 「まだ辞めないのか?もう一年以上働いてるんだろ?」

 伊藤は僕のアルバイトの話をよくした。というより二人の間に話題がなくなると決まってこいつが話題に押し上げられる。しかし僕はこの話が苦手だった。

 「つまんないけどな。辞めたいよ。」

 別に辞めたくはないのだ・・・なぜなら香織に会うことができるから。そして僕は伊藤には香織の話をできずにいる。なぜ話せないかを聞くのは野暮な事だ。これで伊藤に香織の話をしたら 彼から失望を買うのはまず間違いない。そしてその結果、僕と夕子の間に破滅的事態をもたらしかねない。

 「でも君は夕子と付き合いながら香織に好意を持っているんだろ?」

 先ほどからメールのやり取りをしていた仁は全てを知っている。

 俯いて影を落とす伊藤の表情とは裏腹に、そのメールに顔文字がついていたとしたら、きっと僕を見下すように笑っているのだろう。

 「月と太陽はどちらも必要なものだろう?」

 僕は仁に対して直ぐに返事を送った。その間、伊藤はじっと窓の外の何かを見つめていた。

 しかしそんな仁にも隠している事がある。


 市川駅の改札を出て徒歩八分、そこに伊藤が一人暮らしをするマンションがある。

 昔はよく訪れたが、僕はここへ来るのは1年半振りだろうか、夕子と付き合い始めてからは来る機会が無かった。

 「久しぶりだな。お邪魔します。」

 僕はこれと言って大した高揚感は無かったものの伊藤に気を使ってか、少し楽しそうに振舞った。

 「相変わらずきれいな部屋だな。」

 夕子ほどではない、と付け足しはしない。しかしよく整頓された部屋だ。男の一人暮らしとは思えない。ゴミ一つ落ちていない床も、整頓された書籍も、正直、不気味なほど整頓されていた。

 「テレビでも見るか?」

 伊藤はそれには答えずにテレビをつけた。夕方のワイドショーが始まったばかりであった。

 「もちろん太陽は必要不可欠な存在さ。しかし月って必要か?」

 仁からのメールは伊藤に気付かれていない。

 「僕には必要さ。朝だけじゃなくて、夜が必要なんだ。朝が来ると僕は爽やかに、紳士的に、少し優しい振りをする。もちろんそれは苦痛なことじゃない。朝は僕に活力を与えてくれるんだ。しかし僕は夜が来たときだけ本当の自分に戻れる気がするんだ。それまでの着飾った自分を全部捨てて、夜の月の前で裸になる。別に変な意味じゃない。」

 少し長いメールになってしまったが・・・送信。相変わらず伊藤はワイドショーのキャスターに文句を言ったり、賛同したり、忙しい奴だ。しかし伊藤はそれでいい。

 「なるほど。確かに・・露出するなら朝より夜だな。しかし君は不思議だな。君は二人を月と太陽に例える自分に対して怒りを抱いていなかったか?」

 この時、僕は仁を改めて関心した。こいつは本当に僕の事を知っている。

 確かにその通りだ・・・僕は昨日、湯船に浸かって自分の事を間抜けで独りよがりの大馬鹿者だと言った。しかしその考えはもう消えていた。しかもそれを仁に指摘されるとは自分の間抜けさに腹も立たない。

 「やっぱり夕子は月で。香織は太陽だよ。」

 そう思ったものの、メールは送らなかった。自分の心の中だけにしまって伊藤を見た。

 先ほど言った仁にしている秘密。それは伊藤である。僕は未だに仁に伊藤という人物を教えていない。

 「テレビつまんねぇな。ゲームしよう。」

 伊藤の提案に僕は曖昧な返事だけをして考察を続けた。二人の親友についてである。

 確かに仁は僕の内面を知り尽くしている、僕よりも僕の内面を知っているのだから。そして逆に伊藤は僕の内面を殆ど知らない。夕子との関係、香織の事、さらには仁の事も。しかし以前にも言ったように僕の伊藤は僕の中での親友なのだ。僕の心の一部を曝け出す事のできる存在。

 彼に見せる心の一部それは、僕の「闇」そのものだ。

 彼が純粋無垢で少し間抜けな人間を演じてくれるお陰で、僕は僕の闇を背負ったまま彼と会話できる気がする。少し可笑しな事を言っている気がするが、そうとしか言いようがない。つまり僕の心を覆い隠す漠然とした不安や曖昧な取り繕い「闇」ですら僕の心の一部と化してしまったのだ。

 僕は母や夕子、仁と接する時、この闇が晴れていく思いがする。しかしそれは僕自身が自分でやっている事なのだ。自分自身で無理やりに「闇」を取り払い彼らの前に跪く。そして懺悔をするのだ。

 しかし香織や沙耶そして伊藤は違う・・彼らの持つ純粋さ(例えそれが作られた純粋さだとしても)の前では僕はその重たい「闇」を脱ぐ事もなく、あたかも自分がもともとそれを身につけていたかのように振舞えるのだ。

 やがて僕らの間に会話はなくなり僕は伊藤に短い簡単な礼を言って彼の家を出た。しかし僕は嬉しい。彼の家に入る前になかった高揚感を彼と過ごす短く静かな時間の中で見つけていた。

仁と伊藤の違い、それは単純明解だ。伊藤は確かにそこにいて、仁はどこにいるのか分からないのだ。





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