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少しまた昔話をしよう。
伊藤との出会いから大学生活という旅は随分、安定した旅になっていた。夕子を求める僕の気持ちは落ち着きを取り戻していた。あの聖母の正体が伊藤の求めていた人物ならば僕にはどうでもよく思えてしまったのだ。というより僕自身、伊藤とその人物を取り合おうなどという気もなかったし、伊藤の告白を受けてからは彼女に対する熱も自分の中で限界を感じていた。
「あの美人の名前が分かったぞ。松谷夕子というらしい。」
どこで調べてきたのか、伊藤は満面の笑みで僕に話しかけてきた。人の気も知らないで・・そう思っていたものの口には出せなかった。この気持ちに対する確かな裏づけが欲しい。そしてもう一度、あの横顔を見つめたいと思っていた。
「伊藤、話しかけてみろよ。」
「そう言っても難しい。チャンスが・・」
「チャンスは自分で作れよ。」
伊藤を突き放すように言い放った。彼は少し困ったような顔をしながらも僕にそう言われるのを待っていたような気もした。
昼を過ぎて、三限が始まる頃の学食を僕は伊藤を含めた友人四人と歩いていた。時間も時間なだけに学生は少ない。授業のない学生が、思い思いに時間をつぶしている。
松谷夕子を見つけた。学生食堂の端からでも僕はその存在を感じる事ができた。
「伊藤、松谷さんがいるぞ。」
思わず出た言葉がこれだった。我ながら情けないもんだ。伊藤は言わば僕の実験台だった。
「・・・」
伊藤は黙っていた。しかし今にも行動したそうに彼女を見つめていた。
「どうした?」
友人の一人が僕ら二人に問う。
「いいから。」
僕も場の成り行きを見守るので精一杯で彼らに説明している暇など無い。
「勝負行くか?行けよ。」
僕は伊藤を冷やかし、けしかけた。
「あぁ!うるさい!慶介は黙っとけ!」
伊藤には珍しい態度だった。こいつ、行くな・・僕は直感した。
「おい。飯にしよう。伊藤の戦いを見守ろう。」
僕は松谷さんがよく見える位置に席を取り、司令官のようにどっしりと座った。伊藤は唇を軽く噛み締めると、静かに歩き始めた。松谷夕子はそんな伊藤のことなど想像もせずに読書をしている。本が似合う女性だ。僕は伊藤にそれを教えてやりたかった。
「伊藤ちゃん、ナンパですかい?」
先ほどと別の友人が大笑いしたいのを堪えている。
「見とけ、見とけ。」
二人の友人を黙らせ、僕は伊藤と松谷さんに全神経を集中した。そして伊藤がそのまま一度も止まることなく、彼女に話しかけた。