PUNICA【あったかい雨の降る夜】2
夏の暑さもいよいよ本格化してきた。陰暦で葉月と呼ばれるだけはあり、羽田立荘の庭も緑一色。元の料亭が雰囲気を意識し、林に囲まれた場所に建てたおかげで蝉しぐれの大合唱に苦しめられる毎日を過ごしている。
耳栓を買うほど、私は繊細な神経の持ち主じゃない。だからといって自分で自分の神経が図太いと表現するほど女を捨ててはいない。だからといって私が女である事を主張したり利用したりする場面は、これが驚くほど少ない。ほっとけ。
まあしかし困っているのは精々そのくらいだというのがまだ救いではある。
先月、この羽田立荘にも冷房が設置されたのだ。
この宿には人一倍暑さを苦手とする女が住んでおり、先月のうちに溜め込んでおいたアイスキャンディを全て消費してしまった程だ。
そう簡単に無くなる量ではなかった。料亭を切り盛りしていた台所の冷凍庫いっぱいに詰め込まれていたのだ。その数は一人が一日三本ずつ消費したとして、少なくとも三か月は保てそうだと目算していた。
まさか彼女が一時間単位で冷凍庫に足を運ぶとは思わなかった。
ともあれ、そんな彼女にしてこの設備。当然のごとく大絶賛である。
私と、その守野三桜、そして真偽は定かでないがこの宿の持ち主である矢神聖歌。
それぞれの個室に冷房は設置され、更に大型の冷房がロビーにも設置された。
資金提供、守野三桜様。
彼女のお気に入りは、ロビーの大型冷房機。
畳敷きスペースが定位置となってしまったようで、いつもそこに寝転がっては幸せそうに寝息を立てている。家猫かお前は。
私としても下着一枚でごねながら宿の備品を散らかされることがなくなり、冷房様万々歳といったところだ。
そんな三桜だが、ここ数日は妙に緊張した面持ちをすることが多くなっていた。
時折、ある方向の空を眺めては唸ったりする。
そして定期的にここへ遊びにやってくる明朗に対しても、あまり歓迎するような顔をしなくなった。いや歓迎する顔はきっと一度もしていないだろうが、それでも「勝手にしろ」といった具合に気にも留めていなかったのは事実。
それが、最近はあからさまに表情に出す場面も見られ、明朗もさすがに「嫌われちゃったかな」と、悲しげに肩を落としていた。
明朗は三桜の正体を知らないが、こうなるのも必然だろうと思う。
純血一族という勢力の人間である三桜にとって、結界寮の住人である明朗に周囲をうろつかれてはなにかと面倒だからだ。
かといって無理矢理突き放せば、怪しまれる。
韜晦はこの並折に於いて常識なのかもしれないが、それを悟られないように生きる用心も必要だ。純血一族なら尚更ね。
常に傲岸不遜かつ余裕綽々を気取る三桜は、意外にも明朗に手を焼いているのかもしれない。
まあ……明朗も明朗で、初対面の際に右ストレートをぶちこまれながらも、へらへらとしているような奴だから。三桜だけに留まらず各所で厄介な存在となっているだろう事も容易に想像できる。
なので頻度は減りつつも彼はやはり、ここへ遊びにやってくるのだ。
何故だ。
そして三桜の方はというと――今日も定例に違わず、ロビーのガラス戸と網戸を開けてぼんやりと空を眺めていた。
今日はさほど暑くもなく、むしろ少々冷えるぐらいの気温で、空は曇っている。
彼女にとって眺める空の模様に拘りはないということか。
「まったく。昼間と夜の気温差はなんだ……この分だと、今夜も冷えるぞ」
立ったまま呟き、彼女は一つ息を吐いた。
確かに、夏真っ盛りだというのにやけに夜が冷える。
世界を股にかける死使十三魔に属していた私が、日本の四季を詳しく知るわけでもないが、それでも土地の気候を考えてもこの冷え方は少々気になった。
気が向いたら並折の気象情報を調べてみるか。
そんなことを思いつつ私はいつものように大きめの網椅子に腰を落ち着け、新聞を開いたまま三桜の様子をひそかに窺っていた。
「ん?」
すると三桜の目の前に、一匹の野良猫が現れた。迷い込んだらしい。
「うん、うん。ああ、暑いなあ」
野良猫は、三桜の方へ頭を上げて懸命に鳴き声を出している。
それに対して三桜が相槌を打っている。
「なんだ貴様、つちのえとから来たのか? 随分な遠出だな」
あの三桜が足を折り曲げ、縁側に腰を据えた。
猫は夢中で三桜に声を向ける。
私はこんなに人間に対して積極的にコミュニケーションをとろうとする猫は見た事がなかった。まるで世間話が成り立っているように見えた。
三桜は鳴き声に対して表情を変えて応答しているし、猫は三桜の言葉を待ってから大きな鳴き声を繰り返す。
不思議に思う私がおかしいのではないかと錯覚するくらい、自然だ。
「成程、家族を連れてなぁ。貴様も大変だな。つちのえとで何かあったのかねえ。何、挨拶? 貴様達、この林に居を移すの? ふうん。いやいや別に私様の事を気にする必要はないよ。それはそうと林の奥にさあ、小さいけど滝があるじゃん。見つけた? そっか、後で行ってみなよ。怪我すんなよ。また顔見せに来いよ」
小動物へ一方的に言語を放った後、ひらひらと軽やかに手を振る三桜。
猫は最後に一度大きく鳴き、庭から出て行った。
……少しだけ三桜が心配になった。
「さて、ずっと開けてると冷気が逃げるからな――って、どわああ!」
「随分機嫌が良いじゃないの」
私は伸びをする三桜を立ち上がらせず、彼女の肩に顎を乗せ、吐息交じりに囁いてやった。
常に大胆不敵で意気揚々と偉そうな態度を振りまく女が、小動物を相手に会話じみたままごとをし、挙句満足そうにしている。
からかうなら、この好機を逃す手は無い。
「ざ、柘榴っ? 居たのか? いつから?」
「いつからって、ずっとよ」
「そうか、私様に何か用か?」
「何よ。いつもは用なんか無い癖にあたしに絡んでくるあんたが。あたしは用が無いとあんたに声を掛けちゃいけないわけ」
「いや別に、そういうわけじゃ……」
「それとも、あたしが猫の鳴き声を出さないと、駄目?」
「き、貴様という奴は……」
「野良猫相手に、随分とメルヘンチックなやりとりをしてたわね」
「す、数百年と生きた人間は猫語を理解するようになるのだ」
「あんた何歳よ」
「二十三くらい……」
「いろいろとおかしいじゃない。いつもの事だけど」
「最後のは余計だ」
私の顎を肩に乗せたまま、三桜は溜息を吐いた。
……なんだ? やけにおとなしいじゃないの。
本格的に心配になってきた。
「どうしたのよ三桜らしくない。最近のあんた、一層変よ」
「一層って言うな」
「猫とじゃれていた事を差し引いても、変。毎日外ばっかり眺めてさ。毒入りの食べ物でも拾って食べたんじゃないの?」
「毒……」
やっぱりおかしい。
また遠い目をしている。
「暑さで頭が……さらに残念なことに」
「貴様のその毒を吐く口はなんとかならんのか」
三桜が人差し指で私の唇を撫でてきたので、おもわず肩が痙攣した。
いきなり何をするんだ気持ち悪い。まさに猫撫で声じゃないか。彼女は飛び退くように離れた私を、これまた色っぽい目で見てくる。
迂闊だった。こいつが変態だって事をすっかり忘れていた。
過去に一度、指を舐められるという体験をしていたというのに。学習せずにまた接触した私が悪いのか。
いや、変態が悪い。
怯えて警戒する猫のように、私は三桜と一定の距離を保つ。
果たして彼女の言う毒とはなんなのか。それは三桜の抱える事情であり、はっきり言って私が首を突っ込むべきではない。
学習しろ。私はいつも後悔ばかりしていた筈だ。
そもそも私は他人の事を気にしていられるほど余裕のある立場か?
自問に対する自答は、否だ。私にも探し物があり、探し人がいる。
三桜が誰を待とうが、任務に行き詰まろうが、それは彼女自身の問題であって彼女自身が解決するものだ。私には関係ない。
羽田立荘に居付いてからひと月が経ってしまった。私も進展がない。のんびりと並折の自然に囲まれた生活を満喫している場合じゃあない。
「あら? 三桜ちゃんとクロちゃん、相変わらず仲がいいのね」
ロビーの中に耳触りの良い声色。
三桜を警戒し、自分の怠惰さを反省していたところに、矢神聖歌が現れた。彼女の声は気に入っている。なんだか安心する。
聖歌は羽田立荘の中にいるときは、常にエプロンを着ている。だが今は着ていないという事は、外出でもするのだろう。
そういえばこの一ヶ月……炊事も洗濯も、掃除でさえ彼女一人に任せきりだったと気付き、自己嫌悪の感が加速した。
お嬢様気質の三桜は気にもしていないようで、聖歌へ軽い挨拶の言葉を投げ掛けてから、開けっ放しだったガラス戸を閉めた。
「ん、聖歌。出掛けるのか?」
聖歌のエプロン姿を見慣れていたのは三桜も同じだったらしく、違和感から彼女が外出するのだと悟って言う。
私と三桜が同じ思考をするということは、どちらも似たり寄ったりのぐうたら生活を送っていた証拠だ。猛省の必要あり。
こんな怠惰な女を二人も抱えて、それでも文句ひとつ漏らさない聖歌。名前に劣らぬ女神様か。
「買い物に行ってきますけど、三桜ちゃんは何か要る物や用事ある?」
「私様はないなあ」
「クロちゃんは?」
「あたしもない」
「そう、じゃあ夕飯の支度に間に合うよう帰ってきますから。お留守番、お願いしますね」
三桜は右手を挙げてビシリと敬礼。
私もつられて敬礼。何故だ。
「いつ明朗君が来るかわからないので、鍵は掛けずに行きます。不審な人が訪ねてきても中へ招いちゃ駄目ですよ。危ないと感じたら、すぐに逃げる事」
三桜は左手も挙げて両手で敬礼……ってアホか。
そもそも、この三桜より危なくて不審な奴を探せという方が難題だ。
考えてもみろ。自称凶悪強盗殺人犯が、この羽田立荘へやってきたとする。正面からでも、裏口からでも、屋根からでもいい。侵入したとする。
どんな成りゆきを思い描いても結末は一つしか思い浮かばない。
純血一族の末裔――守野三桜が、返り血を浴びて笑っている姿だ。
両手で敬礼するこのアホな警備員は、最強の変態なのだ。
だから聖歌は安心して外出するといい。
「じゃあ行ってきますね」
三桜のダブル敬礼には微々とも反応せずに聖歌は玄関へと歩いていく。彼女は彼女でなかなかの強者だった。
そんな聖歌の後ろ姿に「待った」と言う警備員。
「傘持ったか?」
「傘?」
「ほら」
三桜が後ろ指でくいくいっと指した先は、先程閉めたロビーのガラス戸。
数拍置いてから――ぽつり、ぽつり、と。
雨が降り出した。
「すごいわ三桜ちゃん! どうしてわかったの?」
驚いて手を合わせ、目を丸くする聖歌。
私もさすがに驚いた。
預言者じみた芸を披露した三桜は、得意気に自分の鼻先を指で叩く。
「ニオイでわかる」
犬かお前は。
聖歌は傘を持って出掛けて行った。玄関の戸が閉まるまで彼女の背を見送った私は、そのまま隣へ視線を移す。
そこには当たり前のように両手を挙げて敬礼もどきをし続ける女の姿。なんで私が、背の高いこいつの醜態を見上げなきゃいかんのだ。
「もういいよ警備員さん」
「諸手を挙げて、不審者を歓迎するであります!」
「歓迎するなよ」
両手を挙げて歓迎するのは、少なくともそんな物騒なものではない。
「コホン」と、咳払いした三桜は腕を下ろし、首を左右に倒す。
――ボキ、ゴキ。
これが関節の音かと問いたくなるくらい豪快な音だ。
「さて柘榴。貴様にお使いを頼もうじゃないか」
ふざけるな。
もう一度言う。ふざけるな。
お前はつい今しがた聖歌に用事はあるかと尋ねられて首を横に振っただろうが。
「お前は生粋の馬鹿かよ! 聖歌に頼めばよかったじゃないの!」
「私様は私様だ! 馬でも鹿でも犬でも猫でもない!」
「なら豚か! 雌豚か!」
「それは興奮する!」
「やめろやめろやめろ! その返しはやめろ!」
なにこいつ怖い。誰か私を助けろ。こんな女と一緒に居たら何をされるかわかったもんじゃない。もうこの際、明朗でもいいから!
目を固く閉じて腕をがむしゃらに振る。
「柘榴、貴女に頼みたい事があるんだよ」
「おいよせ! さりげなくあたしを貴様呼ばわりから格上げするな!」
「わかった、落ち着け。落ち着くんだ。ちゃんと理由も説明するから」
――足音だ。
三桜がこちらに歩いてきている!
「ちょっと待って近寄らないで――うわあ!」
何故だ、何故私はこんな変態と一つ屋根の下で生活しているんだ。
薄々感付いていたが、これで確信した。
三桜は――同性を好む女だ。聖歌に対しても、私に対しても、やたらと色目を使っている。逆に明朗にはとことん冷たい。
そういう冗談だと今まで思っていたが、もう冗談だとは思い難くなった。
「まさかこんなに耐性がないとは思わなかったよ」
私の顔は、弾力のある丘に埋まり、両側から包まれていた。
抜け出そうにも三桜は私の頭を抱えてしまっている。
「ほーら、こうすれば落ち着くだろ」
「もご……もご」
視界は三桜の胸によって覆われてしまい、呼吸もしづらい。
あ、足……片足を触られている。
三桜の手が、私の太腿部に触れている。他人に自分の肌を触られるというのは慣れていないからなのか、己の意識とは別に身体が震えた。抵抗しようにもいざという時に思考と身体が連携できていないこの歯がゆい感覚よ。
更に膝の上まであるニーハイソックス。その生地と肌の隙間に指が滑り込み、そのまま手がゆっくりと臀部へ移動し始める。
臀部? 臀部というのは、つまりお尻って事だ。
私の――天宮柘榴のお尻。お、お尻……が、なななな撫でられてる。
(ふ、ふざけ……やがって……)
顔に熱を持っているのがわかる。なのに三桜の胸はもっと熱い。荒い吐息はそこでくぐもり、息苦しさに頭がぼんやりしてきた……。
肩が強張ってされるがままだ。彼女のタンクトップを握り締めるので精一杯なのが悔しい。
視界を奪われると妙に他の感覚が研ぎ澄まされる。気にもしていなかったのに雨が戸を叩く音が聞こえ、外の雨が激しさを増している事に気付く。懸命に取り込む空気には三桜の香りが混じっている。少し甘い香りだ。
「柘榴はあまりこういう事に慣れていないんだな」
「や、め……」
スカートの中に手を入れられ、最後の布を侵略――
「や!」
「おっと」
――されそうになったところで、三桜の手は止まった。
「箱入り娘ってところかい? 可愛いね」
「うう……」
屈辱だ。
もはや呻き声しか出ない。
「じゃあ改めて言うからな。頼みたいこととは、聖歌の件だ」
「もご……?」
発した言葉すら、でかい胸に埋まった。
苦しさが増し、私は助けを求めるように彼女の背に腕を回す。
「矢神聖歌を――尾行して欲しい」
――なんだって?
ここで三桜は私の頭を抱えていた腕の力を緩めた。
「ぷはっ」
顔を上げると当然ながら至近距離に三桜の顔があった。
「尾行? あたしが? どうして――」
と、ここで三桜の片手がまだ私のお尻に触れている事に気付き、それを引きはがす。
「どうして聖歌を?」
……疑問と興味が先行しているために質問を優先しているが、私と三桜は抱き合ったままの状態だ。
まあいい。それよりも三桜の発言が問題だ。
「柘榴。貴様と私様は六月、聖歌に出会ったな。そこで彼女はなんと言っていたか、覚えているか?」
「と、言われても……」
「妹の墓参りに行っていた。と、そう言っていたよな」
ああ。言っていた。
私は素直に首肯する。と、ぷよん、と顔が弾力に跳ね返される。これ腹立つわ。
「どうしてあの日に行ったのかも、聖歌は言っていたよな」
「うん。あの日はちょうど、妹の命日だって」
「命日だから墓参りに行った。命日ってのは、一年に一度だよな」
「そうよ」
すん、と一度鼻に空気を通した彼女は、
自分の額を私の額に当てて――囁いた。
「……聖歌から、墓土の臭いがした」
――はかつちの……におい?
私は聖歌の近くでそんなにおいを感じた事はない。
むしろ香水も化粧もほとんど使わない彼女自身は、石鹸が混じった清潔な香りを纏っている。
そんな彼女と、墓の土など、どうやっても結び付かないだろう。
「いつ嗅いだの?」
「ずっとだ」
「……ずっと?」
「そう、ずっと。出会った日から、今日――さっきまで。最初は妹の墓参りへ行っていたと説明されたから納得していた。だけど、いくら日を経ても、まるで染み付いているかのように聖歌は墓土の臭いを連れている」
「さっきの雨を予知したように、あんたの異常に敏感な嗅覚がそう感じたの?」
「まあね。私様はこれでも純血一族の人間。どこに私様の顔を知るやつが居るかわからない。だからあまり尾行には向かないんだ」
そうか。なるほど。
この三桜も、一応は矢神聖歌を疑って過ごしていたんだ。
私よりも確信性に富んだ理由と、彼女なりのアプローチで、聖歌の怪しい部分を明確にしたのだ。
疑いつつも怪しい部分など見つけられなかった私とは大違いだな。
「わかった。三桜、あんたの言う通りちょっと聖歌の後を尾けてみるよ」
「うん、頼む。聖歌はいつも《きのえと》駅で路面電車に乗り、隣の《ひのえと》駅で降りて買い物をする筈だ。商店街があるからね」
ええと。並折の地理は、たしか明朗に教えてもらったぞ。
此処が《きのえと》だから、路面電車が次に停車するのは、その商店街があるとかいう《ひのえと》で、その次が――墓地のある《つちのえと》だ。
よし。予習は大丈夫だ。
約一ヶ月間、ほとんど引きこもっていたから路面電車に乗るのも初めてだ。
ちなみに引きこもっていたのは、明朗の忠告があったからだ。きのえと駅へは定期的に通っている。あそこで鎖黒を失ったのだ。手掛かりとなる場所はあの駅しかない。
「早速、聖歌の後を追うわ」
「ん……む」
私が頼みごとを承諾したというのに、何故だか三桜は浮かない顔だ。
「私様としては、この続きをしたいところだけど」
そう言いながら、私のお尻を再び触り出した。
「続きがあるの?」
「うわー初々しいなあ可愛いなあ。私様は恋心を抱きそうだ」
変態の言動にだんだん慣れてきた自分が嫌だ。
「じゃあ柘榴、私様の部屋へ――うごぉ!」
ボディブローを打ち込んだ。
「早く聖歌を追いかけないといけないんだから。あんたが言い出したことでしょうに」
「そ、そうだったね……」
「いってきまーす」
「いってらっしゃい。傘を持っていくんだぞ」
私は愛想笑いとわかる愛想笑いを顔に張り付け、三桜に手を振った。
◆ ◆ ◆
羽田立荘に常備されている番傘を開き、勢いを増す雨のなかを出掛けて行った天宮柘榴。
ウェーブがかったセミロングの髪とスカートを揺らすその後ろ姿を見送った守野三桜は、玄関からロビーへと戻った。
三桜の目に先程まで読まれていた新聞が映る。
それを手に取ると、おもむろに天気図なんかを目の前に広げた。
ここで柘榴と違って愛想笑いだとわからぬよう顔に張り付けていた愛想笑いを剥がした彼女は、「シィ」と鋭い吐息を噛み合わせた歯の隙間に走らせる。
「……この雨天。ただの雨じゃないな」
彼女は渋い顔で、定位置である畳敷きのスペースにあぐらをかく。
(響との合流予定日から、かなり経ってしまっている。合図の狼煙は依然として上がらない。そろそろ織神楽家と、御上から催促の手紙が寄越されそうだ)
三桜は与えられた情報の一部を思い出していた。
――織神楽響。
彼は純血一族織神楽家の当主として、今年の五月、家系最重要任務を遂行すべく関西から関東へ出向いていた。無論、彼一人ではなく多くの部下を引き連れてだ。
毒爪の織神楽。
そう呼ばれる彼らが必死で追い求めた人間がそこに居たからだ。その人間は、《解毒》の爪を持つ者だった。
(解毒爪の能力者。幼い子だったと聞いている。なんでも母親と二人で織神楽を抜けたとか)
純血一族では身内同士で結婚し、子孫を増やすという鉄の掟が存在する。
その掟を破った母親は、一般人の男性と結婚し、娘と共に暮らしていた。
無論、それは御法度である。
結果的に涼子という名の母親は、夫ともども織神楽家によって殺害された。
残ったのは解毒爪を持つ、目的の娘だけ。
しかし――、
(ふふ)
あろうことか織神楽家は少女の回収に失敗したのだ。
(同じ当主として――御上の式神として、響の無様さは恥ずかしいったらないね。挙句、この私様がズタボロにされた響の撤退援助とは)
織神楽家は十分な戦力を準備して任務に赴いた筈だ。
それが結果を見てみれば――当主の響は重傷を負わされ、しかも追っ手まで付けられて命からがら逃げ帰る途中。部下達はすでに本家へと帰還してしまった。
(何があった? 傷を負ってから部下を先に帰還させるわけがないよな。あの馬鹿、どうせ慢心に苛まれ予期しない事態に遭遇したんだろう)
失敗した原因。織神楽響という純血一族屈指の猛者が重傷を負わされた事由。それは本人に問うしかない。
帰還した部下からの情報では、死使十三魔の名が挙がっていた。
(序列入りした奴と交戦した、と考えるのが妥当だろうねえ。新参の式神という雑魚の分際でいきがるからだ。この分だと織神楽家が喰われるのも時間の問題だな。果たして腹を満たすのは、日向か昏黒坂か九条か、はたまた私様達――守野か)
舌なめずりをした彼女だったが、ガラス戸を叩く雨の音が気になったのか、そちらへ顔を向けて目を細めた。
(それにしても――まるで抑圧された感情に、圧迫された涙のように)
まだまだこの雨は勢いを増すだろう。
三桜の鼻は、そう感じ取る。
(こんな降りかたをするこの天気は一体。確かに水を操る厄介な追っ手を付けられているとは聞いているがニオイが違う。呪詛を感じない。殺意や執念もない。見たまんまだ)
グルル、と三桜の喉が鳴った。
(響の奴――もう一つ、厄介なもんを引き連れてきたんじゃあるまいな)