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PUNICA【あったかい雨の降る夜】1


 寒いなあ。

 寒いなあ。


 冷たい床の上で丸くなっていた私は、身に纏ったセーラー服という唯一の布生地を両腕で抱いた。

 納屋の中。壊れた屋根の隙間からは、星も月も見えない。

 そうか、全部隠れてしまったのか……。

 少しの明かりでもあればと望んだ私の顔に、隙間から滴った水が当たる。

 ああ、冷たいなあ。

 眠る事さえ、できないや。


 鼻水が垂れそうになり、すする。

 夏の夜とはいえ、やっぱり冷えるなあ。

 足が指の先から凍え、両足をすり合わせる。裸足は辛い。

 両手は、股の間に挟んだ。


 すん、と。すすった鼻に、私の身体のにおいが紛れ込む。

 身体、洗いたいなあ。

 ……ちょうど雨が降っているし、シャワーの代わりになるかなあ。

 でも寒いから、嫌だなあ。こんな場所で裸になるのも恥ずかしいし。

 こんな場所、誰も来ないのにね。


 ここはどこだろう。

 頑張って走って、こんなところに来て、私は何がしたいのだろう。

 足の裏は皮がむけて血が滲んでいる。たくさん躓いて、爪はいくつか割れている。


 吹き込む雨が、やたらと顔に当たるようになったので、横になっても居られなくなった。

 膝を抱えて、太ももに顔をうずめて、静かに目を閉じる。

 前と後ろ。交互に身体を揺らして、即席のゆりかご。

 大丈夫。大丈夫。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」


 ――〝佐々(ささな)、お母さんがいつも味方だからね。大丈夫、大丈夫!〟


 身体。やっぱり洗おうかなあ。

 佐々奈、お風呂が沸いたから早く入りなさい。

 はあい。

 佐々奈、今度の大会でアンカー走るんだって? お母さん応援に行くからね。頑張ってね。

 うん、絶対に勝つよ。

 佐々奈?

 なあに、お母さん。


「――なあに、お母さん? いいえ佐々奈、なんでもないのよ」


 ……お母さん?


「佐々奈は、だいじょうぶ」

 私は瞼を開き、顔を上げた。

 雨の滴が屋根に反射する小さな小さな音だけが耳に入る。

 真っ暗な納屋の中で立ち上がると、足の裏がコンクリートの床に擦れて痛かった。

 お腹すいたなあ。

 空腹を訴えるように、胃がぐうと音を鳴らす。

 片手でお腹をさすり、生唾を飲み込んだ。

 髪を結んでいたゴムを二つ外し、足元に置く。

 私は歯を食い縛り、意を決してセーラー服とスカートを脱いだ。

 身体が凍える。

 土に汚れたそれらも畳んで足元に置く。

 同じように下着も。

 ついでに洗ってしまおうかとも思ったけど、他に着る物がないので仕方ない。


 納屋の戸に手を掛け、横へ引く。

 

 雨によって浮き上がった土埃のにおいが、私の鼻を通り抜けた。

 ひどい降り様だ。水滴のカーテンで、遠くが見えない。

 そんなシャワーの中へ、私は進む。

 緩くなった土に足が若干沈む感覚は、気持ち悪い。


「あの……こんな姿で、本当にごめんなさい」


 私は周囲の墓石へ、何故か会釈なんかをしていた。

 墓場という場所の中に、裸体で居るのだ。なんだか墓石に目があるようで落ち着かない。

 でも、身体に付いた砂や汚れは一気に流されていく。

 はあ……思い切ってみて良かった。


 でも、この後どうしよう。

 身体を拭くタオルも無い。

 火だって起こしていない。

 このままずぶ濡れで納屋の中へ戻っても――セーラー服を着ることはできない。

 畳んだ衣類を前にして途方に暮れる自分の姿が、いとも容易く想像できた。

 体が冷えて、さっきよりずっと凍える思いをしながら、全身が乾くまで小さく丸まっているしかないのだろう。


 わかっていたことだ。

 それでも雨に打たれている今は、そんなすぐ先の事でさえどうでもよく思える。


 あーあ。

 なんだか、もう、本当に。


「どうでも……いいや……」


 雨空を見上げるが、映るのは水滴ばかり。

 そんな中。

 私の心臓が――ドクン、と大きく鼓動した。


 張り付いた前髪が片方の目を覆ってはいたが、しかし私は狭い視界の中で確かに捉えたのだ。

 墓地を囲む木々の中――よりによって私の近くの木の上だ。

そこに潜み、こちらを窺う白い見慣れない衣装を。


「え……」


 呆然とするしかない。

 その白い影は暗闇の中ではひときわ目立ち、そして私に視認された事も気付いたようだった。


「何をしている?」


 言われて当たり前の言葉が飛んできた。男性の声だった。低く、威圧感のある声。だけど若さ溢れる声色。

 ――何をしている。

 そうだ、その言葉は意外でもなんでもない。こんな場所で雨の中、素っ裸で立つ私の方がおかしいのだ。おかしい筈なのだ。

 白い影は木から飛び降り、私の正面に立った。

 私といえば自分の身体を手なり腕なりで隠すこともせず、未だに呆然と男の姿を目で追うことしかできずにいた。

 おかしいのは、自分。

 だけど私にとっては裸で雨を浴びる事よりも、女として男性に全身を見られた事よりも、彼の姿に驚きと意識を持っていかれたのだ。


 真っ白な忍者みたいな格好。

 ニンジャ。あの忍者である。

 頭部を覆面で隠した、忍装束というやつだ。

 勿論、彼もずぶ濡れである。


 そしてなにより私の驚きと意識を圧倒的に上回った感覚は――恐怖。

 暗闇と降雨の中で爛々と輝き、今すぐにでも私を殺そうとしている、彼の目だ。

「此処は墓場。女、こんな処で、何をしている?」

 彼は再び問うてきた。

 何をしていると訊かれても……。

「み、水を……浴びています」

「墓場で水浴び。それで? どこから来た」

 完全に怪しまれている。

 いや怪しいのは彼も同じだ。

 それにどこから来たと言われても答えに困る。それでも答えなければ繰り返し訊いてくるだろう。


「そこの……納屋からです……」

 おそるおそる腕を上げ、先程まで雨風をしのいでいた場所を指差した。

 彼は納屋を一瞥し、強く息を吐く。

 ここで私は恐怖心から解放された。それは、彼の目から殺気が失せるどころか生気まで失せそうになったからだ。

 ふわりと浮いた足取りでふらつく白い忍者。

 彼の身体。その一部分に視線が集中する。

 左手に巻かれた包帯が血で滲んでいる。

 彼には左手が無かった。


「女――」

「さ、佐々奈……」

「何?」

「佐々奈といいます」

「なんでもいい。とにかく……其処を貸してもらうぞ……」


 そう呟くと引きずるような足運びで歩き出した。

 私は彼より先に納屋へと駆け、戸を開けた。

 この人は怪我をしている。消耗もひどい。

 というか、手を失うような重傷は初めて見たからなのか私は少し混乱していた。

 どうしよう。どうしたらいいのか。


「その怪我、病院へ行くべきですよ」

「構うな……」

「でもこのままだと危険です。なんか感染症とか、そういうの起こしちゃいますし。消毒しなくちゃ」

「消毒……? ははっ」


 間違ったことは言ってないと思うんだけど。小さく笑われた。笑ってる場合じゃないでしょうに。この人、自分の身体がどんな状態かわかっているのかな。

 身体を貸そうとしても身をよじられ、手を差し出しても弾かれた。

 納屋に入り、彼はずぶ濡れの衣装を着たまま、床に腰を下ろしてしまう。

 とにかく私は服を着よう。

 濡れた身体は……スカートをタオル代わりに使う事にした。背に腹は代えられない。

 下着を身に付けた上に、セーラー服だけを着た私は、再びおろおろとしだす。

 この人、放っておいたら死んでしまう。

 病院へ行きたくないのかな。何か理由があるのかな。

 それなら私が行くしかない。

 

 眉間に皺をよせ、気持ち悪さに耐えながら濡れたスカートに片足を通したところで――納屋の棚にもたれかかった怪我人が声を出した。

「女よ」

「だから、さっき名乗ったじゃないですか」

「ああ……なんだったか」

「佐々奈です! 江本佐々奈!」


 彼は一度だけ固まった。

 でもそれはほんの一瞬。すぐにまた声を出す。


「江本佐々奈。某の事は構わなくていい」


 それがし? ああ、自分を指し示す言葉か。格好だけでなく言葉遣いまで時代が違うらしい。

 それにしても無愛想極まりない人だ。私を見る目は明らかに冷たい。私の裸を見たって反応も無かった。ちょっとへこんだ。いや、自信があったわけじゃないけど。

 疲れているからとか、怪我をしているからとか、そういう一時的な状況ではあんな目はしないと思う。

 今もその視線は私に向けられているけど、人に見られているというよりもむしろ――監視カメラのある部屋に居る気分だ。普段からこんな目で生きているのかな。そう思うと、彼の機械的な言動に対してこちらは人間的な応答を貫きたくもなる。


「構わざるを得ないですよ。そんな怪我を見せつけておいて勝手なこと言わないでください」

「死になどせぬ。むしろ此処を貸してもらえたおかげで回復へ向かうだろう」

「な、なにを……言っているんですか! そんな重傷で!」

「いいから構うな。余計な事だ。貴様がどこから来て、何故こんな墓地の納屋なぞに居るのかも興味は無い。見たところ、ただの家出娘にしか見えんからな」


 言われ、私は言葉を返せなかった。

 家出娘……か。


「図星か。ならば、問題なかろう」


 そう言って、彼は座ったまま目を閉じてしまった。

 偉そうに。怪我して疲れて困っていたくせに。

 別にこんな納屋なんて私の家じゃないもん。なにが貸してもらう、だ。勝手に使えばいいんだ。忍者みたいな変な格好で紳士気取りするな。


「私にだけ名乗らせて……」


 膝を抱えて彼の前に座り、覆面で隠れた顔の中で見える数少ない範囲――目元をじっと睨む。

 隈ができてる。

 何日も寝ていなかったのかな。

 結局、この人は何者なんだろう。

 片手を無くしてるし、普通なわけがない。危険な人だろう。

 でも。

 目を閉じて肩をゆっくりと上下させる姿は、この人がとても身近な存在に思えてしまう。

 お母さんも、こんなふうに眠っていたなあ。


「響」

「え?」


 突然、彼は片目を開き、何かを呟いた。


織神楽響(おりかぐらひびき)。某の名だ」


 それだけ言うと、彼はまた目を閉ざす。

 ふん、と顔を横へ向けてしまった。


 やけに冷たい雨の降る、八月の夜。

 墓石に囲まれたこの場所で、私と織神楽響は出会った。



――PUNICA【あったかい雨の降る夜】

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