PUNICA【六月の果実】4
矢神聖歌という女も、やはり並折の住人だった。
その丁寧な物腰からは想像もできないが、外界では相応の事をしていたという事なのだろう。その点については詳しく触れなかった。
とにかく外界ではどうにも逃げられなくなり追い詰められていたところを、並折という結界都市を紹介され、命からがら逃げ込んだという。
彼女はきのえと駅を出て宿へと向かう道で、私達に自ら話してくれた。
「――だから、私は並折へ訪れる方にはできる限りの協力はしたいと思っています」
先頭を歩きながら嬉々として語る聖歌。
私はそんな彼女の背中が、少々危なっかしく見えた。
「それはそれで危険な気もするけど……」
私達のように危害を加える可能性の無い者ならまだしも、それなりに危険な奴へ協力など申し出てみろ。散々利用された挙句、下手をすれば殺されてしまうぞ。
「柘榴ちゃん、そういった事にならないように僕達結界寮があるんだよ」
まあ、彼女の心遣いが無ければ、こうして宿を提供してもらう事もなかったわけで。私に彼女の意思を否定する権利は無い。
「ねえ柘榴ちゃん、聞いてる?」
「黙れ弱肉」
「痛い!」
三桜が明朗の内腿へローキックを放った。
そんな光景はどうでもいい。
私は二人よりも歩みを進めて聖歌の隣を歩くことにした。
前だけを見て肩を揺らす矢神聖歌。
きのえと駅で会った時も、不思議な笑顔をする女だと思った。
上品。という表現が適切なのかもしれないが、その単語一つでくくってはいけない気がした。
私よりも背の高い聖歌の顔は、空を背景に煌めいて見えた。
(デュアルフェイス……)
その一言が頭を過ぎる。
その一言が私の安心を許してくれない。
その一言が聖歌への好意を妨げる。
この聖歌も顔は一つではない。と、卑しき思考回路に導かれる。
表情も言葉も一つの顔で、決してそれだけを信じてはいけないのだ。
人間には顔が二つあるのだから。
矢神聖歌は並折の住人で、過去に並折の結界を求めてやってきた逃亡者。
並折に来なければならなかった逃亡者。
だから彼女の煌めいて見える顔も偽物だ。
丁寧な物腰も言動も、柔らかい笑顔も、親切な行動も。全部、作り物なんだ。
人間なんて大嫌いだ!
心なんて大嫌いだ!
こんな物があるから偽る。隠す。装う。
そして私のように疑う。怪しむ。嫌悪する。
惑わすくらいなら、顔などなければ良いのに。
……さっき駅前を通った時に私の目を引いた物のように。
それは駅前広場の中心に設置されていた像だ。
なにやら空を見上げて両手を伸ばす子供の像。
まあ、駅前に像が設置してある事は珍しくないのだが、気になったのはその子供の像には顔が無かったからだ。
だからその子供に表情は無くて、ともすれば一体どんな表情で空へ手を伸ばしているのかもわからない。
雲を掴もうと必死になっているのか、空の綺麗さに顔を綻ばせているのか、はたまた助けを求めているのか。
像は半被を着ていたので体型がわからなかった。彼か彼女かも区別できない。
とにかく、一体あの像が何を表現しているのかさっぱりだった。
ああいう場所に飾られる像って、何か象徴するものやテーマがあって然るべきじゃないのか?
なんだかもやもやするだけのオブジェクトだった。
左右が対象ってところは好感が持てたし、顔が無い存在は羨ましかった。
象徴……。
顔の無い像が象徴するのは一つしかない。あの像は、カオナシの伝承を象徴しているのだ。だって顔が無いし。見たまんまだ。
カオナシの伝奇は並折へ来る前に番の姉さんから聞いた。
ということは、あの像の子供がカオナシ? どうでもいい。像に用は無い。
用があるのは、本物の方だ。
ちなみに番姉さんは正真正銘、生粋純粋、実在顕在の、雪女様だ。
あの妖怪雪女。
ただし日本で目撃されたから日本でそう呼ばれているだけであり、あの人がどこで誰から生まれて育ったのかは不詳だ。
とにかく番姉さんみたいな、とんでもない能力を持った人間が、妖怪として記録された例もあるという事を私は知っている。
なら妖怪カオナシだって、実在する筈だ。
私が並折へ来た目的は――カオナシ。
そいつを見つける事。
なのだけれど……並折に来て早々、肝心の武器を無くしてしまった。
カオナシ捜索より先に鎖黒の捜索だ。あれがなきゃ本末転倒。
先が思いやられる……。
(今は、流れに従うしかない)
強い日差しに晒されながらも隣を歩く聖歌の顔はとても涼しげだった。
まだ陽が昇り切っていないからでもあるだろう。
私もあまり汗をかいていなかった。
彼女の手元では、線香の束や鋏、マッチの入ったビニール袋が揺れていた。
「妹の墓参りだっけ」
話し掛けると彼女は顔を崩さずそのまま頷いた。
「ええ。今日――六月の二十四日は、妹の命日なのです」
「聖歌は朝一番に行ってたの?」
「ええ。並折を走る電車は、始発便が早く出ますから」
「そうみたいね。あたし達の乗ってきた始発が到着した時には墓参りを終えていたんだから」
「普段はあんなに人が混雑しないから、きのえとに降りた時は驚きました。ホームで大混乱が起きているんですもの」
「八号車両惨殺事件……聖歌はどう思う?」
私が問うと、聖歌は口元を結んで小さく唸った。
「うーん。当然ですけど、あれをやった犯人は、柘榴さん達と同じ電車に乗っていたって事ですよね。そして柘榴さん達と同じく、並折で降りるつもりだった」
改めて考えると、私が気を緩めて一号車両に乗っていた時も八号車両には犯人が乗っていたというのは、気持ちが悪い。
聖歌は続ける。
「どうして八号車両なのか。どうして車両内全員を殺したのか。動機が不明です。無差別殺人に間違いないのでしょうけど、外界からの情報でも、そんな無茶苦茶な事件は滅多に聞きません。そもそもですよ――?」
聖歌は顔を横へ――私の方へ向け、視線を合わせた。
「そもそも、並折という結界都市へ訪れるのは、並折の結界に頼らざるを得ない事情がある者ばかりなのです。つまりその殆どが逃亡者。しかし今回の事件は、下手をすればきのえと駅へ到着する前に電車が急停車し、その場で――並折の結界外で事件が拡散してしまいかねなかった。運転士が駅に近い位置だから駅まで電車を運ぼうと判断したから、この件は結界によって外界に漏れずに済んだのですよ」
確かに……聖歌の言う通りだ。
犯人は事件が外界に漏れることなど気にしていなかったという事だろうか。
「考えられるのは、犯人が『頭を盛大に御壊しになられた方』もしくは『逃亡者ではなく、別の目的で並折にやって来た方』であるという事ですね」
どちらも有り得る。
あんな虐殺を行う奴は、正直頭のいかれている奴としか思えない。三桜もその点の異常は認めるだろう。彼女はそういう奴が居る事にいちいち動揺するのをやめろと言っただけだ。
だから聖歌の言う前者――犯人が頭を盛大に御壊しになられた方である可能性は十分にある。むしろあの虐殺を行う者を思い描くには後者よりも前者の方がしっくりくる。
それはそれで厄介だが、もっと厄介なのは後者だろう。
後者は――並折で何かを行うという目的を持って現れた、という事になる。今、聖歌が言ったように八号車両の件は下手をすれば並折で処理されず日本全国へ知れ渡ってしまったかもしれないのだ。それを、目的を果たす前に行ったという事は、己が目的を果たす為にあの虐殺が必要だったという事だ。
「ねえ聖歌。貴女は二通りの考えを出したわけだけど。あたしにはその考え――とても甘ったれて聞こえる」
「そうですね……私の考えは、もっと悪い方へ考える事が出来ます」
「あたしなら、『頭を盛大に御壊しになられた方が、逃亡以外の何らかの目的を持って並折に来た』と考えるもの」
「考えたくもない最悪っぷりですよ、それ」
「同感」
「おそらく有り得ないであろう希望的考察は、『犯人は偶然、並折手前で犯行に及んでしまっただけ』といったところですけど」
「そこまであたし達もお気楽な頭をしてないわよね」
「ええ」
聖歌の宿はきのえと駅から歩いた方が早いと言うので、彼女の言う通り私達は四人連なって歩いていたが、駅から離れるにつれて私達は自然と身体の距離が密になっていた。
広い車道や歩道は駅の周囲だけで、車道から離れた今となっては緑豊かな植木に挟まれた歩道が続くだけだ。
ひたすら長い階段が続くが、しかし疲れを感じさせない穏やかな傾斜。
階段道を上りつつ振り返ると、眼下の景色に心奪われた。
家屋が一定の間隔で立ち並び、街の様子が一望できる。
海岸沿いに走る車道の向こう側には――そう、海だ。
燦々と注ぐ陽光に磨き立てられたように、硝子の粉を撒いたように、輝く海がそこにはあった。
目下に広がる一面の海と、緑と、家屋。私の立つ場所は、随分と高い位置なのだと実感した。
蝉時雨に包まれて、一層夏を感じる。
結界都市、魔都などと呼ばれる並折の街は、こんなにも綺麗で穏やかな自然に囲まれていた。
しかし――八号車両惨殺事件の現場を目撃した直後に、まるで何事もなかったようにこうして感傷に浸る私は、おそらく異常の類なのだろう。
それが少し哀しかった。
◇ ◇ ◇
更に細い歩道を進んだ先に聖歌の管理する宿はあった。林の中にひっそりと佇んでおり、門に大きな看板が飾ってあった。
羽田立荘と書かれていた。
読み方は、はだたち――だそうな。
正門をくぐると、うねる石畳が続き植木の奥に母屋が見えた。どの植木も手入れが行き届いていて、随分立派な庭である。専属の庭師でも居るのだろうか。
興味本位で付いてきた明朗もこれには驚いたようで、緑に挟まれた石の床で棒立ちになっていた。
三桜が聖歌に訊いてみたところ、やはり此処は元料亭だったとの事。
此処が私と三桜の並折に於ける住まいとなるわけだ。
少し気持ちが高ぶった。が、よくよく考えるとこの立派な庭の手入れも私達がしなければならないという事に気付く。すると高ぶった気持ちは急降下。母屋までの石畳の長さに比例して気も重くなった。
体力には自信があると豪語した三桜と、とりあえず多少は使えそうな明朗。二人には頑張ってもらうとしよう。私は……そうだな、屋内清掃を頑張るよ。
「二人だけではこの宿も広すぎますので、私も此処に居を移そうと思います。お食事の支度は任せて下さいね」
小さく拳を握りながらそう言ってくれた矢神聖歌に、私と三桜が歓喜のあまり抱き着いたのは言うまでもない。
どさくさに紛れようとした明朗は三桜が阻止した。
家賃や生活費の心配は、実は要らなかった。
三桜は純血一族という異常ながらも名家の人間なので、そういった心配はしたことが無いらしい。見た目に似合わずお嬢様だった。羽田立荘の庭を見ても驚かなかった彼女は、もっと立派な庭を見慣れていそうだ。
私もその辺の心配はない。
私の手荷物といえばこの手提げバッグ一つなのだが、その中には十分な量の現金と、鎖黒しか入っていなかったからだ。
だからこそ、鎖黒だけを盗まれた事が甚だ疑問なのだけど。
羽田立荘は立地も好印象で、此処ならば腰を落ち着けられそうだ。
しかし――少なくともこの六月は、落ち着いて鎖黒の捜索ができそうにないと悟った。
母屋へ入った私達を待っていたのは、埃だらけの廊下や置物。部屋に到っては障子の張り替えと壁の補修が必要な有様だったのだ。
聖歌は随分長い間、屋内を放置していたと思われる。どうして庭だけ手入れしてあるんだよ……。
逃げようとした明朗は三桜が取り押さえた。
私――天宮柘榴が並折を訪れた二〇〇六年六月二十四日。
魔都と呼ばれる結界都市での最初の作業は、掃除であった。