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PUNICA【I-miss-you】10

   ◆  ◆  ◆



【羽田立荘】



 羽田立荘の庭園がまるで空爆の跡のように。

 まともに歩けやしないほどに。

 荒らされた。

 一部始終を霧兎と一緒に建物の陰に隠れて見ていた私は、勝者のキリサメではなく敗者の方に驚いていた。震える膝を霧兎に悟られまいと押さえつけながら。


 陥没と隆起が散在するデコボコな庭。その中心で仰向けに倒れた死体。氷製人間、スレッジ・ハンマー。

 裂かれた腹部からは身体中の血が溢れて血だまりを作っている。でらでらとグロテスクに照らされた彼女の内臓が、氷製人間と死を結び付け、私に現実を示してくる。


 怖かった。

 キリサメと戦ったスレッジは、私の想像より格段に強い存在だったというのに。徹底的に破壊されて殺されてしまった。

 私は一般人とは違う。呪詛能力者とも違う。そう自分に言い聞かせて抑圧していた恐怖が、同じ氷製人間の死によって決壊した。

 とろけるくらい甘く、吐息が漏れるくらい生温い幻想。

 何者であろうと死ぬという事実を、私はひたすら対岸の火事のように思おうとしてきた。

 誰だって、まさか唐突に死が訪れるなんて思わない筈だ。そんなこと考えたくない筈だ。

 人間は常に危険と隣り合わせ。でも私の生きる世界は、その危険が擦り寄ってくる世界。だから死を意識しないようにするには、氷製人間というものを無意味に特別視するしかなかった。何も特別なことなんてないのに氷魂が奇跡の御守りだと私が勝手に思い込む。笑っちゃうでしょ。

 でも――怖いのよ。

 怖いんだもの。

 スレッジが死んで安堵なんてできなかった。

 目の前で同胞の死を目撃するのが、こんなにも衝撃的だなんて思わなかった。


「……柘榴さん」

「ひっ」

「……大丈夫ですか?」


 霧兎もまた激戦後の静けさに目を向けながら言う。

 ずっと私の服の袖を掴んでいた手は離さず、彼女は建物の陰から出た。

 スレッジ・ハンマーの死体を見下ろすキリサメは右腕を押さえている。霧兎はそれが心配だったのだろう。

 私達は三人、理不尽な崩壊に見舞われた庭の中心に集まった。


「キリサメ、腕はどう?」


 なかなか霧兎が言い出せないでいるので私が代弁する。

 すると彼は――すん、と鼻で息を吸い、大きく息を吐きつつ、首を横へ振った。

 私達の方に向けて見せてくれた右腕は折れた骨が外へ出てしまっていた。予想以上に重傷じゃないか。

 彼は右腕に装着された短刀を鞘ごと取り外すと黙々と応急処置に取り掛かる。

 折れた骨を元に戻すべく右腕を強く引っ張り、強引に中へと押し込んだ。それから短刀を抜き、鞘を添え木代わりに当ててベルトで縛り付ける。

 抜かれた刀は、霧兎の手に渡された。


「一戦目から手負いになるとは、予定外だった」


 静かに呟くキリサメ。

 私はその言葉に耳を疑った。


「一戦目?」


 単語を口にし、気付いた。

 ようやく気付いた。

 昏黒坂霧兎とキリサメの《やり方》に。

 こいつらやっぱり狂気の血筋だ。

 私が絶対に招いてはいけない奴らだった。

 こいつらの考え方は私と違い過ぎる。


「あ、あんた達は、最初からこの羽田立荘を……あたしを……巻き添えにするつもりだったのか……」

「巻き添え?」

「あんた達は歩く災害だ! 最初から潜伏する気なんてさらさら無く、此処で、全部を待ち受けるつもりだったんだな!」

「昏黒坂は基本的に標的一人を絞ってピンポイントキルを行う思考が薄い。我々の最終目標はたしかに一人だが、昏黒坂家から受けた指令は正確には――《できるだけ多くを殺し続けよ。指定する一人を殺害した時点で任務終了とする》というもの」


 む、無差別殺人……!

 ここで大暴れすれば結界寮が押し寄せる。いや、ここでなくともキリサメは、あのデパートで初日から大量殺戮をするつもりだったのか。とにかく一度感知されればこの街はもう止まらない。この街ではもう止まれない。

 それを知った上で、来る者来る者すべて斬り殺し続けるつもりだったのか。

 その過程で標的をも斬り殺し、それを達成の基準とするだけか。

 完全に……私は利用された。

 こいつら、私に戦う力が無いことを知っていながら、ここを戦場に決めていやがった。


「ふざけんな! ふざけんなァ!」


 私はキリサメに掴みかかった。

 もちろん私なんかが襟を両手で掴んだところで相手はびくともしない。

 それでも頭が真っ白になりそうだった私は、この容赦なき災厄に必死だったのだ。


「ここはあたしの居場所だ! これ以上壊されてたまるか!」

「……」

「場所を変えろ! もうあたしに関わるな! こいつを連れて――」

 私は霧兎を睨み、片腕を掴んで乱暴にこちらへ引き寄せる。

「こいつを連れてさっさとどこかへ消えろ!」

「……」

「このままだとあたしまで殺される……巻き込まれる……」

「巻き込まれる?」


 キリサメの左手が私の顔を掴んだ。

 強い握力はぎりぎりと頬を締め付けてくる。


「たしかに我々は災害だ。災害がいちいち被害を気にするとでも? どこかへ行け、消えろと言われて、その通りに動くとでも?」

「ぎ……っ」

「それにお前、俺が気付かないとでも思ったか。たった今俺が殺したこの女、おそらくお前の言っていたスレッジ・ハンマーという女だろう。こいつは――お前を狙っていた」

「ぐ、ぎ……」

「巻き添えだの巻き込まれるだの。被害者面甚だしいようだが、この女に関しては、俺がお前の事情に巻き込まれたというのが正しいのではないか?」


 掌越しに見えるキリサメの表情は何故か嬉しそうで、目を細めていた。

 私が憎らしく、そして同時に羨んでいるように。




「お前は卑怯者だ。人間らし過ぎる」




 そう言って、ずずずい、と私の顔に寄ってくる。

 立ち尽くす霧兎の姿がキリサメに遮られ、彼と私は至近距離で見つめ合った。

 すると――キリサメは手の力を緩めた。

 彼は私の耳元に口を寄せ、呟いてきた。


「頼みがある」


 ――は?


「ここからは俺の独自計画に移行する」

「……これはどういうこと?」


 小声で呟き返す。


「昏黒坂家からの命令は先述の通りで相違ない。しかし俺は、お前の言った《最初から潜伏する気なんてさらさら無く、此処で、全部を待ち受けるつもり》ではなかった」

「……?」

「まあいい。とにかく頼みというのは、霧兎の件だ」

「……霧兎の?」

「あの子を連れて――逃げてくれ」


 言葉を失った。


「俺が合図をしたら霧兎を抱えてでも此処から逃げろ。臭いが近付いている」

「に……臭い?」

「強烈な呪詛の臭いだ。その纏い主こそ我々の標的。だが右腕が使えなくなった今、俺に奴を仕留めることは難しい」

「……っ」

「俺としても羽田立荘を襲撃されたのは不本意だった。すまないと思っている」


 こんなの、こいつらしくない。

 昏黒坂家の命令に忠実なら、こんなこと言うわけがない。

 昏黒坂家の――純血一族の人間なら、こんな話をするわけがない。

 キリサメは一体どういうつもりなんだ。

 《最初から潜伏する気なんてさらさら無く、此処で、全部を待ち受けるつもり》ではなかった?

 命令に従うならそうするべきだろう。だから彼の発言は、命令に従う気が無いことを告白しているも同然だ。

 彼の独自計画とは……つまり命令違反。任務放棄を意味しているのか。


「俺と違ってあの子に呪詛は憑いていない。昏黒坂という苗字を隠せば、お前と共にこの並折で生きる事ができる」

「あんたはどうするのよ」

「万全の状態なら任務を遂行することも可能だと思っていたが……《奴》は昏黒坂の思っている以上に強力になっている。そして片腕も使えないなら、《奴》を殺すことなど不可能だ」

「そういう意味じゃない。あたしと霧兎は逃げて、あんたはどうするのか訊いてるのよ」

「三人とも姿を消すのはまずい。ここで戦闘を行ったことを察知されたから、《奴》がこちらへ向かっているんだ。死体だけ残せばお前も霧兎も、俺ごと追撃を受ける。だから俺は此処に残り、《奴》を待ち受ける」


 しんがり――ってことかよ。

 キリサメの言う《奴》というのがどんなに強いのか知らないけど。彩妖試剣の使い手が逃げに転じるほどなのか。


「お前は逃げた後、すぐに身の安全を確保できそうか?」


 すぐに身の安全を……。

 ああ。

 大丈夫だ。

 明朗が、きのえと駅に統界執行員が常駐していると言っていた。

 たしか名前は――アリス・エイリアス。

 霧兎のことも昏黒坂という旨を伏せ、話をでっち上げて説明すればなんとかなるだろう。

 私は頷いて可能であることをキリサメに伝えた。


「頼めるか?」

「頼むも何も、そうしないとあたしまで殺される」

「ふん。逃げるついでに俺のコートを拾って行け」

「それも頼み?」

「ああ」

「わかったわよ。それで、合図ってのはいつ出されるわけ?」

「今だ」


 腹立たしいほど突然出された合図。

 それを私が認識していないうちに、彼は私の腕を掴むと、霧兎の方へ身体を押しやった。


「今だ行け!」


 背後でキリサメの大声を聞き、反射的に私は呆然とする霧兎の腕を掴んだ。


「……え?」

「行くよ霧兎!」


 駄目だ、やはり霧兎の身体は即座に動かない。

 私はまずキリサメの言った通り彼のコートを拾い上げて胸に抱えた。

 そして小柄な霧兎の懐に肩を入れて――持ち上げる。

 その軽さに――少し驚いた。


「ざ、柘榴さん? 何を……」


 混乱する霧兎に返事をしてやる余裕はなかった。

 私が横目に見たキリサメは、羽田立荘の門外へ身体を向けて背中から長刀を引き抜いていた。

 彼の視線の先で木々が倒れる音。

 《何か》が木を薙ぎ倒しながら近付いているのだ。

 その《何か》は、キリサメの言う《奴》なのだろう。

 だから猶予はない。

 羽田立荘の正面からやって来るのでそちらから逃げることはできず、霧兎を肩に担いだ私は裏へと回ることにした。

 羽田立荘の裏は森だ。

 森を抜け、きのえと駅まで向かおう。

 そこにアリス・エイリアスが居る筈。

 霧兎の説明はどうする?

 私は羽田立荘の住人として結界寮に認識されているから問題ない。

 霧兎は……キリサメが外界で誘拐してきた少女だと説明しよう。

 身体の傷や眼帯は彼によって付けられた傷だと。そう説明すれば大丈夫だ。


 ……大丈夫だ。




  ◆  ◆




【羽田立荘――昏黒坂霧鮫】



 天宮柘榴と昏黒坂霧兎。

 二人が羽田立荘の庭から逃げ去ったことを確認したキリサメは、スレッジ・ハンマーの死体に刺さった刀を引き抜き、それぞれを鞘に戻した。

 強酸に焼かれて破り捨てた彼のコートの下は、身体に貼りつくような黒いスキンスーツ。彼の筋骨隆々とした肉体が浮かび上がっている。

 そのコートを柘榴が回収したことも見届けた。

 ――これで良い。

 キリサメは刀の峰を肩に乗せ、倒れる木の音が近づいてくるにつれ、殺気を剥き出しにする。

 《奴》が羽田立荘の門外に姿を現した時。

 キリサメは己の死を確信した。


「試剣などと言っている余裕はないな」


 《奴》は、羽田立荘の敷地に入らず、その場で立ち止まった。


「観察しているのか? 俺が何者なのか」

『……』

「俺はお前が何者なのか知っている」

『……』

「ようやく会えたな。死使十三魔《序列五位》」

『……』


 何も言ってこない。

 無口な奴だ。と、キリサメはそう思ったところで自分で自分を笑った。

 天宮柘榴の言っていた通り、無視されるのはなかなか不快だ。


『………』


――ぶん。と。

 奴――序列五位は、挙手するように腕を振った。


――ごとん。と。

 身構えるキリサメの目の前に。

 溶け始めているスレッジの頭の横に。

 背骨ごと肉体から抜き取られた人間の頭部が転がった。


「っ!」


 それは氷製人間スレッジ・ハンマーの仲間であり、スレッジ・ハンマーを援護するべく羽田立荘まで《わざと逃がされて来た》氷製人間の男の頭部だった。

 が、たとえスレッジが生きていたとしても、皮膚の剥がれた真っ赤な塊と化してしまっては、この背骨と肉塊が誰なのか判別できないだろう。

 眼球を刳り貫かれてぽっかり空いた眼窩。その空虚な昏さを見下ろしたキリサメは、視線を五位へ戻した。


「生憎俺はこいつらの仲間ではない」

『……』


 キリサメは長刀を握る左手の中指に意識を集中させる。

 中指には、脚部の短刀と繋がるリングが嵌められている。


「彩妖試剣、能力解放」


 中指の操作で短刀は引き抜かれ、素早い腕の振りで五位へ向かって飛んだ。

 短刀を如何なる力で防ごうとも彩妖試剣の能力によって短刀は拮抗する。

 さらにキリサメはリングの嵌められた人差し指も動かす。

 もう一つの短刀が、追撃に飛んだ。


『……くちゃ、』


 五位は双つの短刀を見もせず、口に含んだ何かを転がすだけ。

 短刀は両方とも空中で静止した。


「……見えざる手。いや、触手か」

『……くちゅ、くちゃ、』


 昏黒坂家の持つ序列五位の情報。

 その能力データもキリサメは得ていた。


「俺が何者か教えてやる」


 男は両目を閉じた。

 それが見開かれた時――純血一族、昏黒坂家としての彼の能力が発動する。


「俺の名は……」

『くちゅ、くち――』

「昏黒坂、霧鮫(きりさめ)

『――あはっ』



――ぱんっ。

 巨大な風船が弾ける音。

 キリサメという男は一瞬で破裂した。

 肉体は一瞬で飛散した。

 血液は一瞬で霧散した。


 まるで赤い煙幕と共に姿を消す手品のごとく。

 血煙を昇らせて男はこの世から消滅した。


 飛び散った肉片や血液は庭園じゅうに貼りつき、羽田立荘の壁にもへばりついた。

 九の刀は原形を失い、二度と元の形には戻らなかった。破壊という結果を押し付ける彩妖試剣の能力をも破砕してしまったかのように。圧倒的な力は、なにもかも捻じ伏せてしまった。

 キリサメの立っていた場所には彼の履いていたブーツの底だけが残り、他には何も残っていない。

 彼の姿が消えた代わりに――、

 不可視の巨華が、浴びた血で赤く咲いていた。




  ◆  ◆




【羽田立荘――天宮柘榴】



 この時期の森は動き辛い。

 湿った落ち葉が地に敷き詰められ、急げば急ぐほど私の足を滑らせる。

 もう何回転んだことか。

 服は泥だらけ。気にしてなんかいられない。

 キリサメが囮になってくれているうちに逃げなければ。

 泥だらけでも傷だらけでもいい。いち早く羽田立荘から離れなければ。

 なのに私の連れが、それを拒む。

 何回も転び、全身が泥だらけなのは、こいつ――昏黒坂霧兎の所為だ。


「放してください!」


 あまりにも暴れるから肩に担いでいられず、私は霧兎の胴体に腕を回して引きずるように斜面を下りていた。

 手が泥で滑って彼女を捉え辛い。霧兎は暴れるが力は全くなかった。非力極まりなく、私ですら片腕で袖を引けば彼女を転ばせられる。

 それでも顔や胸を両手で押さえつけられればそれなりの抵抗にはなる。《じたばた》というのは、かなり厄介なものだった。


「戻ります! 戻ります!」

「はあっ? 馬鹿言ってんじゃないっての! 誰が戻るか!」

「だったら霧兎を置いて行ってくださいよ!」

「そうしたいのは山々だっつーの。あんたの身柄はキリサメに頼まれてんのよ」

「キリサメさんがそんなこと頼むわけがないです! 我々の任務は続いているんですよ! どうしてキリサメさんだけ残るんですか、意味が解らない!」

「その標的って奴が殺害不可能だと、キリサメが言ったのよ――って、うわ!」


 ずるりと足が滑り、私は霧兎の袖を掴んだまま膝を着いた。


「だったら尚更戻らないと! キリサメさんは怪我を……」


 土に指を喰い込ませ、剥き出しになった蔦を掴んで抵抗する霧兎。

 彼女は視線を虚空に向け、硬直した。

 気付いたのだ……。

 キリサメが囮になったということを。


「うわああああ! キリサメさん、キリサメさん! 駄目ですキリサメ!」

「もう無理よ、諦め――ぐっ」


 もがく霧兎の足が顔に当たった。畜生、隠し通せばよかったのに不覚だ。

 ひるんだ私の手が袖から離れてしまう。

 霧兎は両手で土を引っ掻き、両足を滑らせながら這い上がっていく。

 立ち上がらせはしまい。

 私はキリサメのコートを霧兎の片足に引っ掛け、転ばせた。

 もう霧兎の意識は私を除外しつつあった。

 転ばされようと掴まれようと、ひたすら力いっぱい土を掻く。


「わかってない、わかってないよキリサメさん、霧兎はこんなこと望んでない!」

「……これはキリサメが望んだことよ」

「違う! うるさい! 霧兎が生きてきたのは幸せを得る為! それには――キリサメさんが不可欠なの!」

「これからも、幸せはたくさん――」


 今度は二人同時に足を滑らせ、地面に顔をぶつけた。

 私よりも体力の少ない霧兎は息が上がっており、土を掻く力も弱まった。


「訪れるわけがない……霧兎はこれ以外の幸せ、知らない」

「見つければいいのよ」

「柘榴さん……霧兎は、あまりにも失い過ぎたんです。霧兎の心は、もう耐えられません」


 必死に袖を掴む私の方へ、霧兎は振り向いた。

 片目を眼帯で覆ったその顔は。

 何もかもを棄て去った瞳は。

 純粋と表現するのはあまりに残酷に思えて。


「放してください、柘榴さん」

「……」

「昏黒坂霧兎という人生の物語に、もう続きはありません」

「……」

「貴女だってわかる筈です。わかっていた筈です」

「……」

「だから。放してください」


 短篇に長篇を求める儚さ。

 薄い一冊を手に取って読み進めれど全く以て展開無く、最後のページに到達したように。

 表題、昏黒坂霧兎という物語は、これ以上読み進める事ができない。

 あまりにも解り易い装丁の物語。


「嫌」


 でも私は霧兎を離さなかった。

 人生を物語に例えたとして、その厚さがわかってたまるか。

 それは物語が終わった時にわかるものだ。

 勝手に決めるな。


「わかっていませんね柘榴さん。キリサメさんもわかっていない」

「あんたが何を言おうと、あたしは連れて行く」

「それが不可能なんですよ。それをわかっていない」


 首を傾げる。


「……この際言っておきましょう。霧兎の気持ちも勿論汲んでもらいたいです。でもそれ以前に、根本的に、柘榴さんとキリサメさんの判断は間違っています」

「は?」

「いいですか柘榴さん。昏黒坂霧兎は《生きているようで生きていない》存在なんです」

「はあ?」

「言い換えれば死にたくても死ねない、というのでしょうか。いや、違いますね。うーん、死にたくないけど生きているのが不思議? 死にたいけど死にたくもなく。んー、難しいですね」


 何を言っているんだ、この子。


「……まあそれはいいです。とにかく、柘榴さん。霧兎の身体を見て、これだけ傷を付けられて内臓を掻き回されているのに、正気を保っているのっておかしいと思いませんでしたか?」

「そりゃあ思ったけど」

「保っていられるわけがないんですよ。たとえどんなに強い信念を持っていたとしても、肉体に致死級のダメージが加わればとっくに死んでいるもしくは精神に異常をきたしている筈です」

「じゃあ、あんた幽霊?」

「はい」


 思わず噴き出した。

 馬鹿馬鹿しい。そりゃあ死体を人形として蘇生させる傀儡屋が居るくらいだから、可能なのかもしれない。だが純血一族にそんな技術があるか?

 死んだ純血一族の能力者が復活したなんて話は聞いたことがない。そんな技術があれば、連中の強力な能力者――式神が入れ替わることもない。そもそもこんな少女にその技術を用いるか? 霧兎は無能だぞ。


「死んだ者が現世に還りたいと望んでもそれは叶いません。でも私は――霧兎は、蘇ってしまった」


 妄想癖――か?


「《彼》が、霧兎を望んだから」

「それって……キリサメ? もしかしてあんた、キリサメの妹?」


 霧兎は答えなかった。

 正解ではないのか。


「彼が望んでくれるから霧兎は留まっていられます。望む者が居なくなった時、霧兎も居なくなります」

「だからその彼ってのはキリサメのことでしょ。キリサメが死んだら霧兎も消える。そういうこと?」


 こくり、と霧兎は首肯した。

 直後。

 遠くで何かが破裂したように――ぱんっと音が鳴った。


「……今。キリサメが逝きました」

「……」


 霧兎の口調に妙な違和感がある。

 どこか落ち着いていて、でもキリサメの死を感じて片目を潤ませている。


「消えるのは霧兎の魂だけ。残った器は――有効利用されます」

「有効利用?」


 復唱する私に向かって、霧兎は片目の眼帯をめくって見せた。

 ……鉄球?

 刳り貫かれた眼窩の中に、真っ黒な義眼が埋め込まれていた。

 それはギュルリと回転し、真っ赤な瞳を私に向けてきた。


「昏黒坂霧兎はここまでです」


 義眼は活き活きと見開かれ、対照的に霧兎の眼は弱っていくように瞼を伏せはじめる。

 何が彼女の身体に起きているのか。

 昏黒坂は、霧兎の身体に何をしたのだ。


「逃げて下さい柘榴さん。《御頭》が来ます」

「霧兎……?」

「黄泉であの子と会えるかはわかりませんが、霧兎はこの三日間だけで十分幸せでした」




  ◆  ◆  ◆




【羽田立荘――昏黒坂霧兎→昏黒坂霧人】




 私の目の前で、霧兎が《誰か》に変わった。

 姿は霧兎のままだが、彼女の目は閉じられ、眼帯の下にあった義眼がギョロギョロと周囲を見回し――彼女が絶対に見せないような、汚らしい笑みを浮かべた。


 ――誰だ。こいつは。


 霧兎の言っていた《御頭》という奴か?

 霧兎の身体に別の人格が宿った?


「む、霧兎?」


 声を掛けても届いていない。

 霧兎は泥まみれの身体を起こし、腕を組んだ。

 くんくん、と鼻を鳴らしている。

 そして――吼えた。


「ファァァァァァァック!」


 言葉も出ない。

 ほんとうに霧兎は、彼女の人格は、消えたのか。


「やっと死にやがったかクソ遅ぇんだよガキが! shit! 状況が思いの外進んじまってるぜ馬鹿畜生! 奴ぁどこだ! プンップン臭うぞおいコラァ!」


 笑顔も汚ければ言葉も汚い。

 ギョロギョロとひっきりなしに動いていた義眼が、私を捉えてピタリと止まった。


「おう、なんだお前かよ。三百九十六番は始末できたのか?」


 三百九十六番……だと?

 何者だこいつ。どうしてカクテルズ時代の私の呼称を知っているんだ。

 誰と勘違いしているんだ。


「……おぉっと、しまった。今はアニマじゃねえや。ま、いいか」


 ア、アニマ?

 死使十三魔、序列八位の魔眼?

 こいつが?


「今はって、どういうこと……」


 恐る恐る訊いてみると、霧兎の姿をした何かはまた汚らしくにたりと笑う。


「俺ぁ死使十三魔のアニマであると同時に――純血一族、昏黒坂家当主。昏黒坂霧人(きりと)でもあるのよ」

「な……んですって……」

「で、これをあっさりバラしちまうってことは、お前を生かしちゃおかねえぞ音符マーク。っつーわけだ星印」


 死使十三魔にスパイ?

 それも純血一族の当主……式神が!

 どうなっているの、番姉さんは気付いているのか? 誰か気付いているのか?

 私の知らないところで、何かとてつもなく大きなことが起ころうとしている。

 いや待て。私の知ったこっちゃない。私は死使十三魔を抜けたんだ。


「生かしちゃおかねえっつーか。まあ多分お前はここで死ぬだろうから俺が直接手を下す必要もねーか」

「霧兎は……霧兎は本当に……」


 霧人と名乗ったソイツは少女の身体で品の無い動作をする。

 頭を掻き、唾を吐く。

 少女――霧兎の身体とは思えない動きで片足を回し、

「ぐあっ」

 私の顔を蹴ってきた。

 道化師を思わせるその身振り手振りに加え、ギョロギョロと上下左右に絶えず動く義眼。舌を出せるだけ出し、口角を上げられるだけ上げた顔。気味が悪すぎて幻想の類だと思いたくなる光景だ。

 霧兎は変貌してしまった。狂人に取り憑かれてしまった。


「Hah? 霧兎? ああ、こいつ? 聞いてねえのかよ、こいつはもう死んでるんだぜ」

「じゃあ霧兎の話は真実……」

「なんだなんだ、お前、もしかして昏黒坂霧兎と親しくなっちゃったクチか?」

「し、親しくなんて……」

「ノンノンノーン」


 霧人は人差し指を振る。

 そして私の口元を鷲掴んだ。

 キリサメといいコイツといい、そんなに私に喋らせたくないか。


「言わなくてもいいんだよBaby、口を開く必要はないさ、喋る権利はないさ」

「……ッ」

「俺が喋ってんのにお前に喋る機会があると思うか? ねえよな? こっちは時間がねえんだよ。見たいテレビ番組がたくさんあってさ、頻繁にチャンネル変えなきゃ。わかる? うん、わかるぅー」


 ぐいぐい頭を押さえつけられ、無理矢理に首肯させられた。


「時間がなくて急いでいるならあたしを放ってさっさとどこへでも行きなさいよ。って顔をしているな。ほら顔に書いてある。書いてあげる」


――パァン! と、今度は平手打ち。意識が飛びそうだ。

 わけがわからない。


「Oh! まったく仕っ方ねえなあ! それじゃあ俺がわざわざお前の為にペラペラと手短に教えてやるよ音符マーク。なにせ昏黒坂霧人という男は無駄から生まれる無駄の連鎖が大好きなんだから星印。ああちなみに俺は音符マークだの星印だの顔文字だのを多用するメール文章は大好きだ。何故かって? 偽るのが容易だからさ。偽りきれないにしてもこれほど効率よく感情を偽る効果を得られる方法ってのは無視できねえだろ? ネット文化が加速しつつある今、人間の持つフェイスはデュアルどころじゃ済まなくなる。お前の大好きなファッキン番姉様の大好きな言葉デュアルフェイス。これからも変わらずフェイスの時代だ。話が逸れているって? 気にすんなよ俺は興味のない女が相手だとよく話が逸れるし突拍子無く話を元に戻す男なのである効果音ドドーン。

 あのなあ、昏黒坂霧兎ってのは、俺が直接並折の様子を視察するために送り込んだ《眼》にすぎねえの。純血一族の中には稀に呪詛能力を宿さないもしくは脆弱な奴が生まれる。そういう奴は、大抵呪詛を封印されて一般社会に放り込まれるんだが。これがまた何故かって言うと、純血一族は秘密主義を一応貫いているつもりなわけで、つまり外界の情報を逐一取り入れるために一般人に偽装した純血一族の人間が必要なんだわ。

 俺の好物は茄子の甘味噌炒め。

 そんでまあ昏黒坂霧兎も役立たずとして生まれてきた残念な奴だったわけ。ところがどっこいファッキンキン。昏黒坂家に役立たずをのうのうと生かしておく風潮は無いんだなこれが。余所は余所! ウチはウチ! 帰ってきたら手洗いうがい! 霧兎の場合は一発使い捨ての人材として今日まで生かしておいた。今日、この日の為にこの少女は生かされてきたってこと。まあ正直使い捨て時はいつでも良かったんだがね。

 ん。キリサメが死んでどうして霧兎も連動して消えたのか。って顔してるな。ほら顔に書いてある」


――パァン!


「キリサメと霧兎は二人とも半端な呪詛能力者だった。ちょうど二人でやっとこさ一人分。一応霧兎にも呪詛は宿っていたんだぜ。昔はな。で、俺達は二人を調べているうちに気付いたわけよ。《この双子の姉と弟は一つの呪詛で繋がっていやがる》ってな」

「……?」

「ハイ喋らなーい。言いたいことはわかってるけどずっと俺の独壇場。仕方ねえから俺達は呪詛を全部キリサメの方に移したわけよ。霧兎の方はその場で処分しようと思ったんだけどよ、どうも片割れが死ぬともう片方も逝っちまう面倒くせえ仕組みらしくてな。じゃあもう気遣い無用でキリサメも殺しちゃえよって、思うじゃーん? うん、思うー」


――ぐいぐい。


「もちろんそうしようと考えたさ。ただな、双子が生まれて呪詛能力が二分化される現象なんて聞いたこともないわけよ。だから、二人とも殺したって構わねえから色々と実験を試みることにした。一卵性双生児なんで呪詛能力が遺伝したタイミングとかも科学的に調べてみた。だが重要なのはそこじゃねえ。何故死がリンクするのかも興味はなかった。俺が知りたかったのは単純明快、どのタイミングでリンクして死ぬかだけ。イレギュラーは奇策を弄するにはうってつけだ。つーわけで、霧兎の身体を嬲って嬲って、死ぬまで痛め続けてみたのである星印」

「――ッ!」

「うん、案の定死んだ。ところがどっこいSon of a bitch! 霧兎の魂が肉体に戻ってきやがったんだよ冗談じゃねえだろ。霧兎が言うにはキリサメの魂に呼ばれたとかなんとか。まあ苦痛の末に吐いた言葉だから信憑性はなかったが、こうしてキリサメが死んだと同時に消えたのなら、ある意味真実だったってことだな。

 血に呪詛を宿す俺達は、古来不可思議な鎖で縛られていると言われている。一族の一部の馬鹿はそれを絆だの家族愛だのと解釈するようだが、そんなロマンチックなもんじゃねえよ。呪詛は呪詛。地球の平和を守るスーパーパワーでもなけりゃあ、ヒーローを生み出す善意の塊でもない。死して尚、未練がましく現世に留まるばかりか、通常とは異なる現象という禁断の商品を、代償という通貨でぼったくる悪徳商人だ。とはいえそんな悪徳商人の存在も無視すれば影響はない。わざわざ通貨を握り締めてこちらから取引を持ちかけない限りはな。呪詛能力者はその取引を持ちかけた成れの果てってわけ。

 ようするに霧兎の魂が還ってきたのはキリサメの願いだとかそういう綺麗事じゃねえってこと。肉体は痛めつけ過ぎて成長止まったし。そんなのは呼吸しようが飯食おうがもう生きてすらいねえ。魂があっても肉体が理を反したゾンビだ。呪詛は俺達純血一族が思っている以上に厄介なシロモノだと痛感したね。顧客を手放すまいと必死なんだよ。霧兎とキリサメのように少しでもイレギュラーが生じればその意思が垣間見える。俺達は――魂まで縛られている。

 そんなわけのわかんねえ現象も有意義に活用して、魔眼の運び手に仕立て上げる霧人様すごいだろう? うん、霧人様すごーい」


――ぐいぐい。

――ぐいぐいぐいぐい。


 ……どうしようもない屑の外道だが、この男には――得体の知れない怖さがある。

 先刻までの霧兎と挙動のギャップがありすぎる所為か? いやそんな見掛けの問題じゃない。死使十三魔では序列八位として君臨しつつ、その正体は純血一族の式神でもあるという実力者だから? たしかに恐怖の理由としては十分に値する。でも、そんな強者に対する恐怖は今までも感じてきた。だからそれだけじゃあない。

 頭が切れる。切れすぎる気がするのだ。

 魔眼というのは、霧兎の片目に埋め込まれた義眼のことだ。

 並折という街が呪詛を感知すると知り、そして身の安全を確保しつつ内部を観察するために霧兎に埋め込んだ。これで自分は安全な場所に居ながら、魔眼を通して並折に顕現することができる。

 簡単なことではない。意識転写の魔眼を発動して霧兎の身体を使うには、霧兎の意識がなくならなければ。つまり器から魂のみを消さなければならない。

 だから霧兎とキリサメが今回の任務に選ばれた。

 初めから二人は死ぬ前提だったんだ。

 キリサメが死ぬということは相応の敵と交戦したということ。キリサメの実力を十分に見極めていないとこんな人選はできない。下手をすれば霧兎の肉体ごと消される可能性もあったわけでしょ。

 全部計算していたのか、はたまた霧兎とキリサメ以外に手段を用意しておいたのか。

 どうでもいい。こいつの企みなんて私には関係のないことだ。

 こいつの言っていた通り、私は早くこの場を去りたい。これ以上こいつに付き合い続けるのはどう考えたって危険だ。


「おいお前、もう行っていいぞ」

「……はあ?」


 いきなり霧人は私から義眼の視線を逸らし、そんなことを言った。


「よくよく考えたら俺が顕現する時にはキリサメは絶対に死んでいるわけじゃん。キリサメと《奴》の戦闘でも観察しようとか、そういうの無理だったわけじゃん」


 初歩的なミスすぎるだろ。


「ザクロとかいう奴の抹殺だったか? 精々頑張って成し遂げて死ねよ。俺がお前を煽ったのは少しでも場を荒らしたかっただけだからよ。十分役目は果たしたから、あとは勝手に死んでおいてくれ」


 行ってしまう。霧兎が行ってしまう。木々の彼方へ。霧の向こうへ。

 霧兎の魂はキリサメの元へ行った。なのに身体は霧人の意識を内包して彷徨うというのか。

 ふらふらと、あんな操り人形そのものの動きで。彼女の身体はまだ現世を彷徨うというのか。

 羽田立荘でもなく、きのえと駅でもなく、どこか。霧人の目的は謎めいていて、奴の向かう先はわからない。あのまま肉体が崩壊するまで彷徨うのだろうか。

 私にはわからない。

 何もわからない。

 私はただ逃げて、生き延びるだけだ。

 霧兎の姿が見えなくなり、私は独り泥の上に取り残された。


 関わりたくない。

 その思いが強すぎて、夢を見ていたような感覚に浸る。


 心の距離を置こう。

 キリサメも、霧兎も、他人事のように思う事にしよう。

 だって私には本当に無関係なんだもの。


 足元に落ちたキリサメのコート。

 そして霧兎が暴れた時に落としたらしい――あの、汚い手紙。


(……)


 コートを拾い上げると、そのポケットから何かが落ちた。


(………)


 封筒だ。

 古くて汚い茶封筒。

 拾い上げ、表面を眺める。


(…………)


 拙い字で、書いてあった。


――《霧鮫へ》


 中身を読む気にはなれなかった。

 見たくなかった。

 何も考えたくはなかった。

 要らぬ想像をしたくなかった。


「ちくしょう……」


 霧兎の持っていた手紙と、キリサメの持っていた封筒。

 二つをコートで包み、私はその場に埋めた。


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