PUNICA【六月の果実】2
『人間が生きている』
これは三桜の言葉だ。
最後尾車両で乗客が全員死んでいる、という男子学生の咆哮で一号車両は静まり返り、直後――その後ろから二人三人と続いてやって来た者達は同じ言葉を口にした。
後部車両から駆けてきた数人は勿論、赤の他人である。一時は静寂に包まれた一号車両も、混乱の声が次々に上がり始めた。
黙ってその様子を眺めていた私が三桜の様子を窺った時――彼女は懸命に窓の外へ視線を向け、生唾を何度も飲み込んでいた。
酔ったのか? だらしないなぁ肉食系女が。
そう冷やかそうと彼女の肩に手を乗せる――って痛、痛い。
待って、痛い痛い。なに、え?
ちょっと三桜、なにしてんの痛い痛いってば。
腕に爪が食い込んでる。そんなに長い爪付けてたっけ?
え? え?
三桜? おい、肉食系って本当にそういう意味じゃないよ?
「み、三桜! なんであたしの腕、かじるの? 痛いって!」
三桜はびくんと痙攣した後に我に返り、吸った上に口腔内で弄んでいた私の中指を解放した。
頭おかしいんじゃねーのこの女。
涎に塗れた中指を自分のスカートで拭くと、歯でも立てやがったのか血が滲んでいた。
彼女は完全に引いてしまっている私の存在など気にも留めず、片手を顔に当てて汗を拭う。そして耐えきれずに言ったのだ。
「人間が生きている……」
頭おかしいんじゃねーのこの女。と思ったら案の定頭おかしかったですよ。
顔が高揚して興奮状態だぞ。変態ここに極まれり、だ。
と――こいつが最初から普通の女だと知っていれば、最後までただの変態妖怪『指舐め女』で済んだのだが。
守野三桜は血に呪詛を宿した変態一族の末裔なのだ。ただ指を舐めるだけの変態ならまだ可愛いものさ。こいつが私の腕を引っ掴んで指を口に含んだのは、指を舐めたいという欲求に因るものなんかじゃあない。
人を殺したいという欲求に因るものだ。
下手をしたら私は指を噛み切られていたかもしれない。
一層頬をひくつかせて一歩下がる私に向かって、三桜は変態音声を変態再生し始めた。
「心ならずも決まった時間に起床し、機械的に食事を摂り、何気なく、誰もが恒久的に、うんざりだとすら思いながら過ごすだろうこの時間。現代に於いては、うんざりだと思う事すら放棄してしまう奴も多いこの時間。どいつもこいつも生きちゃいない。私様の目には、くっそ不味そうなジャンクフードに見えた。ところがどうだい、この光景……」
空っぽの人形に魂が宿り、人間として生きているじゃないか。
そう言いながら三桜は異様に長い舌で唇を舐めたのだった。
◇ ◇
次の駅で電車は停車し、乗客は全て降ろされた。
私と三桜はこの駅で下車するつもりだったのでそのまま改札の出口へ向かえば良いのだが、電車を降りた私達の目の前ではパニックを起こした乗客がそこらじゅうで喚き、駅員は縦横無尽に走り回り、野次馬は集まってくるばかり。
全八両編成の電車の最後尾で事件が起きたのだ。
事件・事故が一つ起きると、その情報は日本中へと配信される。これだけの死者が出たのなら確実だ。
――しかし並折がそれを許さない。
幸い、乗客の大半は此処で事件を知り、見てしまった者は此処で死体を見てしまった。
並折という結界の中で。
並折は別に異次元のファンタジックワールドではない。並折という結界を知る者だけが並折の結界を活用し、何も知らぬ一般人と日常を共にする街。
何も知らない此処の一般人達は、たとえ目の前で人が殺されようと、たとえ抱き締め合う途中で相手の首が吹き飛ぼうと、それを異常と捉える事はできないのだ。何の感想も抱かず死体を踏み付けて歩行を継続し、何の反応も示さず恋人の死体を置いて着替えに帰る。
まるで街に意思があるようじゃないか。
ああ、これは外界に漏れてはいけない。という現象は、日常から隔離してしまう。
並折は、そんな街なんだ。
だから、今この場で悲鳴を上げている連中も、事件だと動き出した警察機関も、少し経てば八号車両で何が起きたのかなんて忘れてしまう。興味も失せてしまう。
犠牲者達はどうなるのか。遺族は心配しないのか。
しない。
街はまるで運命の糸を握っているように全てを手繰り、全てを無理矢理に無へと改竄する。
この街の恐ろしいところは、そこだ。
この街で死んでしまうと、並折の住人の記憶以外から、存在は抹消されてしまうのだ。
だから八号車両で死んだという者達は――もう外界では存在すら消されてしまった事になる。親族は無意識に遺物を捨て、部屋を片付け、住民票を始めとする個人情報は、弄る事のできる立場の人間が灰にしてくれる。無意識に積極的に一個人を消しに動いてくれる。
まるで神様。
一生物のトラウマを刻み込まれた目撃者の悲鳴も、私はさほど気にしていない。すぐに解放されるのだから。
電車は八号車両だけを切り離し、『現在○分遅れで云々』と通知しながら平常運転に戻る。
溢れ返らんばかりの恐怖や、混沌と入り乱れる感情は、魔法のようにサッパリスッパリ彼らから消え去るのだ。
◇ ◇
八号車両まで様子を見に行った私と三桜は、その凄惨な光景に言葉を失った。
車両の窓が――血で染まっている。
助けを求めた被害者の手形がいくつも残っており、ガラスに付着した体液は様々な色。停車直後に見に行ったのでまだ場を取り仕切る係員も集まっておらず、私達は車内の様子も見る事が出来た。
入口の前で立ち止まり、顔をしかめる私を置いて、三桜は中の様子を見に行ってしまう。
現場は最悪。吊り革から手首がぶら下がり、床には飛び散った骨や歯が肉を付けたまま転がり、肋骨を剥き出して内臓を吐き出す胴体が座席の上で横になっていた。
生々しい。まだ瑞々しさを保った塊が、まるで河原の石のようにごろごろと。これ何人分あるの……?
三桜が摘まみ上げて観察しているのは――下顎だ。顔の上半分が無く、下へ引き千切ったような痕跡があった。首の皮が一緒に剥がれている。
原形を留めている死体は一つもなかった。
老若男女区別なく、この車両に乗っていた全員がジャムにされている。ああ嫌な想像した。しばらく朝食にパンは控えよう。
「こいつの歯、見てみろ」
三桜が見せてきた下顎。何を見ろと言うのか。
「奥歯が割れている。歯を食い縛った為に割れたんだ」
「なに……どういうこと?」
三桜は私の問いを無視して幾つかの胴体を蹴って転がす。
サッカーボールのような扱いで集められた胴体はどれも頭部や四肢を失い、柔らかくも長い腸が巻き付いていた。彼女はそれらの首元を引っ掴み、滑りを帯びた断面に指を突っ込んだり広げたりしている。
「うむ……やっぱり上手に取り除かれてる」
こんな場所で鑑定士を気取るのはよせ。
「何が」
「声帯」
あっさりとそう言った三桜は近くの座席の、かろうじて汚れていないシートで手を拭う。その表情は、体液に手を汚した不快感など微塵も抱いていない、嬉々としたものだった。
「やってくれるね。ここまでやられちゃうと悔しくなっちゃうね」
「だから、どういう事なのよ。こんな、形を失った肉片を楽しそうに調べて――一体何がわかるっていうの?」
若干の苛立ちを含めて、もう一度問う。
今度は三桜も答えてくれた。
「この犠牲者達、手足もがれてもまだ生きてたって事だよ。あの死体も、この死体も、腹を裂かれて皮も爪も剥がされて骨を磨り潰されてる間も――意識はあったんじゃない?」
なにそれ……この人達、すぐに死ねなかったの?
声帯が取り除かれていたという事は……悲鳴を上げられないようにしたという事?
奥歯が擦り減り、割れていたのは、苦痛に悶え、耐えようとしたから?
それって、もう――拷問じゃないの。無差別拷問殺人なんて、質が悪すぎる。最悪よ。
「これだけの所業を、短時間でやってのける事が可能な奴なんて居ない。少なくともこれをやった奴は、痛みに苦しむ様を愉しむ類だ。短時間じゃあ意味が無い筈。それにこれだけの弱肉ミンチを、どんな機械を持ち込んで作り上げるってんだ」
どの肉片も、鋭利な刃物で切られたような断面じゃない。むしろ凹凸のある器具で擦切られたり、捻じ切られたり、千切られたりしたような痕跡ばかりだ。皮を剥がされ、大きな針孔を空けられたモノまである。
男女の区別なく、上半身から――下半身まで、徹底的に弄繰り回されたのだろう。こんな死体、私でさえも目を背けたくなる。楽しそうな三桜だって頬を引き攣らせているくらいだ。
残虐非道を極めた地獄絵図が、この車両の中に描かれていた。
なのに……。
なのに……どこにも、そんなあらゆる鬼畜行為に用いられた器具が見当たらない。一つもだ。
「三桜……あたしにはよくわからない……」
「だ、か、らぁ」
三桜の口が、耳まで裂ける。比喩ではなく、本当に。
みしみしと骨格が音を立て、女性なのに筋肉が隆起した。
それは一瞬。次の瞬間には元に戻っていた。
しかし彼女の身体は一瞬だけとはいえ、確かに私の目の前で〈人ではなくなった〉のだ。
「私様達のような、超常の力によって行われた殺戮って事」
「貴女達……純血一族のような?」
「そ。なんだ私様達の事、知ってんじゃん」
私の予想は正しかった。やはり彼女は世界危険勢力の人間だったのだ。
「ここで、よくある弱肉の話としては、優秀な頭脳を持った奴がズバッとこの謎を解決しにやってくるのだろうけど、まあ無理だろうね」
「超常の起こした事件だから?」
「イエスイエース。この事件は弱肉のトリックでもなんでもない。前の駅で車掌のアナウンスはまだ流れていたから、これは駅と駅の間を電車が走る十数分程度の時間で行われた。つまり〈十数分で車両内の乗客全員を解体して苦痛に苦しむ様を存分に愉しんだ後にミンチにできる奴〉が、やった事。そういう事。そんだけの事。七号車の乗客に気付かれる頃には全部終わってたなら、なかなか手馴れてるね」
超常……? これの何が超常だ。下顎を投げ捨てる三桜といい、この現場を作った者といい――たとえ人を超えた力を行使する者であろうと、これは、この状況は、異常だろう! そうだ、異常なんだ! 超常とか強者とかそんなものはどうだっていい。それ以前にこれは――、
「異常だ!」
思わず叫んでしまった。そんな私へ三桜は――侮蔑のような感情を含んだ、静かな視線を送るだけだった。
それどころか。私の反応を楽しむかのように、視神経を伴って転がる眼球を、ブーツの底で一つ一つ踏み潰している。
周囲を潰し終えると――今度は飛散した脳漿の上に足を置き、くちゃくちゃと音を立ててリズムを刻む。
なんだ……なんなんだ、こいつ。
「解っていないねえ、柘榴」
彼女はルージュのひかれた潤いのある唇を少しすぼめて――ちゅ、と私へ向けて音を出した。虚仮にされていると理解した。
嘗めるな。私だって死体は見慣れている。そういう世界で生きてきたのだ。それでも、私はお前を――お前のようなモノを嫌悪する。
それでも私の反応は間違っている。きっと、そうなのだ。
この場に於いては。
「そう。勘違いしちゃあいけないぜ。此処はもう、並折なんだ。並折の――『きのえと駅』さ。並折は貴様の思っている通り特殊極まる結界都市だよ、まさしくもれなくその通り。でもこの街へ来たなら、それは別段重要じゃあない。貴様、解ってる? 本当に本当に解ってる?」
びき、びき――と、三桜の首元からこめかみへ大きな筋が浮き上がる。
「この化け物じみた結界都市へ訪れる者の中に、貴様のような一般人思考の奴なんて居やしないってんだよ! 『いやーん死体こわーい』『やだーこんな事する人が居るなんて、信じられなーい』なんて抜かすパーフェクト間抜け自殺志願脳内お花畑は尻尾巻いて帰れって事だよバァカ! 解ったか柘榴!」
誰がパーフェクト間抜け自殺志願脳内お花畑だ、こら。
私は眉間に皺を寄せて三桜の襟首を引っ掴んだ。
「ようは、これも通常で平常で日常って事でしょう! 並折では! でもあたしは異常だと言い張るね! お前らのような変態雑食厚顔無恥のファッキンビッチ共なんかと一緒になって『あら今日も死体が落ちておりますわねホホホ』『私の殺害記録は云十人ですのよホホホ』なんて会話に参加してやるものか! 一般的思考? 大いに結構よ! あたしはこの思考で此処に居座ってやる! そしてお前は通常と異常の区別が次第につかなくなっていくのさ! 思わぬタイミングであたしに『異常』と言われて感覚の変化に畏れるといいのよ! 『いやこれは貴様の感覚でも普通だと思った』なんて間抜け面を晒しながらね! お前こそ解ったか三桜!」
一気に肺から息を吐き出して声を乗せた為、大きく肩が動く。こんなに叫んだのは久しぶりだ、畜生。
「やはり貴様は馬鹿だ」
三桜の喉から音が鳴る。まるで彼女の気管に入った球が震えるような、獣のそれと変わりない唸り声だった。
「並折は隔離された街だ。日常からも、外界からも。言ってしまえば――この街自体が一つの世界だ。たとえ貴様が外界の正常を掲げ、此処で叫び、並折を非難したところで、意味は無い。確かにこの殺戮を並折以外の街で行えば、貴様の言う異常は異常として誰もが認識するだろう。何故ならばそこに生きる者の大多数が殺人とは縁が無いからな。日常では有り得ない光景として認識されている。しかし貴様は別だろう、殺戮も行われかねない日常で生きてきたから、この並折を知って此処まで来た」
襟首を掴まれていた三桜は私の手を弾き、一度両目を閉じた。
次に片目だけ開き――私の額へ指を突きつける。
「貴様は一般人じゃあない」
冷ややかで、嘲笑を含んだ声だった。
「自分は私様達とは違う、だなんて思っていないか? 貴様が生きてきた環境も見てきた光景も描くべき未来も訪れるべき最期も、一般人とは違うんだよ。並折に足を踏み入れる者は総じてもれなく余すところなく、そういう奴なんだよ。だからこの街は、そういう奴しか生きられない。そういう奴しか居ない筈なんだよ。もしも生き長らえたいのなら、パーフェクト間抜け自殺志願脳内お花畑――ではなく、貴様の言う変態雑食厚顔無恥のファッキンビッチであるべきだ。というか、貴様が歩んできた人生は既に変態雑食厚顔無恥のファッキンビッチそのもので、貴様は明らかに変態雑食厚顔無恥のファッキンビッチのくせに『私は違う』と声を荒げている。教会に並んだシスターの一人が突然般若心経を唱えだすくらいの違和感さ」
「お前が言うな。車両に現れた時のお前の姿はハレルヤと叫ぶ坊さんと変わらない違和感を纏っていたぞ。あたしは、お前の言うように殺人が日常に居座る世界で生きてきた。でも、それが当然だなんて思った事はない」
「……此処を知り此処へ来る立場の人間が、皆同じ感性を持っているとは私様も思っていないさ。私様は忠告をしているだけだ。貴様が弱肉と同じような反応を示し、弱肉の感性に従って行動するんじゃないかとね」
「余計な心配だ。こう見えてお前の思っているほど生温い世界で生きてきたわけじゃない」
「私様と行動を共にするなら面倒は掛けるなと言いたいんだよ。こちとら生肉ぶら下げてサバンナを歩くような真似はしたくねえのよ」
解ってる。そんな事、解ってる。
三桜だって初めて訪れたというのに、彼女は片手を胸に当て、もう片手を背に回し、私へ顔を上げたまま会釈して言った。
「ようこそ、クレイジーな街――並折へ」
◇ ◇
私は気付くのが遅れたが、惨劇の八号車両を観察しに来ていたのはどうやら私達だけではなかった。一人の男性と、二人の女性。その三人組もまた、私達とは別の乗車口から中を観察していたのだ。
たった今、三桜が言ったように、此処はもう並折なのだ。駅のホームで吐瀉物を撒き散らす人達とは、住む世界が異なる。あの三人組もまた、並折の住人なのだろう。
そこまで考えないと動かない私は――実に愚かだった。
さほど多くない荷物。その中の、私にとって最も大切な物の存在を、ここに到ってやっと思い出したのだから。
三桜のような超常の力を持っていない私が、単身この並折へ来られたのは、その物の存在があるからに他ならない。自分の身を守る――武器だ。
それは小さな折り畳みナイフにすぎない。しかし、勿論、ただのナイフではない。これがあれば大抵の危機は乗り越えられる代物だ。
危険地帯に足を踏み入れた今。その存在こそが、私の命綱である。
肌身離さず持っておくべきだ。手さげのバッグなどではなく、上着のポケットに移動させておくべきだ。
そう慌ててバッグの中に手を突っ込んだ私は、直後――脳に直接、液体窒素を吹き付けられたように、思考が硬直した。
同時に視界も真っ白になる。
「ない……」
私の命綱が、消えていた。