PUNICA【I-miss-you】6
十二月十五日。
昏黒坂侵入二日目。
この日は朝からちょっとした事件があった。
それは事件などと大袈裟に表現するほどのことでもないのだけど、それでも私にとって驚くべき光景だったので、事件と呼びたい。
三桜と聖歌が居た頃と同じ三人分の食材を使った朝食。なんとなく懐かしさを感じながら作ったそれを、ロビーの隣に位置する食堂へ運んだ。
せっかく食堂があるのだから住人はそこで食べる。六月からの慣習だった。アポイントなしで現れる明朗は時々ロビーで食べるけど。
起床直後、昏黒坂霧兎とキリサメに食事の時間を伝えるべく部屋を覗いたのだが、部屋には霧兎しか居なかった。
キリサメはどこかと尋ねると「わかりません」だそうな。相方の管理くらいちゃんとしてもらいたい。
で、予想はしていたけど食堂で待っていたのは霧兎一人。
キリサメもさすがに飲まず食わずでは生きていられないだろうから、一応彼の分は残しておくことに。
純血一族は御飯党だ。というのは守野三桜の名言である。
なので純血一族十三家系の一つ、昏黒坂家たる二人の為に、メニューは御飯と海苔と味噌汁。
盆に乗せた食事を霧兎の目の前に置いてやる。
「おはよう。どうぞ」
「ふぃ、おはようございます……」
寝癖ボサボサの黒髪の下の、まだ微睡んでいる目が私を見た。
これが殺人集団の一員なのだというのだから信じられない話だ。
あれから一度目を覚ましたのだろう。霧兎はパジャマ姿だった。
……昨日は真っ黒な格好だっただけに、水色の寝巻はギャップがありすぎる。
「これは三桜さんが買ってくれました」
「うん、なんとなくそう思ってた」
「サイズが大きすぎたので寸法の調整までして頂いて」
パジャマの胸元、というか前面にでかでかと文章がプリントされている。
《Non ti faccio dormire per tutta la note(今夜は寝かさないよ)》
少女にこんなもん買い与えるな。
サイズを調整してまで着させるな。
「あ、柘榴さん。ちょっと台所へ行ってもいいですか?」
「どうぞ。あたしは先に食べ始めてるから」
霧兎は食事に一度だけ口を付けてから席を立ち、食堂から出て行った。
しばらくして戻ってきた彼女に視線を送った私は――味噌汁を啜っていたまま硬直した。
両手に大量の調味料を抱えているのだ。
それらをすべてテーブルの上に置き、どうするのかと見守り続けると。
次々に私の作った朝食に入れ始めたではないか。
「ちょちょちょっと、ちょっとお待ちなさい」
「はい?」
顔だけこちらに向け、尚も霧兎はマヨネーズを両手で絞っている。
「あー、えーっと、あたしの味付け、美味しくなかった?」
「あっ! いえ、そういうわけでは」
そういうわけ以外にどういうわけがあるのか。
三桜もあたしの料理に文句は言っていたが、さすがに目の前で調味料をぶちこむ真似はしなかった。
それをこのガキは、さも当然のように、こんなもん食えるかと言うように、強烈な嫌味を実行している。
というかそんなに調味料入れまくった方が味がおかしくなるだろうが。なんだ、あたしの料理はそれ以下だと、そう言いたいわけか。
おいコラ、メープルシロップはないだろ、おい。
「あたしの料理、口に合わないなら次から食事作るのやめようか?」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
「失礼でしょ、それ」
「み、味覚が……」
「あたしの味覚が異常だって言いたいわけ?」
「違います。霧兎の味覚が……その……狂って……いるんです」
「――、なんですって?」
霧兎はペロリと小さな口から小さな舌を、申し訳なさそうに覗かせた。
歪な、ミミズ腫れのようなものが何本も走っていた。
「あんたその舌……」
切り裂かれ、縫い合わされたのだろう。
治りにくかっただろう火傷の跡まである。熱に因るものなのか欠損したのか、舌の形状ではなかった。
「誰にやられたのよ。そんな酷いこと」
「……」
「なんでこんな……」
「霧兎は、無能の役立たずなので」
「昏黒坂の連中にやられたってこと?」
「……」
疎まれているとは聞いたが、よもやここまでとは思わなかった。
無能だから身体を弄ばれて生き長らえる。
殺されない程度に痛めつけられて遊ばれる。
それが純血一族昏黒坂家の思考。
私も無能であるゆえに、境遇の違いにショックを受けた。
キリサメの霧兎に対するあの扱い方も納得がいく。戦えもしない能力も使えない昏黒坂は、ああいう扱いなのだ。呼吸して、食事を摂って、動くだけの人形。
裏世界でも少年少女の人身売買は珍しくないし、こういう仕打ちも少なくない。昏黒坂霧兎の場合、自分の家族にここまでされたのだ。一体どれだけの間地獄を見てきたのかわからないけど。よく精神が壊れなかったものだ。
「昼食は、砂糖とメープルシロップだけにしなさいよ」
「え……」
「酸いも甘いも辛いも苦いも関係なくぶち込んだって意味ないわよ。あんたが美味しいと感じる味を模索しないと」
「ああ……なるほど」
「で、夕食は辛くしてみる。明日は酸っぱいのを試してみる。そうしていけばいずれ霧兎に合った味付けがわかるでしょ」
「でも、いいんですか?」
「ただし全部食べ切ること」
「わかりました」
返事してマヨネーズてんこ盛りの味噌汁に口を付ける。身体に悪いと忠告したいがそれ以前の問題だ。そもそもこの子にそう忠告して、真摯に受け止めるとは思えない。
身体を重んじる思考なんて、もうずっと前に捨てているだろうから。
「今日あたしは買い出しに出掛けるけど」
「お出かけですか?」
「うん」
「霧兎も……」
「行きたいの?」
塩まみれの米粒を、砂利を噛むように咀嚼しながら霧兎は頷く。
「でもあの真っ黒な格好じゃ目立つわよ」
「……」
「じゃあ、今日あたしがあんたの服も買ってきてあげるから。あんたが出掛けるのは明日以降。これでどう?」
「はい!」
「後で服のサイズ見るから――」
「はい!」
霧兎は箸を置いてその場でパジャマを脱ぎ始めた。
「後でって言ってるでしょ」
「はい」
「朝食にラップしておくから、キリサメが来たら出してあげて。それから来客があっても出ないこと」
「はい」
食事を終えて、洗濯等諸々の仕事を終えた私は出掛けることにした。
羽田立荘の玄関を出たところで、キリサメを発見。
彼は腕を組んだ状態で仁王立ちしたまま、全く動かず彼方を眺めていた。
一晩中そうしていたらしい。
中で潜んでいてくれと言ったが、当然のように無言。
羽田立荘の庭に新しい置物ができたと思うことにしよう。
◆ ◆ ◆
【結界寮】
並折中から掻き集めた資料を一所にまとめた場所、資料保管庫は結界寮住人でも管理人の許可を得なければ入ることができない。
そこには結界寮住人に関して個々に独自調査を行った結果も保管されている。つまり、住人すべての知り得る限りの《正体》が、詰め込まれているのだ。
それを知るのは古参だけで、ほとんどの統界執行員は自分の身の上が調べられていることを知らない。
組織結成時からの住人である伊佐乃明朗は、保管庫の鍵の在処を知っていた。
誰にも見られないよう細心の注意を払ってここへやって来た目的は、二〇〇六年六月の組織編成資料を求めてである。
昏黒坂霧兎の言っていた、八号車両惨殺事件の犯人。
結局そいつがどうなったのかは管理人しかわからない。しかし情報として残っている可能性は大いにあると考えたのだ。
あの管理人達が、放っておく筈がない。
保管庫の中は広かった。凄まじく、果てしなく。
どう考えても建物の中とは思えない。
天高くそびえる書棚はびっしりと敷き詰められ、遥か彼方まで続いている。
まるで――、
「無限の書庫」
明朗は初めて目撃する空間に驚きもせずそう呟いた。
「結界屋さんの空間形成じゃない。これはもはや世界形成の域だ。こんな独自の世界を生み出せるのは、並折の妖怪くらいだろうね」
おそらくは安永筆・豊房の力で妖怪の能力を引き出し、利用したのだろう。
明朗はそう考え、一歩踏み出す。
書棚は彼を避けるように遠ざかった。
「かつて万物の蒐集に用いた妖怪《百目鬼》の図書館。盗人対策も万全ってことかな。いや、盗人なんか関係ないか。それも含めてコレクションなのだろうから」
それにしてもたかだか街一つ分の資料を保管する為だけに、百目鬼の独自世界を用意するとは贅沢な話だ。
扱うのが百目鬼本人でないのなら、砂上の楼閣に過ぎないのは否めないが。
明朗は右手を目の前に挙げ、スナップを効かせて振る。
すると巨大な書棚が収納した本を一冊も落とすことなく素早く移動を始めた。
「検索機能搭載ってことか。これは便利だね」
そのまま「二〇〇六年六月」と明朗が呟くと、遠くから一つの書棚が彼の面前に移動してきた。
更に絞り込むべく「八号車両惨殺事件」と呟く。
書棚は一冊のファイルを吐きだし、明朗の手元に飛ばした。
そのファイルこそ、二〇〇六年六月に起きた八号車両の事件について管理人が記したものだった。
しかし――、それを開いた明朗は舌を打つ。
「空っぽだ」
見たかった資料は抜き取られていた。
資料を残して、それを後からわざわざ抜き取るなんて真似をするだろうか。
ならばこれを抜き取ったのは管理人ではない。別の誰かだ。
こういうことをやりそうな者といえば……。
明朗はすぐに、矢神聖歌を思い描いた。
彼女は過去にも資料を勝手に抜き取った前科があったからだ。
それは結界寮への来客(梵と林檎の旧友、つまり元ティンダロスのメンバー)を殺して人形の素材にしようと企てたからだった。
結果として聖歌は失敗した。情報では鎌を武器にすると記されていたのに実際は違ったのである。見事返り討ちにされた聖歌はその後、管理人によって二ヶ月間の工房使用禁止という処分を受けたのだった。
腹いせだと明朗は思っているが、聖歌はその時に資料を全て焼却してしまった。
「……《死神》」
ゆえに検索を掛けても《死神》という異名に該当する資料は出てこなかった。
当時の名残といったところか。
とにかく、もし矢神聖歌が八号車両惨殺事件の資料を抜き取っていたとしたら、芳しくない事態である。
昏黒坂の求める人物が、あの人形偏愛家によって素材にされてしまったかもしれないのだ。
問おうにも聖歌は既にこの世にはいない。
困った明朗だったが、彼はふと思い出したように単語を呟いた。
「死使十三魔」
ずらりと書棚が目の前に並ぶ。
「結界寮住人」
並んだ書棚が一気に引っ込んでいく。
が、一つだけ残った。
それはファイルを数冊、吐き出して消えた。
明朗は驚くしかない。
死使十三魔でありながら、結界寮の住人である奴が、居るというのだ。
しかも此処の資料にあるということは、管理人も把握しているということに他ならない。
「いや……違う。これは百目鬼の能力。自動蒐集によって集められた資料?」
万物の収集を目的とする百目鬼の世界は、作成を中断された資料も独自に完成させようとする。ゆえにこの保管庫内は、管理人ですら把握していない情報も、存在する。
あの管理人達のことだ。此処を利用することなどまず無いので自律して蒐集を継続する機能に気付いていないのかもしれない。
明朗は一冊目のファイルの見出しを読んだ。
「グレナデン……ズ」
それは死使十三魔工作員に関する資料だった。
過去に幾度も結界寮に潜伏したという少女達の記録。
しかしその全ては謎の死を遂げたと記されている。
終わったことなので、明朗も興味を持たずファイルを放った。
次のファイルを手に取ったところで――、
彼は見つかってしまった。
「にゃあーん。明朗くうん、何してるのかにゃあ?」
明朗はすぐに持っていた資料すべてを放り投げて書棚に戻し、声の聞こえた背後を振り向いた。
そこには保管庫の扉を少しだけ開けて中を覗く女の姿。
頭には猫耳の付いた黄色いカチューシャなんかを付けていた。
「なんだ、雷華さんですか」
ほっと胸を撫で下ろす明朗。
「雷華じゃなくてサンダーキャット猫沢と呼んでほしいにゃ」
「何度も言いますけどその猫沢はどこから来ているんですか」
動揺を隠し、何事もなかったように資料保管庫から出た明朗は鍵をかけた。
彼の周囲を猫耳女がピョンピョンと飛び跳ねて、構って欲しそうにアピールする。
統界執行員、雷華。
過去に結界寮の住人二十人にアンケートが実施され、彼女の格好について感想を聞いたところ、二十人中十八人が《あざとい》と答えた逸話がある。
ちなみに残りの二人のうち一人は《ノーコメント》。
もう一人は《とても素敵だにゃ!(無効票)》である。
彼女はあまり細かいことを気にしないというか、面倒事は避ける性質なので、ここで見たことは口外しないだろうと明朗は確信していた。
「明朗きゅん、遊ぼうよう」
「また今度です。それより雷華さん、こんなところでどうしたんですか? 担当はひのえとでしょう?」
「にゃんと! 聞いていにゃいの? ひのえとで事件があったじゃにゃいか!」
「ああ……」
「それにボクは見たのだ! 明朗くんが浮気してるところ!」
「う、浮気?」
「ほら、ひのえとで仲良さそうに歩いていたにゃ。ボクに手を振ったあの時にゃ! あのクサレアマはどこの魚の骨にゃ!」
足早に去ろうとする明朗の後ろから飛びつき、顔に爪を立てる雷華。
「いたたたた、痛いよ!」
「におい付けとくにゃ! ボクのにおい付けとくにゃ!」
嫌がる明朗の顔に頬擦りし、身体を包むように抱きついて腰を擦り付けてくる。
「もう……。それで雷華さんは、事件の報告に?」
「ソッスネ!」
「なんすかそれ」
「やたらとお怒りな御主人様が『オラァ、さっさと報告しやがれミンチにすんぞ屑猫!』って言うから、ミンチにされたくないボクは報告に来たのにゃ」
「梵さん怒ってるか。まあ、無理もないね」
「ソッスネ!」
「ひのえとのショッピングモールの件でしょ。回収した死体から何かわかった?」
「溶けたにゃ」
「溶けた?」
明朗は足を止めた。
引き止めに成功した雷華は、彼の背中から離れてジャンプ。
彼を跳び越えて正面に立った。
「ボクが到着した時には身体の半分が噴水の中に溶けてしまってたにゃ」
「それ以外は?」
「サッパリにゃ!」
両手を腰に当ててふんぞり返る女に、明朗は額を押さえて溜息を吐いた。
「それ、もしかして、そのまま梵さんに報告したの?」
「ソッスネ!」
「……絶対怒られたでしょ」
「敏感な部分をつねられたにゃ……」
胸元を押さえてすすり泣く。
「それはお気の毒様でした。じゃあ僕はもう行きますので」
「慰めろにゃあああああ!」
雷華はアメフトのタックルよろしく明朗の両脚に飛び付いた。
やはりそのまま押し倒し、尻を振る。
「実はまだヒリヒリするのにゃ」
「知りませんよ!」
「見るかにゃ?」
「見ませんって!」
「ペロペロってして欲しいにゃ」
「だあああもう近い近い!」
「あ。そういえばドS様……じゃなくって御主人様が、なにか言っていたにゃ。ええと、そうてきはつ?」
「え? 総摘発? それって……」
身体を押し付けてくる女の両肩を全力で押しながら、明朗は眉をひそませた。
「結界寮管轄も含めて、侵入者の洗い出しをするそうにゃ。もしかしたら屋根裏にゃんかに隠れているかもだし」
(まずい)
完全に読み誤った。
彼は、まさか梵がそこまでするとは思わなかったのだ。
総摘発となれば結界寮の管轄だろうが関係なくなる。羽田立荘も含め、並折に存在する建物すべてを感知結界効果でスキャニングするからだ。そうなれば昏黒坂の二人は結界寮に捕捉される。
もちろん行うのは結界屋であり、彼に掛かる負担も凄まじいものになる。
「それは決定したんですか?」
「さあ? まだだと思うにゃ」
「……梵さんは今どこに?」
「まだ《結界にゃ》さんの部屋じゃにゃいかにゃあ。にゃんでも結界が破られたとかで忙しそうだったにゃ」
それを聞くや否や明朗は上乗りになっている女を弾き飛ばした。
そのまま廊下の先へと駆けてゆく。
床に転がり置き去りにされた雷華は、何故か尻尾を振りながら頬に片手を添えていた。
「もう、ボクの性癖を良く知ってるにゃあ明朗きゅん」
◇ ◇
駆け足気味で結界屋の部屋までやってきた明朗は、息の上がった胸を押さえて暗闇の中に立った。
雷華の言った通り。管理人の錫杖梵はそこに居た。
いかにも機嫌が悪そうに首を傾げ、部屋の中心で結界陣を操作する結界屋を監視しているような態度だ。
「何の用だ小僧」
こちらへ振り向きもせず、うなじに浮かんだ口で言う梵。
明朗も用件を伝える為だけに来たのだが、梵の奥――結界屋の姿を見るなり呆然とした。
疲労困憊。
満身創痍。
上半身をふらつかせながら、尚も結界陣の操作を行う男の姿が目に入ってしまったのだ。
皮膚全体に浮かんだ紫色の刺青。それは結界屋の身体を蝕むように蠢き、制御しきれない段階になっていることを表していた。
人体結界陣を過剰行使して、並折を覆う巨大な結界を大至急修復・調整しているのだ。明朗は結界屋ではないのでその負担は想像もできないが、確実に精神をすり減らしているのはわかった。
「梵さん、総摘発するんですか?」
「雷華にでも聞いたか」
「無茶です。通常数日掛ける結界の調整を短時間で行っている結界屋さんに、これ以上負担を掛けるのは危険ですよ」
「そうも言ってはいられん」
「ここで結界屋さんが倒れたら元も子もないです! 彼を休ませないと、本当に死んでしまいますよ!」
梵と明朗の会話すら気付いていないのだろう。結界屋は呼吸を荒くして作業を続けている。
そもそも結界屋には何も聞こえていない。
彼の耳から流れる血に気付いた明朗が女を睨む。
「まさか彼に無礼句を……?」
「ただの奴隷句。栄養剤みたいなもんだ」
ふざけるな。そう叫びそうになったが、明朗は飲み込む。
案の定部屋中に敷き詰められた結界陣は、黄金の輝きを弱めつつあった。その様子を「電池の切れかかったデジタル時計」と揶揄する梵に、もはや結界屋に対する思いやりなど期待できない。
ずかずかと梵の隣を通り抜け、明朗は膝を曲げて結界屋の腕を肩に回した。汗で湿った金髪が明朗の頬に貼りつく。
梵は明朗の行為を止めようとはせず、あくまで動かすのは頬に浮かんだもう一つの口だけだった。
「何の真似だ小僧」
「彼を休ませます。梵さんの能力で意識がもうないんですよ。結界術を行使することでどれだけ精神に負担が掛かるか僕はわかりません。でも奴隷句は逆効果にしかならない。結界屋さんは結界屋さんだからこそ、術の効率的な行使方法を熟知している。意識を奪ってしまったら危険です」
「……」
す、と結界屋を支えたまま立ち上がった明朗は梵を見据える。
合わせて梵は視線を逸らした。
彼女は何かを言おうとして片手を挙げて固まり、数秒間の思考を経て、自分の足元を指差した。
此処に直れ。という意味を解した明朗は結界屋を隅に寝かせて梵の近くに座り、彼女を見上げた。
「お前の意見を受け入れよう小僧。その代わり、見合った働きをしてもらう」
「承知の上です」
「一応結界の補強はしてあるものの。結界屋を休ませる以上、これ以上結界を破壊されたら私達の即時巻き返しが困難になる。つまりこのタイミングで純血一族なり死使十三魔なりその他勢力が並折へ総力戦を仕掛けてきたらまずいわけ」
「侵入者が斥候の偵察隊だという可能性を考慮するってことですか。でも、ひのえとで起きた昨日の騒ぎからするに、侵入者はそこまで潜伏を重視していないように思えます」
「そこだ」
梵はピッ、と指を振る。
「私と結界屋も、今回の侵入は異質だと思った。並折で行動する以上、私達結界寮の監視から逃れるに越したことはないが、それでも戦闘を行った。それは《結界寮に見つかることより避けなければならない事》があったからじゃないか?」
現場に居たことを隠す明朗も、梵の予想を支持した。
昏黒坂霧兎とキリサメ。そして殺された少年。少年の素性も目的も謎だが、純血一族の二人はたった一人の標的を殺すために来たと言っていた。その標的は結界寮に潜伏していると、あの二人は考えている。
むしろ見つかった方が何らかの動きを見せるとでも思ったのか。それとも天宮柘榴を守るためだったのか。とにかくあの二人が、さほど結界寮の目を意識していないのは事実だ。意識していたら全身に刀剣を巻きつけて出歩くわけがない。
昏黒坂。結界寮。謎の少年。
敵の数と正体すら掴めていない梵では、三つ巴の構図になっていることも思い描けまい。
「感知はできず敵の把握もできず。で、どうしますか」
「統界執行員からは未だ発見の報告は無し。上手に隠れていやがる。このまま結界屋の回復を待つのも手だが、その前に奴らがそれぞれの目的を果たして並折から離脱する可能性だってある。そんなもん私が許さん。だから――ふふ」
「だから……?」
「猟犬を放つ」
「結界寮は犬なんて飼ってませんよ」
「今年の六月頃に飼い始めた犬だよ」
六月に飼い始めた猟犬。
明朗は悟られないように平静を装った。
彼は動揺を隠すのがとても下手だったわけだが。
「なんだ小僧、様子が変だぞ?」
「いえ、べつに」
「とにかく、統界執行員は全員帰還させる。一度野に放てばあの犬は殺意の臭いに敏感だ。奴に並折を彷徨わせ、無差別に狩らせる」
「僕は……」
「お前には、奴の首輪に繋いだ紐を持っていてもらおうか。あははははは! 精々喰われないように気を付けな。ちなみに私は――」
梵は片手の小指を立て、明朗の目の前に出した。
それを摘まむと――すぽ。と第二関節から引き抜いてしまう。
義指であった。
「あの犬を保護する際に、小指を一本持っていかれた」
「も、もしかして、犯人がわからないままだった六月の、きのえと駅での事件は……」
「よく気付いたな。あいつの仕業だよ」
昏黒坂霧兎達の読みは的中していた。
八号車両惨殺事件の犯人は、まだ結界寮に居た。
しかも管理人公認の飼い犬として。
飼い主の指を噛み千切った猟犬として。
明朗は頭を抱えた。
◇ ◇ ◇
【同日――結界寮】
【猟犬/NO.5】
――くちゃくちゃ。
――くっちゃくっちゃ。
自室でくつろいでいたそいつは、乱暴に扉を開けて入ってきた男を無視してソファに寝転がり、テレビを観ていた。
腕に菓子袋らしき白いビニール袋を抱え、片手を突っ込んでいる。
「報告。梵様から命令が下った」
黒いマフラーと前掛けを身に纏い、さらに狐の面を顔に張り付けた統界執行員の男。
彼が言っても、返事一つしない。
慣れている男は静かに続けた。
「伝言。出撃だ」
ここで初めてそいつは男の方へ顔を向け、口に物を入れたまま首を傾げた。
――くちゅ、くちゃ。
『何言ってんの?』
「説明。事態は知っているだろう、並折に侵入した輩がおる。その一斉駆除を、お前が任された」
『いやいや、そういう事じゃなくてさ』
「継続。お前の為に梵様は呪詛弱効化結界を一時的に切るそうだ」
そいつは跳ね起きる。
――くちゃくちゃ。
『どうしたの急に。侵入者如きに手焼いてるのか』
「肯定。結界修復を急いだ結果、結界屋が倒れた。敵の中には呪詛能力者も含まれている。しかし数が不明瞭だ」
『手当たり次第駆逐しろって事か。呪詛能力者って、純血一族?』
「不明。純血一族かもしれんし、死使十三魔かもしれん」
『……』
「忠告。余計なことは考えなくていい」
『……イオの可能性』
「困惑。は?」
――くっちゃくっちゃ。
男を無視してリモコンでテレビを消し背筋を伸ばす。
突然やる気になったのか、そいつは箪笥の引き出しを開けて支度を始める。
狐面の男は傾げた首をそのままに、そいつが胸に抱き続けているビニール袋を指差した。
「質問。その袋はなんだ?」
『これ?』
支度の手を止めてビニール袋を突き出す。
狐面の男もただの菓子だと思っていたのだが、そいつが袋を逆さにして言葉を失った。
――ゴト、ボトボト。
――ゴロゴロゴロ。
カーペットの上に幾つも転がったのは、
人間の眼球。
ぞっとするような生々しき弾力は床に吸収され、視神経を付けたまま、幾つかの瞳が男を見上げていた。
空になった袋からは、体液と思われる液体が滴り、カーペットを濡らした。
「……っ」
狐面の下で顔をしかめる。
男の視線は眼球に向けられておらず、そいつの口元に集中している。
――くっちゃくっちゃ。
――ごくん。
喉が動き、そいつは咀嚼していた何かを飲み込んだ。
それは、やはり――。
『お菓子』
床に落ちた眼球の視神経を摘まみ、
飴玉のように口の中へ放った。
――グチュッ。
――ッチャ、くっちゃくっちゃ。
『そろそろ尽きてきた頃だから、丁度良かった。一つどう?』
「結構だ……」
男は視線を合わせぬよう顔を背けて返事し、踵を返して部屋の出口へ向かった。
逆さまのビニール袋を持ったまま男を見送ったそいつは、袋をソファの上に投げ捨てて再び箪笥に向き合う。
テレビの消された部屋の中では、眼球を咀嚼する粘ついた瑞々しい音だけが響いていた。
包帯と、新品のビニール袋を何枚か取り出す。
咀嚼音に鼻歌が混じりはじめ、いよいよ陽気に頭を揺らす。
――パタ、パタタ。と顎まで伝って垂れた液体が床に落ちた。
『えっと、たしか。あった』
保湿ジェルの入ったボトルを取り出し、ポケットに入れた。
最後に『ふん』と鼻で溜息を吐いたそいつは、用意された黒いマフラーと黒い前掛けを箪笥の奥から引っ張り出した。ここに来て渡されてから一度も着用したことのなかったものだ。
深々とマフラーを首に巻いた姿を、これまた長い間使っていなかった壁鏡に映して、思う。
(あ。悪くないね)
寒いので最近付け始めていた黒の手袋を嵌め、パンパンと両手を叩く。
(死使十三魔には制服なんて無かったんだけど――ま、たまには良いか)
鏡の中の自分と見つめ合いながらマフラーの位置を微調整。
(さすがに三位の兄貴も並折までは追ってこられないだろうよ。帰ったら怒られるね。それにしても梵の奴、いきなりとんでもない仕事を言ってきたな。それだけ切羽詰まっているってことか? 結界寮もそろそろ危ないんじゃないのかねえ。もう捨てようかなあ此処)
カーペットに散らばった目玉を踏み潰しても顔色一つ変えない。
(花は散り際が綺麗だから物事は滅ぶ直前が見応えある、みたいなわけわかんない事をこの国の人間はたまに言う。BUSHIDOってやつ? 敗者が勝者より美しいとか。そんなもの見たこともない)
マフラーの位置に納得し、頷く。
次の瞬間、鏡は縦と横に割れた。
(花は《裂き》続ける時こそ美しいに決まっているだろうが)
部屋の中心に立つそいつは一歩も動いていないというのに、部屋のあらゆる物は切断されて形を変えていた。
一瞬で亀裂だらけになり、鏡やテレビ、箪笥、電灯、ベッド、すべてが同時に崩れ落ちた。
『退去時の清掃完了』
最初で最後の仕事は家賃代わり。
死使十三魔。序列五位でありながら、十三魔の誰もがそいつを最強と呼ぶ。
《魔華》の異名は残虐と恐怖の象徴。
魔華は前掛けの下から――狐の面を取り出した。
面は縦に真っ二つに割れている。
重なったそれを開くと、中に二つの目玉が転がっていた。
飴玉のように二つまとめて口の中に放る。
――びっちゃびっちゃ。と、ドア付近に原形なく粉々に散らばった粉砕死体を踏み付けて魔華は部屋を出て行った。もちろん顔色に変化などない。
いや、少しだけ――愉しそうだった。
(散らばった死体は綺麗だと思うよ)