PUNICA【I-miss-you】3
◆ ◆ ◆
ひのえと商店街といえば、御渡瑠架子が殺された場所という印象が強い。何度も買い出しへ訪れたが、私だってそれを忘れたわけじゃない。
ちらっと例の路地裏を覗いてみたこともあったが、ほんとうに何事もなかったかのように現場は綺麗に片付けられていた。だから私もあまり引きずることがなくなった。
瑠架子はつちのえとの墓に埋葬される予定だったのだけど、明朗から聞いた話では遺体は並折から運ばれたそうな。
彼女には親族がいた。
その親族が瑠架子を故郷に連れて帰りたいと申し出たのだという。
瑠架子は死ぬことで並折の呪縛から解放された。出ていくことができた。
呪縛といっても瑠架子自身が求めていたものなのだから、どうしようもない。
私はその報せを、他人事のように聞くしかなかった。
「それ、瑠架子さんの真似?」
隣を歩く明朗は、私の手元を指差す。
四つのクレープを食べきれるわけがないのに私は注文してしまったのだ。
瑠架子は駅前のクレープ屋へ行くと、その安さに目が眩んで瞬く間に注文を終えてしまう女だった。それが移ったのだと思う。
「あたしが全部食べるわけないでしょ。はい」
片手の二つを渡すと、明朗は驚いていた。
失礼な。
「だって駅前からずっと持ってるんだもん。一人で食べると思うよ普通」
「ちょっとしたイジワルよ。あんた食いしん坊だから」
明朗は「ひどいなあ」と愚痴をこぼしてクレープにかぶりついた。
温かかったクレープもすっかり冷めてしまっていて、一体何がしたかったのだろうと自分でも疑問に思う。
ひのえとの旧図書館は商店街の中腹から横へ逸れて向かったので、商店街を抜けた先は私の知らない街だ。
ひのえと駅で降りる人たちは、大抵商店街を素通りしてしまう。私もそうだが、商店街は食材の買い出しに利用するのがほとんどだからだ。
学生服姿の若者が何人か連なって街の方へ向かう様子は、何度も見たことがある。
あっちは大きなデパートもあるし、新しい店舗が圧倒的に多い。それに車で来るなら駐車場が備わっているあちらの方が便利だろう。
当然、駅前から商店街にかけての賑やかさは大きく劣る。私だって賑やかな方へ行ってみたいとは思ったけど、並折であまりふらふらと外を出歩きたくない気持ちもあって商店街までに留めていた。
聖歌も商店街を多用していたみたいだし、三桜と一緒に出掛けるなんて有り得ないし、瑠架子から誘ってくることはなかったし、私もべつにそこまで行きたいと思わなかったし。
なんだかんだで機会がなかった。それだけのことだ。
「ふふふ」
「なーによさっきからニヤニヤして」
「だってクロちゃんからデートの誘いがあるなんて、思いもしなかったから」
「いいじゃない。ほら、腕組む?」
明朗の腕に自分の腕を絡ませると、明朗は身体ごと跳ねた。
ふざけた振りをしているが私も内心緊張している。でも間違いなく明朗よりは動揺を隠すのがうまいと自負しよう。
さて、とりあえず腕を組んでみたは良いが、ぶっちゃけこれは六月にきのえと駅で目撃した、梵と林檎の姿を真似ただけだったりする。
でもなんかいいよこれ。明朗を独り占めしている気分になる。
と、思っていたら明朗の方が強く腕を引き寄せてきた。
今話し掛けられたらまずいと感じ、明朗にクレープを一つ渡した。
口を塞いでおく作戦だ。
「い、いやぁ外はやっぱり寒いわね」
はい出た気温の感想。
寒いに決まっているだろうがと、自分で自分に突っ込みを入れる。
「もぐ。うん、そうだね」
と言いながら明朗は自分の手袋を外して私に貸してくれた。
余計な気を遣わせてしまった。
「クロちゃん素手だもん。そりゃ寒いよ。ごめんね気付かなくて」
もぐもぐと三つ目のクレープを頬張りながら彼はにこり笑った。
嵌めた手袋は温かく、たしかに彼が生きているのだと実感させられる。それは当たり前のことなのだけど、他人の体温で他人の存在を実感するのは不思議と心落ち着くものだった。三桜の時は別として。
私がいつも触れていたのは番姉さんの手だった。彼女は雪女なのでその手に温もりなどなかった。死体に触れているようで、むしろ死体よりも冷たくて、だから死体とはまた違った何かという印象が強く、少なくとも私と同じ存在だとはとても思えなかった。
そんな私が温かく思うのだ。明朗の手は、雪女とまるで真逆だった。
手袋を外した彼の手を横目に見やると、少し気になった。
ぺろりと三つのクレープをたいらげ、捨て場所に困った様子で握り締めている紙包装を、私は手提げのバッグから出したビニール袋に入れてやった。
そのままさりげなくも全然さりげなくない仕草で、明朗の手を取ってまじまじと見つめる。彼は驚いたようだが、何も言わずされるがままだった。
指先だけじゃなく、手全体に残り傷がある。
端正な顔からは想像できない、ごつごつとした手だった。
「傷、多いでしょ」
照れくさそうに笑う彼に、頷く。
「道具の修理とかを任されることが多いからね」
そんな言葉を片耳に、私はひたすら明朗の手に見とれていた。
道具の修理で付いた傷。でも道具といっても結界寮で扱われる道具の類だ、武器なんかも含まれるだろう。
一般人だった彼がそんなものを扱えるようになるまで努力した傷なのだとすぐにわかった。
「……気高くて、靭い手。あたしはこういう手、大好き」
「ありがとう」
「それにすごくあったかい」
「あはは。そうかな」
「うん。なんかさ、人と触れ合ってるなあって思えるよね」
言いたい事が自然と言葉に出る。
明朗はそれに笑顔で応えてくれる。
冷たい寝顔なんかじゃない。
嬉しかった。
近年開拓されてできたという街の中枢は、私の知る並折とは別世界だった。
人々が密集し、歩道には所々に列が形成されている。並折どころか他の都市からも来ているようだ。たしかにきのえと駅はいつ行っても賑わっているしひのえと駅からは何本もバスが出ている。きのえと駅からバスで直接此処まで来るのがほとんどだろう。そろそろあの小さな路面電車では限界かもしれない。
自然あふれるきのえととは違い、なんとも近代的な建築物ばかり。
結界寮からの圧力が無ければもっと交通の利便性が増して経済的にも大成する街なのだろうが、それでも十分な集客率に見える。
これだけ人が多いと事件も起こりやすいのか街の警察が巡回している。
そして道の隅に――黒マフラー黒前掛けの異形も見られた。統界執行員は常時認識から外されているようで、広範囲を監視しながら器用に通行人から身を躱している。明朗と目が合い、手を振り合っていた。
私とも目が合った。
顔のほとんどがマフラーに覆われているが、すぐに女性だと気付いた。
……頭に猫耳のついたカチューシャ付けてるし。黄色だし。
黒マフラーと黒前掛けと黒コートは統界執行員が着装を義務付けられているんだと確信した。
明朗が再び前を向いたのを見計らって、猫耳の人はギロリと鋭い視線をぶつけてくる。怖い。お洒落で猫耳を付けている人、ではなく、猫のような人だ。
あんなのに絡まれたら命が危ないと一人で怯えていたが、彼女がそれ以上私に敵意を向けることはなかった。通信が入ったようで、無線機を手に取ってどこかへ引っ込んでしまったのだ。
ああいうのも居るのか結界寮。
ますます直接関わりたくない。
それから明朗が行きたがっていたショッピングモールに到着したのだが、この国に限らず大きな建物で買い物をした経験のなかった私はその大きさに驚いた。
一階に噴水がある。噴水。小銭を投げ入れる風習はないみたい。
奥には大きなモミの木があって、盛大に飾り付けられている。クリスマスシーズンだからか。この国は宗教に統一性のないよくわからない国だ。
そこから上は吹き抜けで、両側のエスカレーターもしくはエレベーターを使って上の階へ行くようになっている。
えーと……地下一階二階、食料品売り場。一階、婦人雑貨。二階、婦人服。三階、紳士服、紳士雑貨。四階、ベビー子供服、玩具、ゴルフウェア。五階、家庭用品、寝具、ギフト、ブライダル、商品券。六階、手芸、クラフト、書籍、CD、DVD。七階八階、レストラン街。
と、フロアガイドに載っていた。
ここ商店街より何でも揃うと思う。
しかもここは北棟で、隣にもう一つ南棟があるというのだから驚きだ。
南棟は一階から最上階までブティックが入っており、若者たちに人気だそうな。明朗談。
結界寮の面々も休暇中はここでショッピングをすると聞いて少し面白かった。
しかし広すぎて困ってしまう。一階は婦人雑貨の店が立ち並んでいて、すごく心躍るけど、明朗も一緒なので彼の行きたいところから行ってみてもいいなとか、とにかく色々考えていた。
「こっちだよクロちゃん!」
明朗が腕を引き、私はそれに従う。
彼は一階の、そう、婦人雑貨の店舗へ向かって歩き出した。
どこへ連れて行ってくれるのだろう。
進む先にある店は――、
宝石店だった。
◆ ◆ ◆
【COCKTAIL】
「裕福な国だねえ日本は」
双眼鏡から覗く俯瞰の景色は、彼の見てきた世界とはまるで別物だった。
布を繋ぎ合わせただけの外套を羽織る人間なんて居やしない。着飾り、また新たな着物や装飾品を求めて彷徨う奴らがうじゃうじゃうじゃうじゃ。
ショッピングモール九階、立体駐車場のエレベーター前。
休憩用に設置されたベンチに腰かけた少年は、硝子越しに一階まで吹き抜けた風景を眺めていた。
ハンチング帽子を目深に被った小さな子だ。双眼鏡に映る光景に見入る様は歳相応を思わせる。
彼の前を人が通り過ぎ、視界が遮られた。
少年は双眼鏡を顔から離し、邪魔をした大人を睨みつけた。
少年の存在に気付いていない大人はそのまま行ってしまう。
「……ちぇ」
不便な街だ。
ここへ来てからというもの、彼は何度も人にぶつかり、自転車に轢かれそうになった。
そういう街なのだから仕方ないのだが、やたら気を遣って人を避けなければならず、このショッピングモールまでの道のりは身体の小さい少年にとって苦難の連続だった。
夜になるまで森の中に居た方が良かった。彼はちょっとばかり後悔した。
「一番乗りで自慢しようと思ったけど、よくよく考えたら定期合流時間まで誰とも連絡取れないんだった」
――カロ、コロ。
独り言を呟き、口の中で飴玉を転がす。はちみつとハーブを混ぜた味だ。
少年の名前はラスティ。
正式なコードネームはラスティ・ネイル。
死使十三魔序列四位直下部隊、カクテルズに所属する氷製人間である。
(な、み、お、り。並折。いざ来てみると……なんだかなぁ、って感じ)
――カコカコ、カロコロ。
(こんなに簡単に侵入できちゃうなんておかしいよ。やっぱりスレッジ姉ちゃんに相談しよう。あのサクナ・グレナデンって奴、絶対に怪しいもん)
足を交互に振る。
さっきの大人がエスカレーターで階下に向かう姿が視界に入った。
(今頃はみんなザクロ・グレナデンを捜索してるのかなあ。あーあ面倒くさい。無能の指示で動くなんて、いくら番様の命令でも納得いかないなあ)
ラスティはこの任務を快く思っていない。
そもそも任務に私情など挟むべきではないのだが、彼はいつも気分で任務をサボタージュする質だった。
カクテルズも部隊内で任務ごとに三人構成でチーム分けされることが多く、任務内容によって構成が変わるが、効率の良い組み合わせというのは仕事をこなすうちに明らかになってくるので、実のところ面子はあまり変わらない。
だから今回もラスティ含む《いつもの面子》で構成された三人チーム。
この面子の時、よくラスティは仕事をサボる。他の二人は心身共に幼いラスティを可愛がっていて黙認しているのだ。大抵は二人だけで任務もちゃんと終えられるし、必要とあればラスティも動く。
いつも通り。その筈なのだが。
今回はもう一人、余計なやつがくっついてきた。
――コロ、カリッ。
サクナ・グレナデン。
カクテルズの一員でありながら何の能力も持たない奴だ。任務遂行経験も皆無。そのくせいつも主の一番近くに居て、一番気を回してもらっている。
そんなグレナデンをラスティはいつも不愉快に思っていた。
ましてその不愉快な奴が、気の置けない仲間の輪に割り込んできたのだから彼の機嫌は悪化の一途を辿るばかりだ。
(ザクロを殺してサクナが任務を引き継ぐ? その為にどうして僕らが働かなきゃいけないのさ。グレナデン同士の問題なら自分達で解決しろっての)
またさっきの大人が見えた。もう頭頂部しか見えないが。
七階と八階はレストラン街なので、それより下へ向かうということは買い物に来たのだろう。ラスティにはどうでもいいことだった。
が、彼の感情は起伏が激しい。
――ガリ、ゴリゴリ。
(鬱陶しいなあ。どいつもこいつも)
呑気な顔でショッピング。笑顔、笑顔、笑顔。
人混みの中にはラスティと同世代に見える女の子が父親と手を繋いで歩いていた。
(……まあ、ちょっとくらいなら。殺してもいいよね)
ラスティはポケットに右手を突っ込む。
ちなみに彼の《ちょっと》は変化が激しく、百人単位の時もある。
並折での呪詛能力の使用は厳禁だ。使用した途端にこの街を支配する連中に居場所を感知されてしまう。しかしラスティは氷製人間。呪詛能力は持ち合わせていない。
スレッジからはなるべく隠密行動を維持しろなどと言われていたが、それもサクナの指示だとわかっていたのでラスティは従う気がなかった。
(ちょっとだけ。ちょっとだけー)
片手をポケットに入れたまま左手で持った双眼鏡を覗く。
(ど、れ、に、し、よ、う、か、な)
奥歯に貼りついた飴の欠片を舌で拭い、その舌を閉じた唇の間から覗かせた。
誰かが死ねば騒ぎになる。騒ぎになったらすぐに逃げなければならないので、殺す場所が限られてくる。
なるべく多く殺してスムーズにこの場を離脱するには、やはり一階がいいかもしれない。
階毎に一人ずつ殺して降りていくのも面白そう。
ラスティが好む殺害対象は若者。
未来も夢も希望もたっぷり蓄えた世代の人間を殺すのが彼は好きだった。
(――おっとぉ?)
ラスティは首を伸ばした。
一階に設置されている噴水の近くに焦点を絞る。
宝石店へ向かう男女の、その後ろ。
小柄な少女が一人で歩いているのが見えた。
なかなか目立つ格好をしている。
大きすぎる黒のトレンチコートが身体のほとんどを覆ってしまっており、その中から伸びた手の片方は杖を握っている。もう片方の手でこれまた大きすぎる黒のキャリーバッグを引いている。大人が一緒ではないようだ。
上から下まで杖以外は黒一色だからとても目立つ。
よくよく見ると片目に眼帯をしていた。
(あれにしよう)
歩く速度も遅い。目を離してもすぐに見つけられるだろう。
双眼鏡を外したラスティは口元を緩ませて立った。彼が浮かべた表情はとても少年とは思えない。殺すことに快楽を見出し、死体の赤黒さを景色の一部として捉える彼は、一般の少年少女と異なる。
先程からポケットの中でジャラジャラと転がしている物の一つを、彼は取り出した。
五寸はある長い釘だ。
真新しいきれいな銀色が摘ままれていた。
それを指で転がしながら、そっと小指でボタンを押してエレベーターを呼んだ。
実は右側のポケットに入っているのは未使用の釘で、左側のポケットの中にはたくさんの錆びた釘が入っている。
ラスティは人間の血で錆びた釘を集めるのが趣味だった。
(刺すのもいいけど、今日は時間が無いから……)
釘の根元を左手の指で挟み、右手を引いて引き抜く。
先端の尖った細い円柱だった釘は、平たいナイフのような形状になっていた。
金属を薄く延ばすほど異常に発達した握力と腕力。
少年の小さな身体は改造が施されていた。
(頸動脈を切って噴水の池を赤に染めよう)
――チン。
エレベーターの到着を知らせる音が鳴ってもラスティは釘ナイフを弄んでいた。
どうせ並折の結界効果で他人にラスティの姿は認識できないのだ。
(……そういえば、黒い子の近くを歩いていた女……ま、いいか)
扉が開く。
エレベーターに誰も乗っていなければいいが、ラスティは居合わせた人間もついでに殺すつもりだった。
その運の悪い人間は――居た。
大人が一人乗っていたのだ。
「ふふ、ラッキー」
喜ぶ少年の顔は、直後、訝しむものに変わった。
ラスティの見上げた先。
犠牲となる筈のその大人は――少年の顔をじっと見つめていたのだ。
(……?)
偶然目が合ってしまっているのか。
ラスティとしてはそうであって欲しかったが、すぐに違うと気付いた。
そいつの背中から二本、刀の柄が伸びていたのだ。腰からも二本、更に両腕と両太腿にも小刀が鞘ごと縛り付けられている。
武装した人間。
「な――っ」
ラスティは扉が開ききる前に後方へ飛び退いた。
武装を確認した。敵だろう。味方だったとしても報告を受けていない。
彼は後退と同時に開きかけの扉を掴み、無理矢理に閉じ、超腕力と超握力に任せて歪ませた。
(とりあえず殺しておくか)
右ポケットから釘の束を取り出すと、硬直した扉めがけてぶん投げる。
ラスティの怪力で投げられた無数の釘は扉を貫通し、エレベーターという箱に閉じ込められた相手ごと射抜く。
彼とて命中が確認できない以上は油断しない。
両手に四本ずつ釘を持ち、反撃に備えていた。
「この僕をラスティ・ネイルと知っての邂逅ならお前は馬鹿だ。知らずの邂逅なら……やっぱり馬鹿だ」
釘には神経毒が塗ってある。もし一本でも刺さっていたなら相手は身動きできない。
小柄な体躯に油断して接近戦を挑んできたならば怪力を以て返り討つ。
釘と、パワーと、そしてこの外見。
ラスティはその三位一体を武器として活用する。
あらゆる任務に適応可能であり、あらゆる状況を打破することができる。
今の大人とて今まで対面した敵と同じだ。エレベーターの扉が開き、目の前に現れた子供が超人的身体能力を備えているなどすぐに見抜けまい。
逆にラスティは大人であろうと子供であろうとすぐに殺害できる。
認識と判断は個々によって異なる上に時間にしてコンマ以下の差だが、しかし最も致命的な部分に於いて、ラスティ・ネイルという少年は優位性を持っていた。
その優位性は、破られていたわけだが。
ラスティの足元からエレベーターの扉にかけて亀裂が生まれた。
「っ!」
おそらく狙いを外したのだろう。得物は刃物に違いないが範囲が広い。
まさかエレベーターの中から、ラスティの足場ごと切り裂いてくるとはさすがに彼も予想していなかった。
「野郎……楽には殺してやらないからな」
斬撃範囲に自ら飛び込み、ラスティは拳を扉にぶつける。
内側に吹き飛ぶ鋼鉄の板。
ひるんだところに再び釘の連射を見舞ってやろうと構えたが、扉で視界を遮断されていたのはラスティも同じこと。
少年は釘を投げず、敢えてまた後方へ飛び退く。
案の定扉は横に両断され、あれ以上近くに寄っていたらまとめて斬られていた。
四つに分解された扉はエレベーター内に崩れ落ち、ようやく敵の姿をじっくりと観察できるようになった。
灰色の髪の男だ。
鋭角的な形状をしたサングラスを掛けている。視線を読まれないようにしているのか。
二度の斬撃を繰り出した筈の刃物はどれも鞘に収まっており、そいつは手ぶらのまま立っていた。足元には毒の塗られた釘が無数に転がっている。
ラスティの放った釘はすべて弾かれていた。
閉所に閉じ込め、視界を遮り、一方的に仕掛けた攻撃だったのに。
先手はすべて潰された。
「僕の速攻を退けるとはね。お前の名前を覚えておいてやる」
相手は黙ったままだった。
「僕を嘗めているのか? 名乗れと言っているんだ!」
微動だにしない灰髪の男。
苛立ちを募らせたラスティは地団駄を踏んだ。
べつに駄々をこねているわけではなく。
それは引き金だった。
少年の履いていたジーンズが破れ、膝から三本束になった釘が射出された。
相手は避けようとする動作も見せない。命中確実だ。
続けざまに握った釘を全て投げつける。
そこまで状況が進行したところで、やっと、灰髪の男は動きを見せた。
ゆっくりと背中の刀に片腕を回す。
「遅い。遅い遅いもう遅い! 僕の釘を避けたのは偶然だったか! ああ警戒して損した! お前はトロすぎるよ!」
釘の硬度は鋼鉄などものともしない。この場にある何で防ごうが貫通する。
唯一懸念していた武装も、今更抜いているようでは間に合わない。
ラスティは気持ちに余裕が生まれたのかガラス越しの景色へ目を向けた。
ショッピングモールの時計は午前十一時ちょうどを指そうとしていた。
◆ ◆ ◆
――ばりん!
その大きな音を聞いたのは、私が時刻を確認していた時だった。
ショッピングモールには吹き抜けから見上げることで確認できる、大きな時計が設置されていた。
ちょうど十一時を指したところだった。
明朗の後ろを付いて歩きながら顔をほぼ真上に向けていた時に、その音を聞いた。
ガラスが割れたのだとすぐにわかった。
なぜなら私はその割れる瞬間を目撃していたからだ。
レストラン街のある八階の、さらに上。立体駐車場のある階の、おそらくエレベーター乗り場のガラスだ。
そこが外から派手にぶち割られた。
周囲が音に驚いた声を上げている。
私は声を上げず、そのまま凝視し続けた。
きらきらと、割れたガラスの破片が大量に舞って、こちらへ落ちてくる。
真下に居るのはさすがに危険だと思い、私は明朗の手を引いた。
「なんだろう今の音」
「ガラスの割れた音よ。こっちに降ってくるから逃げよう」
吹き抜けから遠ざかり、私達は落ちてくる破片の多さに驚いた。
飛沫をあげ、噴水の中に飛び込む透明なガラス片。
あまりにも突然の出来事だったので唖然としている私の視界内で、明らかにガラス片ではない影が通り過ぎた。
それが落下した時はひときわ大きな飛沫が上がった。
あれは――人間。
しかも子供だった!
「明朗!」
「僕も見た!」
私より先に明朗が駆けだしていた。
子供があんな高さから落下したのだ。噴水の池に落ちたとはいえ、あんな浅いところでは衝撃緩和の望みなんてない。
子供に気付いたのは私と明朗だけで、他の人たちは気付いていないようだ。
誰かに携帯電話を借りて救急車を呼ばなければ。
明朗が持っている。彼に借りよう。
再び噴水の方へ駆けだした時、私は――目を疑った。
「――ッちいいいいいいい!」
池の中から、少年が雄叫びを上げて飛び出したのだ。
たった今落下した子供とは思えない。
明朗は驚いて尻もちをついていた。
「な、なに? どういうことなの?」
金髪の少年はハンチング帽を両手で絞り、被りなおしている。九階の高さから落下したというのに傷を負っている気配がない。
彼は獲物を探すような目つきで周囲を見回し、そして――。
私と目が合った。
「……」
「……」
少年と私の時間が停止した。
なぜか彼はじっと私に焦点を当てたまま、まったく動かないのだ。
私を見る彼の目は、驚愕の感情がこもっていた。
あまりにも少年の瞳が無垢なので、彼の思考が容易に読み取れる。その思考が変化していくのも解った。
驚愕は、疑惑へ。
そして疑惑が、確信へ。
確信は、歓喜に変わり、そこで彼の感情は固定された。
「見つけたああああああああああ!」
「え、あたし?」
「三百九十六番! ザクロォ!」
驚きのあまりたじろぐ。
間違いなく少年は、私に向けて言った。『見つけた』と。
すぐに頭を切り替える。
この子は、《こちら側》の人間だ。
私を探していたのなら、おそらくは死使十三魔の手の者。追われる心当たりなどアレしかない。番姉さんから盗んだ鎖黒だ。
少年は両手になにやら長い釘を持って、ざばざばと池からこちらへ向かってくる。
ここは逃げないとまずい。
幸い、尻もちをついた明朗は少年の意識の外だ。
明朗を巻き込むわけにはいかない。
(――っ?)
その時。服の袖が引っ張られたのに気付いた。
見下ろすと、片目に眼帯を付けた見知らぬ少女が、私の服を掴んでいる。
しまった。
仲間か。
「……早く!」
「え?」
少女は私の腕を引き、ショッピングモール出口のほうへ促した。
なにがなんだかわかんないっつーの!
身をひるがえして逃げ出す私の背後で、少年が釘を握った腕を振り上げた。
少女が私と少年の間に入ったので、おもわず『なにやってんの!』と叫ぶ寸前。
少女の方がなにかを呟いた。
「……お願いします……キリサメさん」
少年は釘を投げた。
それは信じられない速度で空中を進み、
少女に届く前に進行方向を変えた。
何本もの釘が少女の足元に突き刺さる。
私と少年の間には少女が一人だけ割り込んでいた筈なのに。
気付けば少女と少年の間にもう一人、背の高い人間が割り込んでいた。
少女のトレンチコートも黒かったが、彼女の前に立つ男の衣装も、黒かった。
だからだろうか、男の、オールバックに固められた灰色の髪が余計に目立っていた。
「お前はなんなんだっての!」
少年の怒声は、男に向けられた。
「僕の邪魔をするな! お前、この街の勢力ってやつか!」
違う。
この男も少女も、結界寮の人間じゃあない。
もしそうなら明朗がなんらかの反応を示す筈だ。でも明朗も困惑し、呆然としている。
だからこの二人は死使十三魔でも結界寮でもない。
私を守る意味もわからない。
キリサメと呼ばれた男が背中と腰に手を伸ばし、背負った刀らしき武器の柄を握る。
「またそれかよ。こ、ここは一旦――」
少年の右手が宙に飛んだ。
なんという速さだ、瞬きせぬ間に男は少年の鼻先まで接近していた。
「いぎっ! ちくしょう!」
少年が釘を持った左腕を振り、男はそれを両手の刀で防ぐ。
あの小柄な身体からは想像もできない力で殴ったのだろう。男の身体が少し宙に浮いた。
少年の反撃はそれが最後だった。
――ぼと。
――ぼとぼと。
――ずるぅ。
少年の腹部から腸がこぼれ落ちるのが見えた。
いつの間に斬ったのか。少年は上半身と下半身を真っ二つに裂かれ、下半身は踏ん張ったまま、上半身だけ池の中に落ちた。
残された脚部の破れたポケットから、じゃらじゃらと赤錆びた釘がこぼれて池の中に注がれていた。
真っ赤に染まってゆく噴水。
周囲の騒がしさも大きくなってきた。
じきに結界寮がやってくるだろう。
交戦を最も近い位置で見ていた明朗は、もう立ち上がって噴水の中を見ていた。あとで結界寮に回収させるつもりだろう。
そして少年を容赦なく真っ二つにした灰髪の男は刀を納め、さっきの少女と共にこちらに向かってきた。
「……天宮、柘榴さんですか?」
小さな口から小さく呟かれた私の名前。
杖をついた眼帯少女は、じっと私の顔を見つめてから、小さくお辞儀をした。
「……あの、はじめまして」
「誰?」
「……霧兎。名前は、昏黒坂霧兎といいます」
もう既に嫌な予感しかしない。
「はあ……」
雪が街を冷やす二〇〇六年十二月十四日。
長いクリスマスシーズンになりそうだ。