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血鎖――其の少女、不要につき


 純血一族、守野家当主。守野三桜。

 背が高く髪は黒く長く、彼女を見る者には活発的な印象を与えると同時に、類稀なる美しさで魅了する容姿を持った女性だ。

 彼女は今、彼女でも知り得ない土地に足を踏み入れていた。

 家系の頂点に立つ彼女が知り得ない――普通なら知る事ができない土地ということはつまり、まず誰にも知られない土地と言っても良い。


「……くさい。ひどいにおいだ」


 人一倍どころか意識すれば何十倍も鼻の利く三桜は顔をしかめた。

 底の厚いブーツで踏み締めた地面は腐敗した葉や何かの死体で覆われており、ぐじゅ、と嫌な感触で沈んだ。

 身体を支える二足はぶよぶよとした腐葉土の上だし、周囲にはやたらと背が高い癖に骨のような枝しか付いていない木々。その木には有刺鉄線のように茨が巻き付いている。

 常薄暗く陽の光は届かず、立っているだけだというのに不安感を煽ってくる空間だ。

 自分をこんな汚らわしい土地に連れてきた男は、木を四、五本挟んだ先に居た。

 男は丈の長い真っ黒な衣を纏っており、裾に汚泥が付いても気にする様子はなかった。

 三桜が後から付いてきているかどうか、時折振り返って確認するだけで、黙々と森の中を進んで行ってしまう。振り返る度に見せる男のにやけ面に、三桜は嫌悪感を抱いた。

 ここは昏黒坂家の土地。

 純血一族の中でもひときわ忌み嫌われる家系だ。


「お疲れ様です三桜様、到着です」


 空気に含まれる血生臭さと生温かさが一層増してきたあたりで、昏黒坂家の使いの男は立ち止まり、そう言った。名前は昏黒坂霧馬と名乗っていた。

 呼吸をするにも嘔吐感が伴う三桜は片頬をひくつかせつつ男のすぐ後ろまで進んだ。霧馬が気にもせず踏んでいるのが人間の腐った手だと気付いて舌を打つ。


「昏黒坂病院……貴様らの本拠地か」

 金属は赤錆び、外壁は剥がれ落ち、蔦が屋根まで這っているきたならしい大きな建造物が見え、三桜は言った。

 霧馬は鼻で笑った。

「まさか。此処はただの収容施設ですよ。なにせ病院ですから」

 昏黒坂の口から病院という単語が紡がれる度、それを聞く者は不快感に苛まれる。三桜も例外ではなかった。

 不似合にも程がある。白く清潔な施設の名を、あろうことか黒く病的な連中が拠点としている。

 何度も反吐を吐かれ、反吐まみれで、しかも平気な顔で反吐をくっつけている。誰もが昏黒坂をそういう連中だと認識していたし、全く以てその認識に相違などない。

 三桜とて当主ではあるがこいつらには近寄りたくもないし関わりたくもない。三桜だけではない。御上を除く全家系がこんな奴らと関わりたくはないのだ。

 しかし今回ばかりはそうも言ってはいられない。


「八汰祁は無事なんだろうな」


 守野家の人間を人質に取られてしまったのだ。

 昏黒坂家の要求は、三桜を昏黒坂病院まで来させることだった。

 だからこんなきたならしい土地に足を踏み入れ、守野八汰祁という家族を助けにやってきたというわけだ。

 人質が無事か否かの問いに霧馬は答えず、また鼻で笑うだけで歩き始めた。

 病院の正面玄関も、昏黒坂らしく不衛生極まりないものだった。入口から四方八方に引きずられた血の跡が伸びている。(ひさし)の支柱には、しがみついた時に付いたであろう手形がいくつも見られた。汚い土が張り付いて汚れたブーツの底を、支柱の角で器用に拭った。

 もちろん入口に自動ドアなど付いていない。もちろん手すり等のバリアフリーも設置されているわけがない。

 昏黒坂病院の正面玄関は分厚い鋼鉄の扉が取り付けられていた。三階建ての建物は、すべての窓に鉄格子が嵌められている。これでは病院というより監獄だ。


 鉄の扉を開いた霧馬の後に続き中へ入った三桜は、まず耳を塞いだ。

 凄まじい騒音だった。ここは何かの工場かと本気で思ったほどだ。

 鉄板と鉄板と叩き合わせたような音。電気鋸の回転音。嬉々とした奇声。絶叫。悲鳴。何か大きな機械のエンジン音。様々な音が混じった不快極まりない不協和音。

 工場か監獄か。少なくとも病院などではない。地獄の類と言われた方が納得する。

 霧馬は三桜に「拷問室が近いから」と、騒音の説明をした。どうやらこの男は病院に拷問室があるのは当然だと思っているらしい。

 受付カウンターに人は立っていないどころか、三桜が見渡した限りでは自分と霧馬以外に人の姿がない。あったとしても昏黒坂の人間なのでむしろない方が良い。

 動物の体液でも染み込んでいるのか、妙にべたべたと靴底に違和感を貼り付ける廊下を霧馬は進む。

 廊下にも一定の間隔で鍵付きの鉄扉が設置されていた。


「ここは監獄か?」

 あまりにも内装が病院とは言い難く、内包する雰囲気がそれと酷似していたので三桜は問うた。

「はあ監獄。監獄とは、囚人を収容する、あれですよね」

 前を向いて歩きながら、霧馬は気の抜けた声で返してくる。

「違うのか」

「囚人なんか此処には居ないんで。違いますね」

「……なら、あの悲鳴は誰のものだ」

「被写体の声でしょうね」

「被写体ぃ?」


 三桜は足を止めた。

 後ろの足音が消えたので霧馬も止まる。

 クソめんどくせぇアマだぜ。と、三桜に聞こえる事を承知で彼は呟いた。

 後ろへ振り返り、右手を振って大きく息を吐く。


「だぁからスナッフビデオの撮影でもしてんでしょ。そういうのを嗜好とする金持ちは多いんですよ」

「なるほど、資金源の一つというわけか。貴様らは変態共御用達の変態なわけだ」

「そうです。で、さっきの声は多分三番撮影室――」

「拷問室だろ」

「――三番拷問室からだと思いますよ。主に熱責めをする部屋なんです。オプションで解体もやります。被写体――焼死体と映像のセットで御希望ってことらしいんで」

「その被写体はまさか攫ってきたんじゃないだろうな」

「人攫いもよくやりますよ。ただ今回は依頼主からの提供でして。娘さんらしいですわ。見たいと言うなら後ほどお見せしますよ。被写体にはそれまで耐えていてもらいましょう」

「……いいや、結構」

「そうだ、いつか撮影に協力してくださいよ。プロのカニバリストとして」

「貴様が犠牲になるというなら、喜んで参加してやる」


 鋭い目で睨まれ、霧馬は口をすぼめて肩をすくめる。

 そして近くの鉄扉に片手を添えた。


「まあ脱走を阻むためにこうした設備を設けている点では監獄と同じですね。やっていることは色々です」

「主に人間の身体を弄んでいるだけだろうが」

「やれと言われれば人外の身体でもやりますが」


 三桜の全身を眺めながら口元をゆるませる。

 が、彼女の口から「シィ」と威嚇するように息が漏れたので霧馬はまた前を向いた。

 二人は再び粘つく廊下を歩きだし、霧馬が指を立てた。


「あー、言い忘れましたがうちの御頭――霧人(きりと)様はこのくらいの時間にお食事を摂られます。今日は御頭も昏黒坂病院まで足を運んでおられますので先に摂られたとは思いますが、もし待つことになったらご容赦ください」


 無反応を装いつつ、三桜は目を細めた。

(昏黒坂霧人がここに……)

 まあ守野家当主の三桜を呼びつけたのだから、昏黒坂家当主が来るのは当然だ。普通は当然と思う。しかし相手が昏黒坂であることが厄介だ。

 霧人。

 予想はしていたが、いざあの男と面会する現実が近付いているのだと意識すると、自然と三桜の額に汗が浮かんだ。

 昏黒坂家は異質だ。

 一般人を犠牲とした稼ぎを行い、表社会の富裕層共を商売相手にするスナッフビデオ撮影など、純血一族ではまず容認しない。純血一族という裏組織の存在が表社会に知られるきっかけになりかねないからだ。だから多くの家系は裏社会での傭兵稼業を主軸としているというのに。

 この家系だけは御上の命に従わず好き放題に暴れまわり、その挙動は放っておけば純血一族を危険に晒しかねない。

 それを御上も咎めない。守野家はもちろん、他の家系でもそんな真似をすれば即処断されるものだ。

 どの家系も口に出さないが明らかに昏黒坂家は御上に黙認されるケースが多すぎることを知っていた。何故かは誰も知らない。ゆえに、昏黒坂家の頂点たる男が御上に影響可能なほどの力を持っていると思わざるを得ない。

 昏黒坂霧人。御上でも触れたがらない昏黒坂家を成した男。

 そんな奴が守野家に接触を図ってきた。

 不安や嫌な予感ばかりが三桜の頭を巡回する。昏黒坂に関わると碌な事がないのは有名だ。


(くそ……厄介な連中に目を付けられたもんだ……昏黒坂が守野に一体何の用があるってのさ。八汰祁の馬鹿もあっさり付け込まれやがって。こんな事態になるまで何をしていた)


 文句を頭に並べつつも家系を守る立場としての悩みは消えない。

 相手は昏黒坂霧人、何を要求されるのか想像もできず不安が増すばかり。

 海外にいた三桜はここ数年の守野の活動をすべて把握できているわけではなく、把握できていないものの中に昏黒坂が取り入る隙があったのではないかと疑った。

 それが何かも八汰祁が攫われてしまったことで知る術がない。

 結局、こうして昏黒坂病院まで来てしまった。

 勘の鋭い三桜は、すでに守野は昏黒坂の手の上にあるのではないかという良からぬ想像すら巡らしていた。


「どうしました? 顔色が優れないようですが。腹ん中掻っ捌いて検査してみます?」

「黙れ弱肉が」


 位置的には建物の中心くらいだろうか。表札が外されているので真偽は不明だが、扉が他の部屋と違う点から元は役員が使っていたと思われる部屋の前に二人は立った。

「中に御頭がおられます」

 霧馬が扉をノックして横に立つ。一人で入れということだろう。

 三桜は男に一瞥をくれて中に入った。



  ◇  ◇



 広い部屋の中心に黒革のソファが二つずつ、テーブルを挟んで向かい合わせに設置されていた。

 その一つに、昏黒坂霧人は座っていた。

 霧馬と同様に髪も瞳も漆黒で、爪も唇も黒に塗られている。瞳には生気の欠片もなく、視線が何処を向いているのか把握する前にこちらが吸い込まれてしまう。医者のように裾の長い衣を羽織っているのは霧馬と同じだが、彼はその上から腕、脚、腰、胸、首、あらゆる箇所に黒革のベルトをぐるぐると巻き付けている異様な格好だった。

 霧人は三桜よりもずっと大きな黒革のブーツを履いた足を両方ともテーブルの上に乗せ、ソファの裏に片腕を回して三桜を迎えた。


「貴様が昏黒坂霧――」

――ガン!

 三桜が口を開いた直後、霧人は片足の踵でテーブルを叩き、顎で向かい側のソファを指した。

 『座れ』という意味なのだろう。

 八汰祁を人質に取られている以上ここで暴れるわけにもいかない三桜は、霧人の態度には目を伏せて彼の向かい側に座った。


「よう守野のクソアマ。ここは室内だから小便はちゃんと便所でしてくれや」

「折角の煽り文句だが、私様は貴様とじゃれ合うつもりはないんでね。うちの八汰祁をさっさと返してもらおうか。無事に黙って返せば、御上への報告だけで済ませてやる」

「Oh」


 霧人は両眉を上げ、口笛を一息分吹いた。


「それじゃあ何のために俺がわざわざ部下に攫わせてきたのかわかんねぇだろ馬鹿か脳筋女」

「なんだ要求があるのか。私様の反吐でも欲しいのか?」

「胃と膵臓付きなら貰ってやってもいいぜ。今日の晩飯にでもしてやるよ。だが、てめぇなんぞの汚ねぇ内臓だけじゃあ返せねぇな」

「おいおい私様をあまり苛めないでくれよ。貴様のように下種と下種の配合で生まれたとびっきりの下種を相手にするのは初めてでね。どんな汚物を捧げたら良いのか想像もできないんだよ」

「ああ、それはてめぇの面の皮で事足りる。ケツを拭くのに使えそうだ。まあそれはいつでも手に入れられるからな、欲しいのは並折の情報だ」

「おっといきなり下水管から予想外の単語が出てきて私様ビックリ。並折だって? 貴様が知ってどうするのさ。まあいいや、何が知りたい? 並折の状勢かい?」

「入り方だ」


 三桜の表情は凍りついた。

 にやけて罵詈雑言を吐いていた口も一拍置いて閉ざされる。


「入り方……だと?」

「そう。てめぇが御上から聞いた、並折への入り方」

「御上からは絶対に口外するなと申しつけられている。それは教えられない。無理な要求だね」

「Hah、あのなぁ」

「要求には応じない。八汰祁は返してもらう」


 三桜がそう言った直後。

――メキィ!

 霧人の右足が伸びて三桜の側頭部を薙いだ。

 獣人の反射神経でも反応が遅れ、彼女は驚愕の顔でソファから転がり落ちることとなった。


「ぐっ……は……!」


 発達した僧帽筋のおかげで意識を保ってはいられるものの、こんな強烈な蹴りを喰らったのは久々だった。常人なら頭が千切れ飛んでいてもおかしくない。

 三桜は痛む首をおさえてすぐさま膝立ちに体勢を整えた。

 獣人に蹴撃を見舞った霧人は、右足を宙に浮かべたまま左右に振り、テーブルの下に降ろした。身を起こし、頬に手を添え、彼を見上げる三桜に口を歪ませて見せる。


「たった今、守野八汰祁の処刑が決定した」

「貴様……!」

「取り引きは不成立、残念だな。つーわけで、ここからは脅迫へ移行する」

「ま、待て。八汰祁は――」

「殺す。終わり。まあ良い判断だぜ守野の当主。御上の命令なら、一人の犠牲を払ってでも守るべきだ。てめぇはよく頑張ったよ、あっさり要求に応じるようなら状況はどんどん悪化していくからな」

「頼む、八汰祁を返してくれ」


 先程までの威勢はどこへやら。

 頭を垂れて嘆願する守野三桜の姿に、霧人は拍子抜けた。

 そんなにあの老人が大事か。家族愛ってやつか。そんなものを大事にする奴が、まだ純血一族に残っているとは。

 馬鹿じゃねえのか。

 霧人は包み隠さず嘲笑った。


「はは、ぎゃはははは。いいぜ、八汰祁については考えておいてやる。あんなジジイはてめぇを此処に連れてくる為に攫っただけだしな。ついでに要求内容も柔らかくしてやる」

「……」

 この男が、急に優しさを見せるのは気持ちが悪い。何かある。

 三桜は霧人を睨み続けた。

「察しがいいねえ三桜ちゃん。八汰祁を返したところでてめぇらのピンチは変わらねえ。なにせ俺達が握っている人質は、《守野家》そのものなんだからなぁ」


 漆黒の瞳。そのなかに赤い光源が揺らめく。

 彼は一言、「呪詛鎮静の法」と呟いた。

「――――」

 もちろん三桜の耳には届いている。

 けれども彼女は身動き一つしない。

 ただ、おびただしい量の汗が額ににじみ、頬を伝っていた。


 守野家は純血一族という組織の傘下に入ってから、呪詛能力を本格的に実戦投入した歴史が、実のところ全家系で一番浅い。

 獣人という能力を制御しきれなかったからだ。

 獣化すると本能のまま人を喰らい、力尽きるまで暴走を続けてしまう。過去の《十三家系血斗》では同族以外の者を皆殺しにすればよかったので猛威を振るったが、それらが統一されると同族殺しを避けるためにしばらく守野家は息を潜めることになった。

 獣化しても自我を保っていられる方法が見つかるまで。

 その方法こそ、《呪詛鎮静の法》と呼ばれる術。

 能力を全開放した時よりも強さは衰えるが、これによって守野家は自我を保ったままでの獣化を可能にしたのだ。それが今の守野家である。

 この法は、解除法と共に秘術として術式法典に記載され、絶対に外へ漏れないよう守野の本家に保管してあった。

 術が外に漏れ、鎮静の法を破る術が知れ渡ってしまうと――守野家は暴走し、全家系から滅せられる。


「さあ大変なことになった。きひひひひひ」

「き、貴様、守野の本家に侵入したのは八汰祁を攫う為じゃなく……」

「そうとも。てめぇらの大事な大事な術式法典を頂戴する為よ。おかげでうちの若い衆が十八人も死んだ」

「そんなこと、私様は聞いていないぞ!」

「聞かされていないだけだろ。あーもう言っちまうか。あのな? 八汰祁は此処には居ねーのよ」

「は?」

「守野本家でうちのバカが殺しちまったのよ。だから八汰祁を攫ったってのは嘘。てめぇらの家系は当主様を大切にしねぇみたいだし、そこを利用させてもらった」


 喋っている間も霧人は笑いを堪えるのに必死で、呆気にとられる三桜の顔を見て肩まで震わせていた。


「守野本家とは《守野三桜と引き換えに術式法典を返す》って取り引きが成立しているんでね。ぶふっ、ぐひゃひゃひゃひゃひゃ!」

「な……」


 ようするに守野三桜は取り引きの材料として本家に売られたのである。


「あーあ可哀想な三桜様。守野から捨てられ、今日から昏黒坂の人間。いやいやそのまま守野を名乗ってくれて構わねえよ。もちろん昏黒坂三桜と名乗ってもいい。ひゃひゃひゃひゃひゃ!」


 放心したように床を見つめ続ける三桜。

 しかし彼女の頭は、自分でも意外に思うほど冷静だった。

 術式法典は大切な物だ。

 それを、よりによって昏黒坂家に奪われた。

 そもそもなぜ術式法典の存在がこいつらに知られたのだ?

 疑わしきは内通者の存在。今となってはそいつの存在を暴くのは難しい。

 昏黒坂の目的は守野家の崩壊ではなく、やはり並折なのだろう。こいつらは他家系をそれほど意識したりしない。利用できる駒程度にしか考えていない。

 だから術式法典を悪用して守野を潰す気はないだろう。

 むしろ以前から法典の存在を知っていたのかもしれない。そして守野が利用できると思ったから行動に出た。

 法典を奪取し、本家に取引を持ちかける。本家は当主の三桜と交換する条件を受け入れた。三桜本人には、《当主補佐である守野八汰祁が昏黒坂に誘拐され、三桜との交渉を望んでいる》と伝えた。

 そしてまんまと三桜は昏黒坂病院に来てしまったわけだ。


「――法典は?」

「あ?」

「術式法典は?」

「守野本家に返すよう霧馬に言ってある。心配すんなよ見たのは術式名称だけで詳細は見てねえ。同じ純血一族なんだ、仲良くいこうや。きひひ」

「そうか……」


 三桜は項垂れた。

 安心したのか、絶望が押し寄せたのか、それとも両方か。

 なんにせよ霧人にとってはなかなか愉快な姿だった。


「つーわけで、てめぇは俺の物になった」


 霧人は気の抜けた女に歩み寄ると、その長い髪を鷲掴む。

 顔を上げさせ、三桜の頬にキスをした。


「御上の命令だとしても、主である俺には話せるよな? 並折への入り方」

「……」

「おいおい、まだ抵抗があるってか。まあいいや、とにかく、さっきも言ったが取り急ぎ昏黒坂の人間を二人ほど並折に送らなきゃいけねえ。入り方を言いたくないならそれでもいい。てめぇが二人を連れて並折へ行け。話は終わりだ早速仕事に取り掛かってもらおうか」


 三桜の髪を掴んだまま立ち上がらせ、彼はその背中を蹴った。

「ぐ……」

 力なく立っていた三桜は扉に正面から激突する。

 その音に反応して扉が開き、昏黒坂霧馬が顔をのぞかせた。


「御頭、話は終わったんで?」

「おうよ。俺は本家に帰るぜ、後は任せた」

「はい」

「《キリサメ》は到着したか?」

「待機させてあります」

「よし、この三桜を連れてさっさと取り掛かれ」

「かしこまりました」


 霧馬と三桜を部屋に残し、霧人は出ていこうとした。

 が、途中で足を止めて振り返り、三桜の顔をのぞく。

 耳元に口を近づけて囁いた。


「そうそう。守野八汰祁だけどなぁ」

「……」

「クソ不味かったぜ。ジジイの肉は駄目だな」

「き、貴様あああああああああ!」

「ぎゃはははははははははは!」


 怒りのまま振られた三桜の腕は空を切り、部屋の扉が空しく閉じる音が聞こえた。

 霧馬の冷たい視線を背に、彼女はひたすら叫び続けた。

 


  ◇  ◇



 部屋の中からはまだ守野三桜の叫び声が聞こえている。霧人の名を呼び、殺してやる、ぶち殺してやると。

 それがまるで耳触りの良い音楽であるかのように、扉を背にした霧人は目を閉じて聞いていた。

 再び目を開いた時。先程まで顔に張り付けていた笑みは失せていた。

 ひどくつまらなそうで、どこか投げやりな視線を、どこへ向けるでもなくただ廊下の汚れに向けているだけ。


(人間ってのは人生のうちで何度も選択を迫られるもんだ。それが見えてしまう奴に、そのスリルは楽しめねえ。死使十三魔のツガイは――結界寮とか言っていたか、その並折内の勢力と純血一族が揉めているところを横合いから潰す。あの雪女が本当に考えているのはそういうことなのか? 結界のおかげで俺の未来視も狂っちまって視えやしねぇ。

とりあえずは場を荒らして様子見といったところだが、まさかうちの御上は本気で守野三桜を捨て駒に使うつもりなのか。守野家にしてもそうだ、あっさりと当主を渡しちまいやがって随分頭の悪い――)


――ピピピ、ピン。

 霧人の腰に巻き付いていたベルトに何本もの亀裂が走り、千切れた。

 どうやら三桜からの反撃を何度か貰っていたらしい。

 片眉を上げ、鼻で笑う。


(まあいい、白兵戦最強の駒は手に入った。誰もあの娘の価値をわかっちゃいねえ、可哀想な女だぜ。どうせそのうち三桜を返せと守野家が言ってくるだろうが、そんときゃ返してやるよ。死体になってるだろうけどな。純血一族内は大方俺の予想通りに動いている。

あとは――並折か。霧馬の調査報告が正しけりゃあ、やっぱりもう一度三桜をあそこへ送っておくべきだもんなぁ。ついでに、ツガイの腹ん底が見えりゃあ上々。五位を仕留められりゃあ更に上々。ってな)


 霧人は、あと一つ何か手を打っておきたいとも思っていた。

 彼の中で一つモヤモヤしたものが引っ掛かっている。

 そういうのを嫌い、放っておかない彼は、策を練らせたら純血一族参謀家系をも手玉に取るとまで言われる。

 気になっているのは、やはり死使十三魔序列四位の件だった。


(ツガイは自分の直下部隊にカクテルズという連中を持っている。そいつらの中で、ツガイの侍女をやっていた奴が居た。だが今は居ない。このタイミングで侍女が変わったのは気になる。ツガイが殺すわけもないし、誰かに殺されたなら報復行動に出る筈だがそれも見られない。怪しすぎるんだよなぁ。以前の侍女も今の侍女もコードネームが同じって点は怪しさ抜群だぜ)


 黒い下唇を親指ではじき、考えごとを続けながら廊下を歩く彼の姿はだんだんと薄れていった。


(たしか――そう、グレナデンだ)



  ◇  ◇



 ぎりぎりと歯を噛みしめる三桜の肩に霧馬は手を乗せた。

 その手に同情なんて感情はなく、三桜は彼の「気が済んだらさっさとしてくれないか」という思いを受け取った。

 もはや三桜は守野家当主という立場を失い、昏黒坂の駒となってしまった。

 ただ昏黒坂霧人の生み出す流れに身を任せるだけの――弱肉。

 あの男は守野の人間をよく知っている。八汰祁を喰って、自分達が守野よりも格上なのだと三桜に言い聞かせたのだ。

 強き昏黒坂。

 弱き守野。

 三桜は己が家系の未来を嘆き、悲しんだ。


「改めて自己紹介をしておこうかね。僕が、これから君に任務の案内をする昏黒坂霧馬だ」

「――任務か。私様にまた並折へ行けということだったな」

「ああ。僕と君が関わることなんて今後きっと無いだろうから、別に宜しくしなくて結構。だけど御頭の命令はきっちり遂行してもらう」

「私様が、ここで貴様を殺し、舌を噛み切って自害する可能性は考慮していないのか? ん?」

「んははは、それはないね。君は今、死ぬ気なんてこれーっぽっちもないだろうからよぉ」

「……何故そう思う」

「これでも僕は昏黒坂の外交担当でもあるんでねぇ。他の昏黒坂より他人の気持ちを容易に読み取れるのさ。で、もし僕が君の立場だったら――やっぱり死ねないんだよね。だって気持ち悪いじゃねえか! 君さぁ、気になることだらけだろ? それにせっかく一生懸命、当主として家系の名誉の為に最前線で頑張ってきたのに、あっさりと捨てられるなんて納得いかねえだろ? このまま死んだら、それこそ負け犬だぜ。んははははは」


 彼の言う通り。三桜は納得がいっていない。

 というか、彼女が日本へ帰ってきてから予想もしていない事態が連続していて、こんな状況になっているのだ。彼女からすれば苛立たしいことこの上ない。

 響を殺せという命令は嘘だった。おかげで三桜が海外から呼び戻された意味は無くなり、御上からの信用もがた落ちした。このまま再び海外へ向かうことになるかと思いきや、処分待ちのところに――、

 八汰祁が攫われたという報告。

 これも嘘だった。

 自分の知らないうちに本家が襲われ、八汰祁が殺され、術式法典まで奪われていた。

 当主たる三桜に、誰も報告を入れなかった。

 それどころか術式法典を取り戻すために、本家は勝手に三桜を交換材料として突きだしていた。

 どいつもこいつも嘘ばかり。

 悲しいやら怒れるやら情けないやら悔しいやら。

 そんな感情が溢れているというのに自害なんてするわけがない。

 三桜の心はあっさりと霧馬に読まれていた。


「いいじゃんいいじゃん守野三桜。そこで失望しないだけさすがは元当主。うんうん、霧人様には従っていると見せかけてりゃいい。家系から見放されても家系を想う。泣けるねー」

「心配するな。貴様も霧人もちゃんと喰い散らかしてやる。だから今は言われた通りにしてやるよ」

「んふ、あははは。身体洗って待ってるぜ」


 霧馬は二本指を唇に当て、ちゅ、と三桜へキスを投げた。

 しかめ面の三桜を見てまた笑いながら、彼は部屋を出る。

 三桜も口の中で犬歯を舐めながら追従した。


「まず君と同行してもらう者を紹介する」


 廊下へ出て、やってきた方とは別の方向へ進み、二人は階段を上った。

 それから渡り廊下を抜け、別棟らしき建物に入る。

 霧馬曰く、別棟は《入院棟》と呼ばれているそうだ。三桜は牢獄と解釈した。


「昏黒坂の人間が二人……並折に……」

「ん、まあ、君に解り易いように昏黒坂の人間って言ったけど。二人は昏黒坂であって昏黒坂じゃあないのなぁ」

「どういうことだ」

「家系内事情なんで、君が気にしなくていいことだ」

「貴様らは並折で何をしようとしている? そのくらいは訊いても構わんだろう」

「うっせえなぁ。死使十三魔の序列五位のことは知ってんだろ? そいつをぶち殺すんだよ」

「……ちょっと待てオイ。それは序列五位が並折に居るということか?」

「ほーら食いつきやがっためんどくせぇ。二人を並折に侵入させた後、こっちに帰還するか二人に同行するかは君に任せるから、気になるなら二人に同行しろよ」


 本当に三桜のことを鬱陶しく思っているのだろう。霧馬は歩く速度をはやめてポケットに両手を突っ込んだ。

 五位の名を聞いて動揺した三桜は、霧馬に離されても歩く速度が変わらなかった。

 彼女の横を、いくつもの《病室》が通り過ぎてゆく。

 やはり扉は鉄製で、窓枠には格子が嵌められている。

 中は真っ暗で様子を窺うことは難しい。三桜の目なら可能だろうが、今の彼女にそこまでする気はなかった。

 守野のこと、昏黒坂のこと、自分の置かれた状況。悩みの種は尽きないのに、三桜はふと一人の少女のことを考えていた。


(柘榴、大丈夫かな)


 あの子は臆病だ。臆病なくせにやたら強がりで、意地っ張り。じゃあその意地を張り続けるのかというと、あっさり捨てたりする。

 弱っちいやつ。

 死使十三魔の序列五位が並折に居るなんて聞いたら、あいつはどんな顔をするだろうか。

 もし知らなかったとしても教えてやったら腰を抜かすに違いない。

 澄ました顔で新聞を読みながら減らず口を叩き、しかし夜中にひとりでトイレへ行けなくなるのだ。

 三桜はクス、と笑みをこぼした。

 並折に戻るのだから柘榴との生活がまた始まる。それを思うと、彼女は楽しみな気持ちが少しだけ込み上げてくるのを感じた。唯一の救いだった。


(会いたいなあ、柘榴)


 恋い焦がれるように、ふてぶてしい少女の顔を思い浮かべる。


「――おっと」

 霧馬が二階最奥の病室前で足を止めていた。

 三桜も追い付くが、彼は南京錠の外れた扉の前に立ったまま窓枠から中を覗いているだけだ。

「まだ取り込み中かな」

 霧馬がそう言うので、三桜も気になって彼の後ろから首を伸ばした。

 窓枠から中を覗くと、他の部屋と違って天井の電球が一つ点いている。

 その直下――部屋の中心に、背の高い男の後ろ姿が見えた。

 昏黒坂の人間なのだろうが――髪が、灰色だ。

 全面均等な色合いではなくなんだか薄汚れた色合いで、それを誤魔化すためなのかオールバックに固めている。


「あいつは?」

「彼の名は《キリサメ》。君が連れていく者の一人。説明欲しい?」

「……見たところやはり呪詛憑き……なのになんだか奇妙な感覚を受ける。でも相当の手練れだねありゃあ。昏黒坂にこんな男がいたとは驚きだ」

「一応、昏黒坂の人間だが、昏黒坂の家名を剥奪された男だ。君の見立てどおり腕は一流なんで斬り込み隊長という使い方をしている」

「得物は……刃物か」


 背中に二つ、腰にも二つの鞘を備えているのが見える。両脚の太ももと両腕の二の腕にも一本ずつ計四つの短刀をベルトで固定してある。確認できるだけでも長短八つの武器を装備している珍しい格好だ。

 キリサメの姿を注視していた三桜は、明かりの届かない部屋の四隅に気付いた。


「おい、あれはなんだ」

 両手首を縛られ天井から吊るされた裸体の人間が、ずらりと部屋の壁に沿って並んでいるではないか。

 どれも中年の男のようで運動不足甚だしい腹をしている。猿ぐつわを嵌められた顔は恐怖に目を見開き、キリサメに懇願の意を伝えようと荒い呼吸を繰り返しているようだ。


「何って、人間だろ」

「見たところ全員一般人のようだぞ」

「それがなんだってんだよ」


 キリサメは両手を腰に伸ばし、それぞれ長刀の柄を握った。


「まあキリサメは後回しにすっか。次行こう次」

 霧馬は頭の後ろに両手を回し、三桜の隣を通り過ぎる。

 中からは中年男共の絶叫が聞こえ始め、ビシャリと窓一面に血がくっついて中が見えなくなった。

 肉をミキサーに入れるとこうなるんだな。三桜はそんなことを思った。



  ◇



「で、もう一人は何者なんだ」

 更に階段を上り、三階の廊下を歩きながら訊く。

 二階も静かだったが、この三階は二階とは比べ物にならない不気味さが漂っていた。

 廊下の照明も切られており、先が見えないほどの暗さが覆っている。通り過ぎる病室からはぶつぶつと呟き声が漏れていて、この階には精神に異常をきたした者が閉じ込められているのだろうかと三桜は思った。


「もう一人は、僕のおもちゃ」

「はあ?」

「名前は《昏黒坂霧兎(むう)》。ちょっと遊び過ぎたんでところどころ異常があるかもしれねぇから、キリサメ一人だけ行かせようかと僕は思ってる」

「だが霧人は二人連れて行くよう言っていた筈だ」

「使い物になるかどうかもわかんねぇ奴なんか連れて行ったって意味ねえだろ。御頭には僕から言うつもり」


 その病室にだけは、名札が付いていた。

 霧馬の言った二人目の名前が書かれている。

 彼はポケットから鍵を出して南京錠を外すと、霧人の時と同じように扉の横に立って手で「どうぞ」と促した。


「貴様は来なくていいのか」

「僕の顔を見ると発狂しちまうんでね。ここで待ってるわ」


 自分の家族をおもちゃ呼ばわりとは。顔を見ただけで発狂するようになるまで、一体何をしたのか。

 よその家系事情を気にしつつも、三桜は一人で部屋に入った。



 ◇



 暗闇の中。

 空気に溶けてしまいそうな小声が三桜の鼓膜に届いた。

 少女の声だ。

 独り言だろうか。

 窓際に備え付けられたベッドからだ。

 カーテンを閉め切っている。開けたところで無情の鉄格子が現れるだけで、外の景色が希望を映し出すことはない。

 ツンと鼻につく人間のにおい。空気が生温かい部屋。

 ベッドの上に声の主が横たわっている。

 三桜はその枕元に立ち――、

 絶句した。


「……たくさんの辛いことがあります。でもそれが人生です。生きていれば辛い分だけ必ず幸せは訪れます。それが人生です。たくさんの辛いことがあります。でもそれが人生です。生きていれば辛い分だけ必ず幸せは訪れます。それが人生です。たくさんの辛いことがあります。でもそれが人生です。生きていれば辛い分だけ必ず幸せは訪れます。それが人生です。たくさんの辛いことがあります。でもそれが人生です。生きていれば辛い分だけ必ず幸せは訪れます。それが人生です……」


 小さな唇が小さく動いている。

 痩せ細った指。小さな手は胸の前で組まれているが、手の甲が歪に膨らんでいる。管が浮き出ているようだが明らかに血管ではない太さだ。よくよく見ると縫い跡がある。何かを埋め込まれたのか。

 手首には鎖付きの腕輪を嵌められ、鎖はベッドの支柱に繋がっている。

 まさかと思い足元を見ると、やはり足首にも同様のものが嵌められていた。

 部屋の中にトイレが備わっているのでそこまで歩けるくらいの鎖の長さはあった。独房そのものだ。

 服も着せられずバスタオル程度の大きさの布を一枚だけ掛けられた彼女は、畳まれた折り紙を胸に抱いていた。

 伸び続けた黒髪は、一部分がベッドから床まで垂れている。

 青痣だらけの顔。痣は顔だけでなく全身に見られた。

 虚ろな右目はずっとカビの生えた天井を見続けている。もう片方の目は眼帯が付けられ、血が滲んでいた。

 それは、見るに堪えない少女で。

 三桜もどう声を掛けようかと戸惑った。


「昏黒坂、霧兎……だな?」


――ギロッ。

 呟いていた口を閉じ、見開かれた右目が三桜の顔に向けられる。


「私様は、守野三桜という」


 じっと顔を見つめたまま霧兎は動かない。

 小さな口が小さく動いた。


「……き、きょうは……なにもしない日だって……」

「は?」

「……きょうは、痛いことされない日……」


 少女の目に涙が浮かぶ。

 胸の前で組んだ手がカタカタと震えだした。

 三桜はその手に自分の手を重ね、少女の頭にも手を添えた。


「しないよ。しない」

「……ほんとうに? きょうはしない日?」

「うん、私様はお前と一緒にお出かけをするために来たんだ」

「お出かけ? 外に?」

「そうだよ。もう痛いことなんかされない」

「でも……」


 霧兎は布を掴み、顔まで引き上げて覆った。


「大丈夫。お前に痛いことする奴には、もうさせないように言ったから。そいつもお出かけしていいってさ」

「でも……」


 じゃら、と鎖が少女の胸を流れて音を出した。


「霧兎は、病気だから……」

「病気?」

「うん……」

「どんな?」


 三桜は膝をかがめて霧兎の顔に自分の顔を近づける。

 少女は布で隠していた顔を少しだけ出し、伏せた目をちらちらと三桜に向けた。


「あのね……誰にも言わない……?」

「ああ、言わない」

「毎日……赤いおしっこが出るの……」


――ギッ……!

 三桜は表情を崩さず、奥歯を食い縛った。

 この痣だらけの身体を見れば、血尿が出るのは当然だ。


「あはは、大丈夫だ。外に出かければ出なくなっていくよ。私様も赤いおしっこ出たことあるから、同じだね」

「ほんとっ?」

「本当だ。だから私様と、あともう一人いるんだけど、とにかく三人で出かけてくれるかな?」

「もうひとり?」

「キリサメって奴。その様子だと会ったことないだろ」


 霧兎はしばらく呆けた顔で三桜の口の動きを見ていた。

「……うん……ない……」

「たぶん私様よりそいつと一緒に行動することが多い。仲良くしろよ」

「……わかった」


 カーテンと鉄格子、鉄扉と南京錠で閉ざされたこの場所に一生を過ごす。その幸せなき現実と苦痛に満ちた未来がどれだけ少女の心を痛め付けたかわからない。

 三桜はこの子がどれだけの間ここで過ごしていたか知らないが、霧馬の玩具にされてきた霧兎が今も正気を保ったままで生きていることが信じられなかった。

 身体の傷を見たら瞭然。矢神聖歌の凄惨な縫い跡を見ても動じなかったが、あれは別だ。人間じゃあない。

 霧兎の縫い跡は、身体のパーツを合わせるために縫ったものとは違う。手の甲には何かを埋め込まれた膨らみがあるのだ、腹部だって切り開いてなんらかの処置を施されているに違いない。

 病院と銘打ったところで昏黒坂の施設だ。苦痛を与え悲鳴を愉しむ連中が、手術と称して身体を切り裂けば当然笑い声と悲鳴がこだましただろう。

 霧兎にはその跡がたくさんあった。

 片方の目は――霧馬に食べられていた。


「ほとんど寝ていたんだろう、立てるのか?」


 言われ、筋肉の衰えた少女は腕を支えにして身を起こす。

 ぺた、と細い足を床に着けるが、立つのに苦労しているようだ。案の定、彼女の脚は筋力の衰えが著しかった。苦労しているのは筋力のせいだけではないらしい。両足十本の指に包帯が巻かれている。爪でも剥がされたか。


「わかった、無理するな。お洒落な杖を買ってやるよ」

「ごめんなさい」

「気にすんな、仕方ないさ」


 また霧兎をベッドに寝かせて肩を叩いた三桜は、「また後でな」と言って部屋を出た。



  ◇



 昏黒坂霧兎は三桜が去ったあと、また天井を見ながら彼女の姿を思い描いていた。

 背が高くて、生気に満ち溢れていて、魅力的な女性。

 人生のすべてに自信を持っているかのようなあの目の輝きは、一度見たらなかなか忘れられるものではない。

 あんな風に生きられたらと、霧兎は憧れた。

 期待感が膨らむ。

 ずっとここに居なければならないとは、彼女は思っていなかった。

 いつか出られる日が来る。そう信じて生きてきた。


 たくさんの辛いことがあります。でもそれが人生です。生きていれば辛い分だけ必ず幸せは訪れます。それが人生です。


 こんなにたくさん辛いことを我慢してきたのだ。その分だけ訪れる幸せはどのようなものだろう。霧兎には想像もできない。

 手に握る折り畳まれた紙は、長い間彼女に握られていたので汚れている。何度も何度も読み返し、何度も何度も希望をもらった大切な紙。


「たくさんの幸せ……」


 ほう、と期待の溜息が漏れた。

 黙って天井を見つめていると、外から話し声が聞こえる。

 さっきの三桜という人だろうか。別の人と言い争っているようにも聞こえる。

 三桜の相手は聞きづらい声でもすぐにわかった。霧馬だ。彼の声は鼓膜に届くたびに霧兎を恐怖させる。だから間違いない、三桜と外で話しているのは霧馬だ。

 霧兎は使い物にならないとか、役立たずとか言っている。それに対して三桜が怒鳴っているようだった。

 部屋の隣や、廊下から聞こえてくる騒音には慣れている。自分に対する冷たい言葉にもだ。

 今日は痛いことをされない日なのだ。

安心しきってはいないが、いつもより穏やかな気持ちで居られた。

 三桜の声が大きくなっている。

 霧馬の、他人を虚仮にする笑い声も大きくなっている。


 そして――今まで有り得なかったことが起きた。


 自分の部屋の壁が、凄まじい音をたてて砕けたのだ。

 壁に埋まっていた鉄の芯が折れ、その一本がベッドの枕元に激突した。

 霧兎は目を丸くするしかない。

 驚きのあまり言葉を失い、壁に開けられた大きな穴を見る。

 穴から見える廊下には、さっきのかっこいい女性の姿。

 そして内側――霧兎の部屋には、昏黒坂霧馬が倒れていた。


「……ひっ」


 霧馬の姿を見た霧兎は恐怖反応でベッドの端に退く。

 いつもは恐怖する霧兎の顔を嬉々として覗いてくるのだが、今回は違った。

 霧馬は霧兎の存在など意識から外れてしまっているようで、視線を穴の外に向けていた。

 口元はにやついているが視線は殺気が籠もっている。

 砕けた壁の粉末を浴びた霧馬は、衣に付いたそれを払いながら立ち上がろうとするも、ガクリと力なく膝をついた。

 何が起こったのだ。

 混乱する霧兎はただ見守ることしかできない。

 三桜が壊れた壁に手を置き、中へ入ってきた。


「今のが、三倍三桜拳ね」

 澄ました顔で霧馬に言う。

 対する男は何か言い返そうとして、胃から上ってきた血に邪魔された。

「……ガッ……ハッ……」


 びしゃ、と床に吐血する。

 霧馬が床に膝を着かされている姿など、霧兎は見たことが無かった。


「昏黒坂の弱肉系男子かと思ったが、案外タフだね。どうせしばらくは立てないだろうから、勝手に霧兎を連れて行くよ」

「……んふ、んははは」

「服とか杖とか買い揃えなきゃいけないんだ。あとはー、そうだな。お泊りセット。女の子の基本道具は揃えないと。な?」


 と言って、三桜は霧兎の方を見た。

 だが少女は身動き一つしない。

 霧兎は霧馬の反感を買うことは避けたかった。彼の意思に背けば、相応の仕打ちが待っている。

 ここで三桜に同調し、自ら彼女を求める行動はできなかった。

 霧馬がこちらを見ている。

 胸を押さえ、身動きできない苛立ちを視線に乗せて、霧兎にぶつけている。

 三桜と霧馬。霧兎は交互に二人を見て、涙を浮かべた。


「……人間てのは。んはは……人生のうちで何度も選択を迫られるもんだ。御頭の言葉さ。覚えているかい、霧兎……教えたよな?」


 霧馬の言葉に、霧兎は身体を震わせた。

 三桜は黙って見ているだけで、動こうとしない。


「……ゲヘッ、ゲホッ。守野三桜が、昏黒坂霧馬を退けて、お前を連れ出そうとしている。見ての通り僕は動けねえ。さあ、お前次第だ、霧兎」

「……あ、う……」

「僕の意思に反するのか……? お前如きが」


 守野三桜と昏黒坂霧馬。希望と恐怖の軋轢。

 勝っているのは恐怖心だ。今までは霧馬に従い、反抗の意なんて示したこともなかった。それでも霧馬や他の昏黒坂の者達は容赦なく霧兎を痛めつけた。

 反抗の意思なんてこれっぽっちも抱かなかった。もし今、ここで初めて彼に背いたら。その後待っている責め苦は今までとは比べ物にならないだろう。

 爪を剥がされ、皮を剥がされ、身体にメスを入れられるよりも痛いことをされるかもしれない。裸に剥かれて廊下に吊るされ水や視線を浴びせられるよりも恥ずかしく苦しいことをされるかもしれない。体内に埋め込まれた機械よりも、もっと歪で禍々しいものを埋め込まれるかもしれない。

 それを思うと、どうしても霧兎には希望を掴もうと手を伸ばす事ができなかった。


――『たくさんの辛いことがあります。でもそれが人生です。生きていれば辛い分だけ必ず幸せは訪れます。それが人生です』


 いつも自分に言い聞かせていた言葉。

 訪れる幸せは、いつ来るのだろうと毎日考えていた。


――『たくさんの辛いことがあります。でもそれが人生です。生きていれば辛い分だけ必ず幸せは訪れます。それが人生です』

――『信じて生きていれば、また会える。自分に負けるな。一緒に頑張ろう、霧兎』


(自分に負けない……一緒に……)


 いつも心の支えとしていたボロボロの手紙。

 何をされても霧兎はこれを握り締めて耐えた。

 霧兎はかたく目を閉じ、「ふう、ふう、ふう」と呼吸を荒くした。

 手汗と血が染みこんだ手紙をぎゅうと握り、恐怖心と戦う。

 そして、懸命に言葉をひり出した。


「い、いき、ます」

「……あぁ?」

「い、いって……きます」


 霧兎はベッドの支柱を支えに立ち上がると、おぼつかない足取りで三桜のところまで歩いた。

 床に座り込む霧馬を視界に捉えながら、霧兎は、ここから出る選択をしたのだ。


「決まりだな霧馬」


 ニッ、と笑う三桜。

 自分の足で歩いてきた少女を、持ち上げて背中に乗せた。

 霧馬は血を横へ吐き捨て、諦めとも取れる深い溜息をついた。


「勝手にしやがれ。任務内容はキリサメに伝えてある。あいつから聞け」

「やけにあっさり折れたな。ダメージで心が折れたか?」

「てめぇのカス殴りなんざ屁でもねぇよ。昏黒坂らしくて良いんじゃねーの? リスキーな選択には寛容なんだよ僕たちは」


 苦し紛れの捨て台詞を吐く彼を残し、三桜は穴から廊下に出る。

 背中に乗せた霧兎は額に脂汗を浮かばせ、まだ震えているようだった。


 昏黒坂霧兎は希望を掴むため、選択した。

 この選択が本当に彼女に幸せをもたらすのかは定かではない。

 たしかに霧兎は昏黒坂病院の、暗い病室から出る事ができた。

 しかし――これから彼女が向かう場所が、昏黒坂病院よりも危険な場所であることは間違いない。待っているのは結界都市、集いし異形、そして……昏黒坂の標的、序列五位なのだ。


 再び、そして今度は本格的に戦闘を前提として、純血一族の介入が始まる。


 獣人――守野三桜。

 昏黒の特攻兵器――昏黒坂霧兎。

 灰刃――キリサメ。


 いざ、並折へ。


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