PUNICA【カオナシとは】3
私からの電話を受けて明朗がひのえと商店街の路地裏に到着した時。私は御渡瑠架子の死体近くで彼女の散らばった歯を一つ一つ拾い集め、片手の平に乗せているところだった。
ニット帽を深々と被った頭が私の顔を覗く。
「ク、クロちゃん……なに、これ」
可哀想な瑠架子。苦しかったでしょうに。怖かったでしょうに。痛かったでしょうに。
彼女を葬った奴は一度も姿を見せなかった。それがまた恐ろしい。この場に居なくとも人間を殺すなんて容易いんだ。
「これ……瑠架子さん?」
でもどうして瑠架子が殺されたのだ。
あの時、瑠架子は結界寮の住人としてその仕事を遂行しようとしていただけだった。
どうして私は生きていて、瑠架子だけが。
――『お主とはもう話す口を持たぬでござる』
そう言ったからなの? だから顔を消されたの?
その一言を言ったから、瑠架子はカオナシの殺害対象と認識されてしまったの?
じゃあ、瑠架子が死んだのは私が原因だ。
「一体何があったのクロちゃん! しっかりしてくれ!」
瑠架子が死んでくれたおかげで、私はまだ目的に手を伸ばす事ができる。
「はは、ははは……」すごく笑える。
あのままだったら、私は結界寮に捕まっていたんだもの。私が死ぬ筈だった。
わかっていたことじゃないか。此処はそういう場所なんだって。
私は元々そういう女だったじゃないか。他人の犠牲を糧に生き延びる弱い女なのよ。
瑠架子だって、私が死使十三魔の関係者だと知った途端に態度を一変させた。容赦なく私を殺そうとした。
私が原因で瑠架子が死んだ。
だからなんなのよ。
瑠架子が勝手に禁句を口にしただけじゃないの。あんなに激しく何度も顔を破壊しなくたって、助かったかもしれないじゃないの。混乱して恐怖して苦しんで、落ち着きを失ったのは瑠架子だ。生きていれば命に関わる出来事に遭遇する事なんて誰でも有り得る。
遭遇し、そこでうまく対処できなかった瑠架子が悪いんだ。
私はきっかけにすぎない。
私が強くないことくらい知っているくせに、危険勢力関係者だからと過剰に警戒したからだ。さっさと腕なり足なり斬り落として結界寮へ連れていけば良かったものを。そんな判断もできない馬鹿な刃。
そうよ。瑠架子はどうせ早々に死んでいた。結界寮にすべてを委ねた意思のない駒なんて、長く生きていられるわけがないじゃない。
やっぱり貴方をきっかけとして気付いたものは間違っていなかったよ、響。
立ち回り方。瑠架子はそれが間違っていたから死んだの。そして私は生きている。
私は……生きている。
生き……て。
「泣いてるだけじゃわかんないよクロちゃん! 怖い目に遭ったのはわかる、瑠架子さんの有様からして、残酷な光景を見てしまったこともわかるよ! でもそれをやった奴が近くにいるなら早く追わなければいけないんだ!」
違う……。
私の目に焼き付いているのは、頭から離れないのは、違う。
瑠架子が自分の顔を破壊する様じゃない。
私がショックだったのは、瑠架子の目。
殺し屋稼業に身を置き、艶切りの異名で知れたあの女性が、ひどく怯えた目で私を見つめていたことが辛い。
私を殺そうとしていたくせに助けを求めて涙を浮かべて。無表情を貫くのが特徴だったくせに、あんなに恐怖を曝け出して。死にたくないって、私に目で訴えてきた。
なんだあれは。
並折の住人なら最期くらい《らしく》死になさいよ。
そういう場所で生きているし、それが当然だと覚悟して生きていたんでしょう?
一般的思考の私と違って、瑠架子は変態雑食厚顔無恥のファッキンビッチなんでしょう?
クレイジーな思考で日常生活に死が溶け込んでいるくせに、いざ自分が死にそうになったら恐怖するの?
都合のいいことだ。それじゃあまるで――《人間》みたいじゃないか。
他人の死に碌な感想も抱かない奴が。死に際に見せた本性がそれ?
私は認めない。それが瑠架子のデュアルフェイスだなんて絶対に認めないからな。
「僕がわかる? ほら目線合わせてみて。駄目か、瞳孔が定まっていない。手が血塗れじゃないか、握っているのは――歯? 瑠架子さんのものか。集めてくれたんだね」
認めない。認めない。認めない。
そんな貌を見せられた私は決して認めない。
だってそうでしょう? あんな目で見つめられて、恍惚の顔なんてできるわけがないじゃないの。私は――瑠架子を助けたいと思ってしまった。私まで怯えた顔になっていた。
そんなのありえない。
それではこの記憶が揺さぶられてしまうではないか。
私の物ではない私の記憶が瓦解してしまうではないか。
だって……だって……私も、瑠架子と同じ貌で死んだ筈だもの。
それを見たあいつは、私が最期に見たあいつは――嗤っていたもの!
どんなに助けを求めたって、苦しんだって怯えたって、あいつは、カオナシは、それを愉しむように嗤っていた!
でもその私は非情で冷酷で殺戮に魅せられた女だった。そう、この並折の住人共のように。
だから瑠架子もその時の私と同じ貌で死ななければならない。同じ貌で死ぬ筈なんだ。
「もしもし林檎さん? 瑠架子さんが……死にました。え、死体状況? その……頭部が原形を失っています。近くに彼女の持ち物が落ちていますので、御渡瑠架子に間違いないかと。顔を瑠架子さんの武器――鉄扇で切り刻んだみたいです。死体に刺さっています。
林檎さん、さっきたしか瑠架子さんに電話を掛けたって言っていましたよね。はい……えっ? 外食? 他には何か、あ、はい、そうですか。ええと、犯人は見当たらずです。
現場には――誰も居ません。僕は彼女から図書館に用があると聞いていましたから、手が空いたので様子を見に行こうと思ったんです。はい、現場はひのえと商店街から横道に逸れた路地です。目印は薬局と靴屋の間の――はいその路地です。そうですね、図書館に向かう途中で襲われたものかと。回収の手配をお願いします。まだ死亡して間もないので、念のため回収班には護衛を。あとはひのえと駅から商店街にかけての警備要員を数人ほど寄越してください」
明朗が居る。誰かと電話で喋っている。
彼の足元で瑠架子が倒れている。閉じられた鉄扇をぐっちゃぐちゃの肉で包んで、両腕を広げて。
あ。明朗、そこ瑠架子のおしっこが広がってるよ。踏んじゃってるよ。
「――自殺の可能性? こんな方法では有り得ないですよ! たしかに瑠架子さん自身の鉄扇でやられていますけど。とにかく回収した遺体を調べてみないと。林檎さんも早く現場検分に――はぁ? 食事? 誰の? 梵さん? はあ、忙しくて? はあ、遅い時間に? はあ、これから作り直す?
……もういいですわかりましたよ! じゃあ梵さんの食事が済んだらすぐに来てください! 僕は犯人が近くに居ると仮定して周辺捜査に行きます! 現場をそのままにして離れますよ、いいんですね! 失礼します!」
明朗、怒ってる。
「ったく、やっぱりあの人達はどこかおかしい。頭の螺子が外れている。瑠架子さん、あんなに良い人だったのに……!」
おかしくないよ。
ここでは明朗がおかしいんだよ。
私もおかしいんだよ。
「さてと。クロちゃんそれ瑠架子さんの携帯だよね、ちょっと借りるよ。えーと、僕宛の発信履歴……あった。削除、と。これでよし。バッグから取り出したんだよね? 戻しておくか。財布の中はー、おっと領収書が二枚。一つは洋服店のもの。二日前か。あと、駅前のパフェ店のもの。四つとはさすがです瑠架子さん。十五時……ついさっきか? うーん、外食云々言ってたからなあ。全部捨てておくか。あとはー、周囲にクロちゃんの持ち物は落ちていない、と。うんオッケイ。鉄扇も血塗れだしどうやら指紋の心配は要らないね。さあクロちゃん立って。回収班が来る前にこの場を離れよう」
目の前に手を差し伸べられた。
明朗、笑ってる。
明朗の手。握ってみたい。
でも私の両手は瑠架子の血で濡れているから、こんな手では握れない。
力が出ない。
瑠架子から離れたくない。
待っていれば彼女が起きてくる気がした。そうしたら、どうしてあんな貌で死んだのか訊けると思った。
すると明朗は私の両脇の下に手を挿し入れた。腕が背中に回り、ぐいっと強い力で身体が前に持ち上げられる。
私の胸と、明朗の胸が重なった。
「よいしょっと」
彼は私の両腕を彼の肩へと移動させ、自分の身体を反転。
私の胸は背中に当てられ、背後から彼を抱き締める形になった。
彼は背を折り曲げる。私の体重は完全に彼の身体に預けられた。
そのまま臀部に手が回り、私の身体が浮いた。
私はこれを知っている。
おんぶ。赤子を背で抱く形だ。
初めてだったが、不思議と安心する。
明朗の呼吸が胸から伝わってくる。人それぞれ呼吸のリズムが違うと肌で知った。
私の顎が肩に乗るように調節してくれる。
「どうして……」
「クロちゃん? そりゃあ、瑠架子さんが奇怪な死に方をしてその近くに居たなら、結界寮の聴取を受けることになるからね。それってかなり面倒だよ。あとクロちゃんも首筋に傷がある。その形は鉄扇で付けられたものだよね。もしかしてクロちゃんと瑠架子さんの間でトラブルでもあったのかなって思ってさ。もしそうならますます面倒だよ。あと、犯人の顔、覚えてる? 何があったか話せる?」
……話せるわけがない。
私が死使十三魔の元構成員だなんて言えない。明朗は瑠架子と同じ結界寮の住人だ。事実を知れば、また惨劇が繰り返される。
無言で肯定も否定もしない私に明朗は何も言わず歩き出した。
路地の奥。さらに暗闇へ。
ここからでも図書館には着くと、彼は独り言のように呟いていた。
「なんで図書館に?」
「クロちゃんは図書館に用があったんじゃないの? 瑠架子さんから聞いたよ、カオナシという妖怪について知りたいんだって?」
「……ん、えっ?」
「だって僕が瑠架子さんに教えてあげたんだよ。あそこなら文献が残っているかもって」
びっくりして霧中のように朦朧としていた思考が晴れてきた。
「駄目だよクロちゃん、結界寮の人達でもカオナシについてはよく知らないんだから」
「でも明朗は知ってるのよね。あんた本当に何者?」
あはは、と彼は私を背負い直して笑う。
「僕が何者か。そうだなあ、僕が話したらクロちゃんも教えてくれる?」
「え……」
「クロちゃんが何者なのか。どんな理由で並折にやって来たのか。もっとクロちゃんのこと、知りたいな」
「う……」
正直……断りたかった。私が正直に素性を話せば、私と明朗の関係は崩れてしまうから。
彼は結界寮の住人として私を捕えなければならず、私は彼を退けなければならなくなる。瑠架子の時のように彼が私に敵意を向けてくることになる。
そうなるのは、嫌だ。
「あたしのことは――」
「話したくない? そうだよね、ごめん。並折に来る人にそれを訊くのはNGか」
「どうなんだろう……」
「じゃあクロちゃんがもし話してもいいと思ってくれたら。その時に、話してよ」
「うん……ごめん」
「謝らなくていいよ、当然だもんね。でも僕は、クロちゃんが何者であったとしても……」
「ん?」
「あはは、なんでもないよー」
そう言って明朗はまた笑う。
表情が見えないから彼がどんな感情を持っているのかわからない。
顔に浮かべる表情はまず疑うというのに、それを見たがる私はやっぱり変だ。
でも何故だろう。
彼と話す時。彼と会う時。彼の顔を見ていたいと思うようになっていた。
明朗はいつも気遣ってくれる。この街で独りの私が頼れる存在。
「えーっと、何から話そうかな。やっぱ、能力者でもなく裏稼業でもない僕がどうして結界寮に居るのかだよね。簡単だよ。それは僕が地元民だからさ」
「地元民?」
「そう、言葉のまんま。結界寮が並折にできた時――つまり管理人や結界屋がこの街に来た時に、この街の歴史を知っていて土地勘のある人間を欲したんだ。それで、僕が雇われたってわけ」
「じゃあ明朗は、ここが結界都市になる前から住んでいたのね」
「正確には……結界寮が来る前にも封印結界があったわけだから、結界屋さんによって本格結界都市化する前から。だね」
「ああ、そっか」
じゃあ明朗は結界寮ができたと同時に、こちら側の世界に入れられてしまったということになる。
それまでは表側で、一般人として生活を送っていたのだ。
何故こちら側に入ったのだろう。彼が自分の意志で選択したのだろうか。いや、私が持っている結界寮の印象からして、明朗は無理矢理引き込まれたのだと予想する。
表側への配慮など、己が組織の為ならばいくらでも欠くことの出来る連中だ。
瑠架子のように雇った裏稼業ですら意のままに操る駒にしか考えない。駒が死んだって意にも介さない。そういう奴らだ。
だから結界寮管理人――梵と林檎なら、伊佐乃明朗という一般人を躊躇せず引き込むくらいはするだろう。それどころか脅してでも並折の案内人という人材を確保しようとしたに違いない。
「明朗は、表側よりも《こっち》の方が良かった?」
「……」
少し口篭もったのは、考えたかったからだと思う。
でも彼は迷いのない口調で答えた。
「結果としては良かったよ」
過程ではたくさん悩んだかもしれない。苦しんだかもしれない。
そりゃそうだ。純血一族だの暗殺組織だの裏稼業だのという言葉が飛び交い、世界危険勢力なんて存在があって、常軌を逸した人殺しが日常茶飯事で、超常異常が現実に起こる世界だぞ。そんな世界にいきなり飛び込んで、すぐに適応できるわけがない。
結果としては良かった。
その言葉を聞いた私が哀しげに吐息を漏らすと、明朗は「ん」と吐息に相槌を打ってくれた。
「結界寮ができた当初、僕も少しの間は表側に居たよ。それから結界寮が独自の感知・呪詛弱効果結界を張ろうと動き出す際、土地に詳しい地元の人間が必要になったんだ。この街に既に張られていた妖怪封印結界をベースにしようとしたからね。そこで僕が結界寮に雇われることになった。
驚いたよ。自分の頭がおかしくなったのかと思った。だって普段歩いている道に、ごく自然に死体が転がっているんだよ? 今までは気付かなかった、気付けなかったものが全部見聞きできるようになっちゃったんだ。その時に管理人として僕を引き入れた梵さんと林檎さんは言った。『これが街の真の姿』『結界寮はこの荒れた街を統轄しなければならない』と。
だから僕も協力する事にした。裏側の文字通り無法者が表側の人間を殺す。表側の人々は警戒もできなければ死んだことすら無にされてしまう。認識できないのだから。それを防ぎたいと心底思った」
結界寮はやはり並折に必要な組織。明朗もそう思って協力したんだ。
明朗の話の途中で、視界が明るくなってきた。前方を見ると建物の連なりが終わっている。隙間を走るこの路地裏も終わりだ。
しかし、路地裏の終点であり大通りに繋がる手前で。何故か明朗は立ち止まってしまった。
不思議に思って私が首を傾げていると、ほんとうに小さな「でも……」という明朗の呟きが聞こえた。
「梵さんと林檎さんは、嘘を吐いていた」
「嘘?」
「僕を引き込むための方便だった。しばらく結界寮に居て気付いたんだ。《この街が裏稼業や無法者、能力者で溢れかえっていたのは、結界寮それ自体が原因だったのさ》」
「どういうこと……?」
「クロちゃんには一度話したことがあるけど。無音という異名で知られる梵さん。瞬撃という異名で知られる林檎さん。あの二人は、《ティンダロスの猟犬》に於ける最高戦力と呼ばれるチームに居た」
うん、確かに聞いた。七人一組の逸話だ。
「チーム解散後、二人はこの街へやって来た。僕の調べでは、あの二人が来るまでは此処は荒れていなかった」
「つまり――《無音》と《瞬撃》という異名に惹かれて、賞金目当ての裏稼業や賞金稼ぎが集まってきたと」
「名を売ろうとする能力者もね。だからこの街が荒れた原因は、そもそもあの二人だったんだ。結界寮が街を荒らし、結界を張って治め、一組織として膨れ上がったってことさ」
もう自分で歩けるから大丈夫だと言って、私は明朗の背から降りた。
今の話が事実なら、つまりこの並折を魔都にしたのはあの二人ということか。
並折はただカオナシという妖怪が封印されていただけの土地で、ここを裏世界の人間で溢れかえらせたそもそもの原因が、元ティンダロス戦闘員であるあの管理人達。
そして結界を張り、純血一族及び死使十三魔の干渉を避けるようにしてしまった。更には感知結界によって実質的な支配体制を整えた。
結界寮の目的は、並折の統治なんかじゃない。それは真の目的の過程にすぎなかったのだ。
梵と林檎。
あの二人はまだティンダロスの猟犬と繋がっているのか?
繋がっているのなら、結界寮の目的は――ティンダロスによる日本制覇を前提とした拠点。無論それは純血一族の駆逐も意味している。
だが二人の独断だとしたら、目的は――一勢力としての独立。これも日本に拠点を置く以上、純血一族との対立を想定しているのは明白。今後の動き方によっては死使十三魔やティンダロスとも対立することも考えられる。事実結界寮は危険勢力相手だろうと侵入者は容赦なく排除する方針をとっている。
もっと違う目的が存在するのか? 私の思考では到底辿り着けない何かがあるのか?
どちらにせよ並折は近い未来、激戦の地になるぞ。
それは明朗が最も避けたい未来である筈でしょう?
「ならどうして明朗は未だ結界寮に所属し、協力し続けているの?」
この問いに彼は――、
「秘密」
と、片目を閉じて白い歯を覗かせた。
もし瑠架子が私の隣に居たら、今の明朗の仕草を見て『ミステリアス』と言ったかもしれない。そんな雰囲気を醸し出していた。
「僕の話はここまで。さあ行こう」
私の方を向いていた明朗はくるっと反転し、表通りを先に歩いてゆく。
今頃は結界寮の回収班が瑠架子の亡骸を見て言葉を失っているだろうか。
路地裏から出ると、つい今しがた起きた惨劇が悪い夢だったように感じられる。あれは現実ではないのだと、私が無意識にそう思いたがっているからなのだろうか。
瑠架子……。
彼女の死に様を目撃したショックは決して薄れていない。それでも明朗が傍にいるだけで随分気持ちが落ち着いたようだ。
先行する背中を眺めていると、ふいにその軸が揺れた。顔を上げて天を仰いでいる。
しかし彼が見ていたのはそんな遠きいや果てではなく、車道を挟んで向こう側にある電柱のほう。高所作業車が停まっている。電気工事かなにかだろう。
「電線が切れたんだ」
彼の言う通り作業員が断線した部分を調べていた。疲労断線か引張断線か知らないが、戸惑っている様子。商店街で断線だなんて。
電柱が少しばかり傾いているのもなんだか気になった。
◇ ◇
商店街を逸れた道を進んだ先。民家の並ぶ中に、旧図書館は違和感なく建っていた。
築三十~四十年くらいと思われる。小さな建物だ。
手入れされていないガラスは罅割れて汚れも目立ち、中を覗くことさえできない。
明朗が力いっぱい固い戸を横に引くと、重い音と共にもわっと埃が外へ飛び出してきた。
廃墟かよ。
私がそう呟くと明朗は小さく笑い、中へ入っていった。
案の定保管されていた本は全て新しい図書館へ移されており、中は蜘蛛の巣の張った空の本棚だけが並んでいる。本当に廃墟だった。
「本が一冊も無い図書館とは、滑稽ね」
「あはは。そんなこと言うと司書さんに怒られるよ」
なんと司書が居るらしい。
身体が透けていたり足がなかったりする司書だったらごめんだ。そういう存在はおとなしく呪術師に処理されるべきだ。そういえば私は見たことがないが、最近は西洋でネクロマンサーが活発的に活動を行っていると聞いた。
聖歌は死霊より死体を扱った魔術という点ではネクロマンサーの類なのだろうか。傀儡屋を名乗っていた以上、死霊魔術師とは自称しないだろう。死体技術師だの死体美術家だの言いそうだ。三桜曰く傀儡には禁術を用いていたそうだから魔術師に違いないけど。
「で、そのオバケ司書はどこよ」
「僕なんだけど……」
「明朗オバケだったの?」
「オバケだなんて一言も言ってないんだけど!」
羽田立荘と同じように、一般的に使われなくなったこの旧図書館の管理も彼が押し付けられたらしい。
管理も何も、掃除なんかしていないし鍵だって掛けていないじゃないか。
「此処の事を知っているのって結界寮の住人くらいだし……こんな場所に調べものに来る人なんて居ないし……」
「なんだっていいわ。とにかくカオナシの文献とやらを出して――って、そういえば明朗はカオナシを知ってるの?」
「うん、機会があってね」
「機会?」
「そう。実はこの図書館を任されることになった時、ついでに結界寮の倉庫にあった書物も此処へまとめてしまったんだ。梵さんと林檎さんが読みもしないのに手当たり次第掻き集めたこの街の情報。その中に、一通の手紙があった」
「手紙?」
「遺書だよ。外界からやって来た研究者のものだった。なかなか面白い内容だったけど僕は興味なかったからそのまま図書館に置いたのさ」
「……もしかしてそれが?」
「うん、カオナシに関する文献。他にそれっぽい物も無いし、並折に存在するカオナシ関連の文献はそれだけじゃないかな」
確かに並折中の情報を掻き集めたのなら、そういうことになるか。
明朗は埃だらけの受付台を乗り越えて奥に入る。そのまましゃがんでしまい、こちらから彼の姿が見えなくなった。
「えーと、どこだっけか」とか呟きつつ棚を漁り、「あった」と、これまた古いノートを一冊、台の上に置いた。
表紙には《貸し出し台帳》と書かれている。
「クロちゃん、そこに名前書いておいて」
それだけ言うと明朗は再び頭をひっこめて埃の園へ入ってしまった。
果たしてこんな場所で貸し出し台帳が意味を成すのか疑問だが、一応彼も此処では司書という立場だから言った通りにしよう。
「……へえ」
色々な名前が上から順に並んでいる。意外にも利用者はそこそこ居るようだ。
訪れる人がみんな埃まみれになっていることを思うと、なんだか笑える。
左から年月、名前、借りた本の名前。本の名前はアバウトに全部《資料》と書かれている。それでいいのか明朗司書殿。
ま、いいか。私もそう書こう。
ページをめくって一番新しい名前を探す。
あった。
年月は――《二〇〇四年、七月》。二年前か。それから誰も利用していないなら、そりゃあ埃も溜まる。
名前の欄には数字が書かれているだけだ。《三九五番》と書かれている。なんのこっちゃ。
で、借りた本はやっぱり《資料》。
その下に私も同じように二〇〇六年、十月と書く。名前欄には天宮柘榴。借りた本は資料、と。
よし。
台帳を閉じて明朗を呼ぶと、埃のついた頭が台の下から現れる。彼はいつの間にか被っていたニット帽を脱ぎ、マスクを着けていた。埃対策か。準備の良い奴だ。
「あった?」
「あったよ。ほら」
明朗は書いた内容も確認せず貸し出し台帳を閉じて台の下に引っ込め、入れ替わりに色褪せた茶封筒を置いた。
封筒には何も書かれていないし雑に開けられた痕跡がある。先に読んだ明朗は遺書だと言っていた。
やっと辿り着いた。
カオナシの手掛かり。
胸が高鳴る。
「よ、読んでもいい?」
興奮を口に出すと、明朗に笑われた。
「読むために来たんでしょ?」
それもそうか。
「ただ、此処はちょっと埃が多いから、外へ出よう」
明朗の案内で、団地の片隅にある公園へ移動した。屋根とテーブル付きのベンチまである。子連れの母親が散歩をしている以外は特に目立った人の気配もない。
私と明朗は封筒から出した数枚の便箋をテーブル上に並べた。
「それを読む前に、ちょっといいかな」
と明朗。
「カオナシの存在について、結界寮の人間で知る者はおそらく僕だけだ。内容から察するに、そのカオナシってのがすごく危険な奴というのはわかった。だから、君に訊いておきたい」
「どこでカオナシを知ったのか? それともカオナシを調べてどうしたいのか?」
「僕が知りたいのは後者だ。クロちゃん、君について僕は何も知らない。君が外界でどんな生活をしていたのかも知らない。ただ……ただね……」
彼は両手を組み、一呼吸置く。
「君がこの街を破滅へ導くつもりなら、僕は君を敵としなければならない」
「明朗……」
「君は、この街の――僕の敵かい?」
「あたしは――」
「いや勿論知的好奇心ゆえの調べものだったら問題ないし、こんなことも訊かない。でも此処は並折。生半可な覚悟で来る場所じゃあないから」
「あたしには――外の世界に殺したい人が居る」
「殺したい人……」
「その為にカオナシの力が要るの。それだけよ。この街をどうこうしようなんて意志は無いわ」
ただ……瑠架子の言っていたようにカオナシほどの妖怪が本気を出せば、この街などひとたまりもないだろうけど。
まあ番姉さんを殺せなかったら、いずれ(といっても何百年後になるかもしれないが)並折どころかこの国も破滅するんじゃないかな。あの人は人間が大嫌いだから。
ようするに番姉さんを殺すことを一番に考えるしかないわけ。
その為にはカオナシに会って殺す方法を知らなければ始まらない。
それに伴う事象は全部保留だ。
だから私にこの街を破滅へ導く意志はない。間違ってはいない。
明朗も私の返事を受けて頷く。
悲しげな顔で何か呟いたようだが、
「……君達は……何度もそうやって……んでいくのか……」
私にはよく聞こえなかった。
とにかく今の私は手に取ったこの便箋にすべての興味を奪われていた。