PUNICA【カオナシとは】2
「お姉ちゃん!」
ひのえと駅を降りてすぐ。駅構内で誰かを呼ぶ大声を聞いた私と瑠架子は足を止めた。
私達の他にもぞろぞろと電車から降りた乗客は誰もがその声がどこから発せられたのか視線を向けていた。
小学生だろうか。小さな男の子が、人目もはばからず「お姉ちゃん!」とまだ大声を出しながら大きく手を振っているのが見えた。
明らかに、私と瑠架子の方を見ている。
私達は顔を見合わせ、互いに知り合いではない事を確認し合った後、人違いではないかと再び男の子の方を見る。
その子は手を振りながらこちらへ歩いて来るところだった。
お姉ちゃんとは私か瑠架子の事か?
男の子は私達の前で止まると――瑠架子ではなく、私を見上げた。
「お姉ちゃん、あの時はありがとうございましたっ」
と、言われても……。
私はこの子を知らないし、もちろん何かをしてあげた記憶も無い。
どう思考を巡らしてもただの人違いだという結論に到ってしまうのだが、男の子の方は至近距離に居ながらまるで疑いもせず私を知人だと認識しているようで。
怪訝な顔をする私の方がおかしい感じになっている。
「柘榴殿、本当に見知らぬ子なのでござるか?」
隣から小声で言ってくる瑠架子も、私が忘れているのではないかという疑いを持ってしまっている。
純真無垢な少年の笑顔は、それくらい素敵なものだった。
「いやはやお主、さすがにまずいでござるよ……」
「何がよ」
「いくらこちらの世界といっても、少年に手を出すのはちょっと……」
「まずその発想がおかしい!」
明らかにこの子は一般の子供。私と関わる機会なんて微塵もない。私に少年趣味はもちろん無い。
あの時がどの時かも知らないし、私が並折に来てからまだ四ヶ月くらいしか経っていない。その間に関わりのあった人間を忘れてしまうほど私も記憶力に問題があるわけじゃない。
にこにこと向けられる笑顔。矢神聖歌の件もあって人当たりの良い笑顔というものにはまず警戒してしまう。見たところなにやら膨らんだリュックサックを背負っており、これから電車に乗ってどこかへ向かうのだろうと予想する。
「ええと……」
私は膝を曲げて少年に顔を近づけ、
「こんにちは」
とりあえず挨拶をするしかない。
自信たっぷりで顔を見つめてくるこの子に対して『人違いじゃない?』とはさすがに言い辛く、どうしたものかと困り果てる。
すると私が挨拶しただけでも満足したのか、少年も頭を下げた。
「僕のこと覚えていないんじゃないかって思ったけど、良かったー」
覚えていない。けど、君の笑顔がそれを言わせてはくれないのよ少年よ。
なにか些細なことで私の顔を覚えられたのか。それなら私が覚えていないことも有り得る。この子もそれを承知して、一か八か声を掛けてみたのだろう。その勇気に乾杯。
「お姉ちゃんのおかげ。これ、あげる!」
と言って渡されたのは飴玉。実に子供らしいじゃないか。
やはり全く身に覚えがないけど、お礼を言って受け取った。
隣で瑠架子が唇に人差し指を当てながら「いいでござるなぁ。僥倖でござるなぁ」とか言っているが無視。
「その体躯にしては大荷物だけど。これからどこか行くの?」
そう訊くと、少年はなぜか寂しそうな顔をした。
「うん。あのね、おじいちゃんの家に行くんだ」
「遠いの?」
「九州」
九州? ああ、ずっと南じゃないか。そりゃまた長旅だ。
周りを見渡してもどうやらこの子、一人だ。
「遠くまで行くのね。一人だけで?」
「うーんとね、違うよ」
「そっか、なら安心ね。気を付けてね」
少年は大きく頷き、彼の腕の太さに合わない腕時計を眺める。電車の時間を確認したらしい。彼がリュックサックを背負い直した際、隙間からなにか白い布が見えた。それで中の荷物を包んでいるのだろう。
彼は「そうだ!」と、思い出したように荷物を胸の前に持ってきて中を漁りだす。
取り出したのは――この歳の少年らしい、戦隊物のヒーローが描かれたハンカチ。
なにかを包んでいるようで、大事そうに丁寧にそれを開いて私と瑠架子に中身を見せてくれた。
「あのね、ここに来る途中で見つけたの」
「あら綺麗ね。良い香り」
「ほほう、強い芳香でござるな」
六枚の白い花弁。つやのある花だった。
「お母さんもね、お姉ちゃんに『ありがとう』って言ってたよ」
「そうなの」
「この花。お姉ちゃんも好きって言ってたもんね」
「え? え、ええ……」
私は花に詳しくはない。瑠架子の言う通りそのジャスミンのような白い花は香りが強かった。
彼はきのえと駅まで路面電車で移動し、そこから乗り換えてこの街を出るのだそうで、そろそろ時間だと言って私達は少年と別れた。
この街を離れる人。それを見送るのは、なんだか不思議な気持ちだった。
べつに彼は並折の住人ではなく表側の住人なのだから、この街を出ることがどれだけ特別なことなのかは知らないだろう。知らなくていいことだ。
「あの花から取れる山梔子はよく漢方薬に用いられるでござるな。なかなかの苦さでござる」
「瑠架子、今の花を知ってるの?」
「乙女たる者、花の種類くらい知っていて当然でござるよ」
「侍なのか乙女なのかはっきりしなさいよ」
「乙女侍。で、ござる」
何その新ジャンル。
ともあれ結局人違いの感が否めなかったし、それを少年に言う事も出来なかった。
正直に言うべきだったのかもしれないが、あの子がお礼を言いたいという気持ちを晴らすことができたのだから、あれで正解だったのかもしれない。
改札口を抜ける少年の後ろ姿をもう一度見送って、私と瑠架子は駅を出た。
◇ ◇ ◇
ひのえと駅を出て商店街を抜けた先。そこは昔からある商店街とは違い、デパートやファーストフード店の立ち並ぶ近代的な街と化している。山を切り開いて作られた土地で、少し離れた場所には新築の家屋やマンションのある住宅地まで作られた。少し前の地図だと載っていないだろう。
その中に大きな図書館もあった。作り直されたからまだ新しい建物だ。もちろん《並折図書館》なんて名前ではなく、《表側の図書館》として多くの人々に利用される立派な公共の施設である。
私と瑠架子が行こうとしているのはそこではなく、《作り直される前》の図書館に用があった。
もちろん表向きにはとっくに取り壊されて今は無き建物とされている。だからこの地に住まう一般人は、この街に図書館が二つあるとは知らないだろう。この在る筈のない図書館こそ、《並折図書館》と呼べる。変な言い方をすれば裏図書館。
並折に限らずこういった場所は世界中あらゆる土地に存在する。
例えば、世間的には廃墟としかみなされていない場所。よくオバケが出るとか噂される場所でもある。それは魔術的・呪術的に人払いの処置が施されているもしくは、霊的媒体の作用によるものだ。こちら側の人間でないと意味のない場所なので、興味本位で一般人が立ち入ったところで損をするのが関の山。
その古い図書館も、商店街と開拓街のちょうど境界にあたる場所に建っている。
境界は実に都合の良い立地条件だ。
二つに隔てる線というのは特殊な力を帯びる。万物には区切りというものが必在し、多在するのがこの世の理だからね。陰陽然り。
あちらと、こちら。それを区切る線は意識から逸らすのに適している。境界線上こそ我々の世界では意識すべき観点であり、注視すべき場所なのだ。そのくらい重要なのね。
ともあれ誰もが『古い方の図書館はもう壊されて存在しない』と思っているその並折図書館もそういった認識から隔離された場所であるということだ。
「まあこの図書館も、一般的に利用されていた頃はコソコソと地下に足を運ばなければならなかったようでござる」
「結界寮としてもひのえとの土地開発には益があるのね」
「いや、まあ……うむむ」
「どうしたの」
「実は先月、結界寮の事情で……病院を一つ大破させてしまったのでござる」
「ぶっ!」
暴れすぎだろうそれは。
そういえば病院も開発に合わせて新しくなったんだっけ。すごく大きな病院が高台にあるって聞いた。
図書館と同じように、古い方の病院もこちら側の医療施設として心置きなく利用できるようになった筈。それを……大破させてしまうとは。
「いや、大破させたのは新しい方でござる」
「おい!」
「仕方なかったのでござるよ」
「あたしが言える立場じゃないけど、こうやって結界都市として土地を裏で仕切っている以上、もうちょっと結界寮も表側に気を遣った方がいいと思う!」
商店街を歩きながら私は声を荒げ、それに反応した小柄のポニーテールがびくんと揺れた。その髪型は彼女曰く、サムライヘアー。でもただのポニーテール。
ちょうど一軒の小さな本屋があったのでそこで新聞を購入する。聖歌が居なくなってから新聞を読む機会が少なくなったので知らなかった。
うむ。もう記事は小さくなっているが、病院の修理状況について書かれているのを見つけた。先月の事件だからさすがに写真まで載っていないか。つちのえとで起きた工場の事故の方が記事欄のスペースが大きいや。
「結界寮もそれなりに重く受け止めているでござるよ。しかし結界都市は勢力として内部ばかり気にしているわけにもいかぬでござるからな」
「そっちもなにかと大変そうね」
「うむ。苦労が絶えぬでござるよ」
両手にクレープを握った女が吐いていい科白じゃないと思う。
ちなみに両手に一つずつ、ではない。両手に二つずつ。四つのクレープを持っている。しかも全部同じ味なのだからもはや何も言いたくない。
普段より幸せそうな顔(目を凝らして観察しないとわからない表情変化)で、そこいらの若者と変わらないダラダラ歩きをしていた瑠架子だが、いきなりその歩き方が変化した。
これは容易にわかる変化だ。
膝から下を遊ばせるように振る気の抜けた歩き方から一変。靴の踵と爪先をしっかりと接地させ、股関節から背筋を駆使して素早く歩き始めた。私も合わせて歩行速度を上げる。
一定の間隔で口を付けていたクレープも瑠架子の意識から外れている。
一体何事かと彼女を見ていた私の視線に瑠架子の視線が重なるなり、彼女は小声で言った。
「……問おう柘榴殿。お主が知りたがっているカオナシというものは何でござるか?」
「妖怪」
何だ? と訊かれても、並折に棲む妖怪としか答えようがないのでそのまま言った。
どうやら瑠架子が足を速めたのは気持ちの高ぶりに起因しているようで、若干強張った面持ちになっている。これも微妙な変化だけど。
「柘榴殿はカオナシという妖怪を求めて並折へ来た、という解釈でよろしいか。そして並折の図書館にその文献が残っている」
「だから私達は図書館に向かっているんじゃないの。今更なによ」
瑠架子の表情は、青褪めたものになった。これははっきりとわかる変化だ。
「妖怪カオナシというのは、滅びた妖怪では――」
「ない。現代でも、この街のどこかに居る筈の妖怪よ」
「ありえないでござる!」
急に大きな声で言われたので、さすがに驚いた。いつもは言葉に感情をこめない瑠架子が、声を張り上げるなんて初めてだ。
私が何も言えずに隣の顔を見つめていると、彼女は構わず続けた。
「この結界都市に妖怪は存在せぬ! そんなことはあってはならんでござる! もし、仮にその妖怪が現代も尚生き続けているとしたら、結界寮は――この街は――地獄絵図と化している筈!」
「……どういうこと?」
「いいでござるか柘榴殿」
瑠架子は人格が変わってしまったように肩を上下させて呼吸し、眉間に皺を寄せた。
どうやら私は彼女の怒りに触れたらしい。いや、これは怒りというより、恐怖。彼女の恐怖心を煽ったということか。
「並折の妖怪については知っているでござるな。生まれつき能力を携えていたがゆえ、人々から忌み嫌われた者達。いわゆる能力者というやつでござる。八月の一件ではその妖怪の能力を垣間見たでござるな」
妖怪雨女か。あの時はたしか聖歌が安永筆・豊房で能力だけを顕現させ、江本佐々奈に与えた。
佐々奈の感情に反応し、長い間雨の日が続いたっけ。
「あんなもの、能力の一部にすぎぬでござる。能力だけ蘇らせたとて、それを使いこなせる能力者がおらぬのでは発揮できぬでござる。だが、垣間見せた能力の一部だけでも並折という街に限定して気候を変えてしまうほどの力。柘榴殿、勘違いしてはならぬ。並折の妖怪とは、現代に跋扈する呪詛能力者などとは比べ物にならないほど強大な者達だったのでござる。ある者は指先一つで地を揺らし、またある者は一呼吸で生命を枯らした。一人一人がこの世界を滅ぼしかねない能力者だったのでござる。ただの妖怪ではなく、並折の妖怪。此処に集った者達は、人々だけでなく――」
「同じ能力者――妖怪からも忌み嫌われた?」
「……そもそも妖怪それ自体は本当に作り話を起源としているのかもしれんでござる。そこに実在する能力者が混じってしまったという説もある。ただ確実に言えるのは《並折に集った能力者達はどいつもこいつも一人一人が大量殺戮兵器のような連中だった》ということでござる」
不思議には思っていた。能力者という存在は、今では呪詛を宿した者達くらいしか存在しないと思っていた。
生まれつき何らかの能力を持っている者が居るなんて、聞いたこともなかった。
純血一族や死使十三魔のように呪詛を宿しているわけではない。何かのおかげで能力を得る彼らとは全く異なる存在なのだ。
雨女の能力だってそうだ。雨を降らす? 身体から毒を出すのとはわけが違う。あれが能力の一片なのだとしたら、並折で生きていた雨女は、もっと凄まじい降雨被害をもたらす者だったのかもしれない。
でも――カオナシ伝承によれば、その大量殺戮兵器のような連中はカオナシを除いて全員死んだとされている。実際に怪遺産という死の証も遺されている。
カオナシと、もう一人の生き残り――雪女は、まだ現代に存在しているわけだ。
そして瑠架子は、妖怪が並折に存在しているのはありえないと言った。
「たしかに並折の妖怪が強大だったとしたら、カオナシも然りよね。地獄絵図を作り出せることも解ったわ。でも何故、並折に存在できないの?」
「結界でござるよ。並折には、強大な妖怪が跋扈できぬよう何者かが封印の結界を張ったのでござる」
「ちょ、ちょっと待ってよ。この街が結界都市って呼ばれているのは、結界寮の結界屋が結界を張っているからなんでしょ? その封印も結界屋が張ったの?」
「否。封印結界が施されたのは遥か昔。結界屋はそこに感知結界と呪詛弱効化結界を付け足したにすぎんのでござるよ。しかも封印結界は古式術法の地形活用型に解除条件付きという代物。さすがの結界屋でも解除方法はおろか、その術式や仕組みもわからないお手上げ状態でござる」
瑠架子の話からすると、この並折はもともと、強大な妖怪――カオナシが跋扈できないように結界で封印していた街だったということか。そこに結界屋が目を付け、封印結界をベースに感知結界と呪詛弱効化結界を上乗せしたと。
つまり、この結界都市は、古代と現代の結界師二人による多重結界都市ということなのか。
・妖怪封印結界
これに、
・感知結界
・呪詛弱効化結界
が加わった三重の結界。
これが魔都並折を驚異の土地たらしめているもの。
いやちょっと待て。
「瑠架子。古式結界は妖怪を封印するだけでしょ? ならカオナシが存在することだって有り得るじゃないの」
「否。否、否。こんな凄絶極まりない結界、たとえ封印であったとしても存在していられるわけがないでござるよ。豆腐を鋳造プレス機で押し潰して『はい封印』って言っているようなもんでござる。これでもまだ存在し続けているのだとしたら。それこそ、そのカオナシは世界を終わらせる力の持ち主でござる。この並折とて人の住める土地ではいられぬでござるよ」
結界の力が強すぎて、封印どころか滅びてしまったのか。
それが事実ならカオナシはもう……。
「う……」
(――ち、ちがう)
なんだ?
私の記憶ではない光景がフラッシュバックしてくる。
瑠架子の顔が消え、商店街の光景が消えた。
カオナシの存在有無について、私は何故か確信を持っている。
強大な妖怪は存在していると尚も断言できる。
私がそう言える理由が不明瞭なのに、私は何かを知っている。
眩暈がする。ちかちかちかちか。
私はひのえとに居る筈なのに、私の目は違う光景を映す。
嫌だ。この部屋はもう見たくない。
暗くて、独りで、静かで、寒い。
――その中で私は誰かを見つめている。
――青い髪。白い肌。
――骨の芯まで凍えて身体が軋む。
素早く画面を切り替えるように、一人の女性を見る角度が変わる。
ちかちかちかちか。
私は、私は、私は、私は。
雪のような女性の奥に。
そこに。
ああ、やっぱり。
私が居た。
(――がっ、ぎ、お、終わらない。あの人は、終わらない。だって、だって、だって、あの人は、ずっと、ずっと、永遠に、私ばかりを……)
――私の顔が潰されると、いつも彼女は私に背中を向けて、私を見た。
――そうよ、いつだって。
――私の顔を潰したのは、あいつ。
(あいつ? あいつ。あいつだ。あいつ! あいつが私の顔を!)
◆ ◆ ◆
知っている。私はあいつを知っている。
――『またお前か。グレナデン』
たしかにこの目で顔の無い奴を捉えていた。
――『俺が求めているのは番だと言っているだろう』
封印? 封印だって? あいつはそんな生易しい処置じゃ揺らぎもしない。
――『気に入らねえな、その態度。その目つきと鼻につく耳障りな口振り』
寄るな。寄るな。寄るな!
――『潰れろ』
――? ―――。
――『ははははは、何? 何だって?』
―――――。
――、―――っ?
―――! ―――!
――――――――――――――――――――っ!
――『くははははははははは!』
――『くっははははは! 小賢しいんだよ娘。小生意気なんだよ娘。お前にはソレがお似合いだ。苦しいか、息ができないか、何も見えないだろう聞こえないだろう嗅げないだろう。おやおや綺麗な肌が台無しじゃないか。引っ掻いても引っ掻いても爪に肉が詰まるだけだぞ。ほら刃物を貸してやる。息がしたけりゃそれで自分の綺麗のっぺりさっぱり何もない顔に、穴を開けるんだな』
――『はっ。本当にやりやがった。醜い様だ』
――『自分の血で溺れてやがる。どうしようもねえな、馬鹿女』
◆ ◆ ◆
「畜生……畜生あの野郎! ちくしょう!」
「ど、どうしたでござるか柘榴殿っ?」
握ったナイフの感触も、自分で切り裂いて作った口の痛みも、溢れる血で胃も肺も埋め尽くされた苦しみも、確かに覚えている!
どうして覚えているんだ!
顔の無い、あの野郎の姿まで!
「意味わかんない意味わかんない意味わかんない、あたしの顔、顔を、よくも!」
「落ち着くでござる、これ、柘榴殿。拙者でござるよ。わかるでござるか?」
「わかってるわよ五月蠅いわね!」
「おおう……ヒステリィというやつでござるか……」
正直、わかっていなかった。
私に声を掛けているのが瑠架子なのだとわかってきたのは、路地の隅にうずくまって悲鳴が呻き声に変わってきたあたりから。
どうやら私は歩いている途中で突然頭を抱えて叫びだしたらしい。驚いた瑠架子が何度も呼び掛けてくれたそうだが、私はどこかへ意識を飛ばしてしまっており、ひたすら『顔』と叫んでいたのだという。
その時の私は完全に自我を失っていた。
どうしてこのタイミングで在る筈のない記憶がフラッシュバックしたのかもわからない。
落ち着きを取り戻し、次に襲ってきた頭痛に苦しんでいると、瑠架子が自販機でペットボトルの水を買って戻ってきた。
「こういった事、よくあるのでござるか?」
「……無いわよ」
五百ミリリットルの水を半分ほど一気に飲み干し、力任せにキャップを締める。
阿呆か私は。
なにが『安息を生きる』だ。なにが『このままでいい』だ。
いいわけないだろう。
私は番姉さんを殺し、カオナシも殺す。
動機の記憶がすっぽり抜けているが、私は此処に辿り着いた。本能でやって来たのだ。
どうりで不明瞭なわけだ。私が何者なのか、私は番姉さんとどこで知り合ったのか、私はいつから番姉さんの傍に居たのか。
「ふふ。あはははは」
全部、忘れている。
だが私は確かにカオナシに会った。奴に顔を潰され、死んだ。
それが今ではちゃんと顔もあり、生きている。
これが何故なのかは知らない。この明瞭な感覚が偽りの物だとは思い難いが、たとえそうであったとしても、私の腹の底――心に深く擦り込まれた憎悪は拭い去れない。これだけでも十分な動機だ。
雪女とカオナシ。この妖怪二匹が私に何をしたのか。それは殺す時に訊けばよいだけだ。
――かちん。と、私の中で枷のようなものが外れた。
「瑠架子、カオナシは居る」
「……」
「絶対に居る。今もこの並折で、生意気にも口描いて呼吸していやがる」
「しかし……」
「地獄絵図? あいつの地獄絵図がたったこれだけの血で描けるわけがない。あいつが大人しく息を潜めているのは何か理由があるのよ」
「お主、どうしたでござるか。カオナシについて知っていることを思い出したでござるか」
はっきりとは思い出せない。
だが、それに気付いたというのはとても大きい。
それは私の記憶が第三者の手によって何か手を加えられているという証明だからだ。
そんなことができるのは――番姉さんを置いて他に居ない。居るわけがない。
私を縛って傍に置いていたのは彼女なのだ。彼女だけなのだ。
私はカオナシに会った事があって、顔を潰された。そして雪女は私の記憶からカオナシを取り除いた。確証はないが、雪女が並折を悪く言って私から遠ざけようとしたことや、今見た記憶の断片の理由としてはこれが最も有力だ。
「瑠架子。あたしに会った事ある?」
瑠架子は口を半開きにし、左目の瞼だけを持ち上げて怪しむように私を見てきた。
「今、会っているではないか」
そりゃそうだ。
質問を変えよう。
「《グレナデン》って名前、聞いたことある?」
私はこの街へ来て初めて、私が持っていたコードネームを口に出した。
でも私の物とは言わない。それにもう捨てたコードネームだ。
だから私が死使十三魔の元序列四位直下部隊構成員だとは瑠架子にはわからない。
「グレナデン? シロップでござるか?」
「コードネームよ」
「ああ、コードネーム――」
私は浅はかだった。
この御渡瑠架子を、嘗めすぎていた。
相も変わらず後悔した時には既に遅く……。
『しまった!』と、思った時には――、
鉄扇の刃が私の頬を斬りつけていた。
御渡瑠架子を、敵にしてしまっていた。
「無論、知っているでござる」
瞬間――私は首を鷲掴みされ、商店街の脇道へと押し込まれた。
至近距離で見る瑠架子の目は殺気を帯びていて、そこに先程までの彼女は居なかった。
甘いもの大好き御渡瑠架子ではなく、殺し屋《艶斬り瑠架子》を、敵として召喚してしまったのだ。
建物と建物の間に走る脇道――路地裏は、まるで世界が違った。
光は遮断され、影が重なり、一人の女が殺されようと誰もすぐには気付くまい。
私は馬鹿か。何があろうとこの街で――いや、どこであってもコードネームは口にするまいと誓ったのに。
誓いを破った結果がこれだ。
瑠架子はもう私を敵と認識している。
じゃきん、と開かれた鉄扇を三本の指で持ち、私の喉元に突きつけてくる。
「グレナデン。そりゃあ知っているでござる。死使十三魔、序列四位の直下部隊。その中に、グレナデンというコードネームは存在するでござる。浅はか極まりないでござるなお主は。グレナデン――それ即ち、《柘榴のシロップ》」
もともと天宮柘榴という名前は、コードネームを由来として私が自分で付けた名前だった。
自分の記憶を取り戻そうとしたがゆえに、こんな単純なミスを犯すなんて。やっぱり私もこの世界で生きていくのは向いていない。
「死使十三魔の手下が、並折に何の用でござるか? いや、お主の用はカオナシとか申しておったな。ならば死使十三魔はカオナシを求めて何かを企てているでござるか」
喉に鉄扇の刃先が食い込む。
切れ味が良く、ちょっと押し込まれただけで私の首の皮は切られ、痛みが走った。
「違う……あたしは、もう……」
「不覚であった。純血一族の件が続いていた為に、警戒を呪詛能力者に絞っておった結界寮の不覚。死使十三魔の下位部隊の侵入を許してしまうとは」
絶体絶命。
私の中で様々な思考が凄まじい速さで巡っていく。
これから私はどうなるのか。瑠架子は結界寮に報告し、私は捕獲される。死使十三魔について尋問を受ける。カクテルズという素性まで知られているのなら、謎に包まれている序列四位についても根掘り葉掘り吐かされるだろう。
そしてカオナシ。おそらく瑠架子は私の話を聞いているのでカオナシの実在する可能性について結界寮に再考を進言する。そうなればカオナシの文献を、その支配力によって並折中から掻き集めるだろう。
もう番姉さんを殺すどころではなくなる。
死使十三魔まで介入してきたと結界寮は認識する。純血一族に突かれてピリピリしているこの状況で。
さすがの結界寮も危険勢力二つを相手にはしたくないだろう。なら、当然私の手なり足なり目なり歯なりを奪って、私という本体と別に箱分けして全部死使十三魔へ送り返す。それがこの世界でよく取られる手法だ。見せしめとも言う。
送り返された死使十三魔の方は、結界寮に対して特に何もしない。だって私は勝手に抜けて勝手に結界寮に捕まった脱走者なのだから。
脱走者に《それなりの》罰を与えて、終わりだ。
つまり、ここで結界寮に捕まったら、どちらにせよ私は――。
「いやだ……」
「と申しても拙者はお主を結界寮へ連れてゆくでござる。抵抗するならこの手と――」
右腕が扇子で叩かれた。
「この足を切断するだけでござる」
右足も扇子で叩かれ、ついでに扇子の柄で頬を殴られた。
「助けて瑠架子、あたしは死使十三魔を抜けたの! 信じて!」
「それは拙者が判断する事ではござらん。拙者はただ危険勢力の構成員とおぼしき侵入者を捕獲し、連れ帰る。あとの判断は結界寮の裁定に任せるでござる」
「そんな……」
「お主とはもう話す口を持たぬでござる」
駄目だ、やはり瑠架子はただの刃。現場判断も至極単純なもの。完全に結界寮の駒と化している。こういうタイプに説得なんて無駄だ。
どうする。足掻いてみるか。
殺し屋に? 人斬りに? 喉元に刃を突きつけられたこの状況で?
それこそ彼女の言う通り、私が手足を失って終わりだ。
どうする。どうする。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
もはや私に成すすべは――ない。
「わかった……降参する」
「……」
「結界寮だろうとどこだろうと連行するといいわ」
「……」
「瑠架子?」
返事がない。なぜか喉元に当てられた鉄扇がカタカタと震えている。
「っ!」強い力で、私の腕が掴まれた。
反射的に身を強張らせた私だったが、その掴んできた腕も震えていることに気付く。
おそるおそる瑠架子の方に視線を向け――、
私は見たものは――、
「――っ、――っ!」
呼吸ができずに混乱する、口と鼻のない御渡瑠架子の苦悶の表情だった。
「瑠架子!」
「――、――っ、――――っ!」
ガラン、と鉄扇が地面に落ちた。
私を掴んでいた腕も離れた。
瑠架子は身をよじって暴れ、ばりばりと自分の口があるべき場所を引っ掻いている。
「しっかりして瑠架子! なにこれ……」
私は地面で転がりまわる瑠架子の上に覆いかぶさるように座り、彼女の顔を調べる。
鼻と呼べる突起が無い……。唇と呼べる形も無い。口と呼べる穴も無い。
のっぺりと、ただ肌があるだけ。強く空気を吸いたがる横隔膜の力で、そこがベコンベコンと激しく起伏を繰り返している。爪で強く引っ掻いた傷がいくつも付いている。
「――――ッ、――――――ッ!」
ばんっ、ばたんっ、ばんばんばんばん!
ざりっ、ざりっ、ざりざりざりざり!
ばたばたばたばたばたばたばたばたばたばたばたばた!
苦しむ瑠架子の履物が地面を叩き擦る音が私の胃を押し潰そうとしてくる。
いくらなんでもひど過ぎる。むご過ぎる。
髪を振り乱し、涙を浮かべて暴れる彼女は、私の腹を、腕を、肩を、無意識に殴りまくる。
どうにかしてあげたい。してあげたいけど。どうすれば……!
――『ほら刃物を貸してやる』
私の表情は凍りつく。
――『息がしたけりゃそれで』
視線だけがじとりと横へスライドする。
――『自分の綺麗のっぺりさっぱり何もない顔に』
瑠架子の鉄扇が開かれたまま、転がっている。
――『穴を開けるんだな』
これで――穴を、開ける?
手に取った鉄扇。ずしりと重い。
カッターナイフのような刃が何枚も連なった、瑠架子特製の殺人鉄扇。
この刃で、瑠架子の顔に、穴を開ければ、息ができる?
そ、そんな残酷な真似、で、できるわけが……。
『どの口が言う。お前のその手は綺麗だとでも?』
綺麗だなんて言わない! だけど、私はこんなこと、したくない!
『出た出た。直接手を下した事がない者の詭弁。お前は直接殺めた事がなかったとしても、指示をするだけだったとしても、残酷な、こちら側の人間だよ』
うるさいうるさいうるさい!
『さあ、ほら、苦しんでいるぞ。息がしたい息がしたいと泣いているぞ。お前と一緒に茶を飲み、食を摂り、談話をした、御渡瑠架子が』
『いいじゃないか。それで彼女の望みが叶うのだから。そもそも瑠架子はお前から四肢を切り取ってでも結界寮へ連れて行こうとした奴だぞ? むしろ感謝される行為だろう?』
『おや。苦しみのあまり嘔吐したようだぞ。それが全部そのまま逆流して気管に入ったようだな。時間の問題か』
『安心しろ。舌も消しておいてやったから噛み切りはしない』
なんて、奴……!
瑠架子は狂乱し、馬乗りになる私を跳ね飛ばす勢いで海老ぞりになっては後頭部を何度も地面に打ち付けている。
鉄扇を握る手が震える……。
私にはできない。そんなことをしたって、瑠架子は助からない。
「―――――――ッ!」
「あう!」
瑠架子の振り回した腕が側頭部に当たり、バランスを崩した私は鉄扇を落としてしまった。
地面と鉄扇が接触した金属音が響き、意識が遠のき始めていた瑠架子は、反射的にそれを掴み取ってしまった。
「だ、駄目、瑠架子!」
私の声なんて届いていない。
ただ息のできない苦しみに苛まれ、握った鉄扇の感触は彼女の身体に染み付いた扱い方を、そのまま行使させようとした。
「やめて……やめて……」
「――ッ! ――ッ! ――ッ!」
瑠架子は迷いもなく鉄扇を閉じ、自分の顔に――突き刺した。
ざくり。
「――――ッフ、―――――ッグ……」
「ひ……」
「―――――ッブ、――――――ッブギュ!」
ざくり、ざくり、ざく、ざく、ざく、ぐしゅ、ぐしゅ!
「瑠架――嫌ああああああああああ!」
ぐしゅ、ぐしゅ、ぐしゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ!
「うわあああ! うわあああああああああ!」
私は顔を背けた。両手で耳を塞いだ。大声で悲鳴を上げた。
とても見ていられなかった。聞いていられなかった。
瑠架子が自分の顔に刃物を突き刺し、顔面から血飛沫が噴き上がり、それでも彼女は手を止めなかった。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も!
抜いては突き刺すを繰り返した。
やがて――痙攣を最後に彼女の身体は動かなくなった。
「うう、ううう……瑠架子……」
瑠架子が口のあった部分ばかり鉄扇で切り刻んだことで、彼女の頭部は上顎から千切れる寸前まで破壊しつくされていた。
赤い肉がびろんと広がり、歯が散らばり、首から上はもう――赤色のぐちゃぐちゃになっていた。
「ひどい……ひどい……」
仰向けの瑠架子のミニスカートは股間の部分を中心に湿り、地面にも染みが広がっていた。瑠架子は尿を垂れ流しながら悶え苦しんでいた。
肉片に包まれ、血塗れの手に握られた鉄扇から目を背け、私はゆっくりと瑠架子の身体から降りる。
そこらじゅうに撒き散らした血と尿の中で倒れる彼女の死体から離れると、路地裏の壁際に転がっている小さなバッグに手を伸ばす。
瑠架子の物だ。
そこから彼女の携帯電話を取り出し、私の唯一知る十一桁の番号を、機械的に押した。
「……」
三度目のコールで相手は出た。
「はーいもしもし。瑠架子さん?」
「……」
「あれ? もしもし?」
「明朗……」
「ん、え? その声はクロちゃん? どうしたの!」
「瑠架子が……瑠架子が……」
「ちょ、ちょっと、クロちゃん泣いてる? 何があったの? クロちゃんっ?」
瑠架子が――。
死んだ。
死なせた。
殺した。
殺させた。
私は見ているだけだった。
明朗にどう伝えていいのかわからなくて。頭の中がごちゃごちゃで。
何も言えなかった。
ただ――、
これが、妖怪カオナシの仕業だということだけは確かで。
だから私は、怖くて何も言えなかった。