PUNICA【カオナシとは】1
PUNICA【カオナシとは】
《妖怪》などと呼ばれたこともあった。
外を歩けば石を投げられ。
顔を伏せれば道を塞がれ。
顔を上げれば逃げられた。
たくさんたくさん傷つきながら、男は自分の畑で作物を育て、村の外れでひっそりと暮らしていたのだ。
――【カオナシとは】
◆ ◆ ◆
羽田立荘のロビー、そこにある畳敷きの小さなスペースはどういうわけか非常に人気のある場所だ。
訪れる人はそこに座るべきだと本能的に察しているかのように靴を脱ぎ、卓袱台の前に腰を据える。もちろん広いロビーには座椅子もあるし木造のテーブルだって置いてある。だがそれを利用するのは大抵唯一の住人である私だけだった。
今日の来客も例によって畳の上に座り、私の出した湯呑を片手に卓袱台に肩肘を置いてくつろいでいた。
「お主の知りたがっている例の……ええと、なんだっけ、あれだ」
「カオナシ」
「うむ、そう、それそれ。カオナシに関する言い伝えは《ひのえと》の図書館に文献が残っているかもしれないとのことでござる」
御渡瑠架子は、まるで起伏のない平坦な口調で言い、茶をずずずと啜った。
彼女の言葉から感情を読み取るのは至難の業であり、こちらが意識を向けていないと誰に話し掛けているのかすらわからず結果的に無視してしまう場合も多々ある。
今だって私は座椅子に座って新聞を開きつつも、記事の内容なんてまるで頭に入っていない。
じゃあ瑠架子の前に座って会話に集中すればいいじゃないかという話になるのだが、彼女の前に座ったとて彼女の口調に変化があるわけでもなく。ただ独り言のように口から流される奇怪な語尾交じりの言葉を私が必死になって耳に入れようとする光景が出来上がるだけだ。なんか嫌じゃないのそれって。
だから私は新聞を読む傍ら、ゴザル女の話を片耳で聞いていますよ。という体裁にした方が気楽なのだ。気楽なのだ。そういうことにしておこう。
「ひのえとの図書館か。明日にでも行ってみようかな」
「それがいいでござるよ。拙者が得意とするインターネッツ検索でも数万件ほど引っ掛かったのだが」
「数万件っ?」
「これほとんどがアニメィション映画のキャラクターでござった。残念無念」
自称侍がパソコンにかぶれた有様がこれ。
御渡瑠架子。彼女は結界寮の住人で、先月知り合った女性だ。彼女の放つ言葉はどれも変な語尾が付いていて、若いのに趣味も渋いのだろうかと思いきや好物はマンゴー&チョコクレープというふざけた人である。着ているのも着物とか浴衣とか半纏とかではなく、《ショップ店員と考えたコーディネェト》らしい。愛読書は女性ファッション誌。たまに女性週刊誌。好きな場所はコンビニエンスストアで、月曜日と木曜日は必ず立ち寄るらしい。少年漫画を立ち読みする為だそうな。
さすがに敬愛する人物は歴史上の偉人だろうと思って訊いてみたら、
――『セフィロスでござる』
誰だよ。もうわけがわからなかった。
そんなゴザル口調の女性、御渡瑠架子。
見かけたらマンゴー&チョコクレープを奢ってあげよう。
――『今日の拙者はマンゴー&チョコクレープアイスがいい。温かいのは嫌でござる』
と、いちゃもんを付けられるだろうから。
ちなみに今日彼女に出した湯呑の中身は、砂糖ありありの紅茶。
「少女柘榴殿、図書館へ行くのは明日にすると申されたか。なにゆえ今日行かぬでござるか」
「べつにいいでしょ」
「特に理由はない、と。ははぁん、さては明朗少年に同行してもらおうという魂胆でござるな? お主もなかなかやりおるのう。心配なさるな明朗少年はこの後フリィでござる。そして拙者もフリィでござる」
「貴女関係ないでしょ」
「あたた、これは辛辣な言葉を浴びせられたでござる。一人より二人、二人より三人。三人寄ればかしまし娘でござる」
「文殊の知恵、ね。あと明朗は男だから三人揃ってかしまし娘じゃないわよ。三人寄れば文殊の知恵。文殊の知恵。文殊の知恵!」
「あたたたた、この人真っ向から捻じ伏せにきたでござる潰しにきたでござる。その文殊の知恵を働かせるには糖分が必要でござるな。たしか図書館へ行く途中に」
「クレープ屋があったから貴女だけそこに居なさい」
「おや拙者、がま口を忘れてきてしまった。これは失念」
「素直に《クレープ奢ってください》って言えばいいじゃないの」
「クレープを奢って頂きたいでござる」
「いぃーやぁー」
「鬼じゃ、この女子は鬼じゃ」
そうか、明朗の予定が空いているなら今から行くという選択肢も視野に入れようか。
瑠架子も私が羽田立荘に一人では寂しいだろうと思って結界寮から足を運んでくれている(と思いたい)から、奢ってやるくらいはどうってことない。それに瑠架子には先月――九月に一つ厄介事があった際に助けて貰っている。そう無下にはできないというものだ。
「わかったわよ……奢るから。明朗を呼んできて」
「心配無用。彼もじきに来るでござるよ」
「あら。手回しが早いのね」
「侍でござるからな」
理由になっているのかは知らない。
それにしても……。
(なんだか、ずいぶん並折に馴染んでしまったなあ)
ここへ来た当初はカオナシの手掛かりがあったらすぐに飛びつくくらいの心持ちだったのに。鎖黒だって見つからないままで、もしかしたらもう私の中で諦めの気持ちが生まれ始めているのかもしれない。
こうして羽田立荘の掃除をしたり、並折の住人と世間話をしたり。意外にも落ち着いた日常を送る事ができる街。私が欲していたものとは、実はこれなんじゃないか。そう思えてくる。
そりゃあ身に危険が迫ることだってあるけどさ。結界寮が管理している現状、私の抱いていた並折の印象よりもずっと危険が少ないってことがわかった。織神楽響なんて大物の呪詛能力者が侵入すればそれなりに張りつめた空気にはなる。犠牲者だって出る。でも結果は? 犠牲となったのは結界寮の住人二人だけだ。カザラさんと聖歌には申し訳ないが、式神でさえこの程度の被害しか作れなかったのは事実だ。
並折と結界寮。
魔都と呼ばれた此処は、その実、世界危険勢力でも手を出せない裏世界安住の地。
私は何をしに此処へ来た? カオナシを探すためだ。
どうしてカオナシを探す? 番姉さんを救うためだ。
何が番姉さんを苦しめる? 永遠という名の束縛だ。
番姉さんを救うとは何か? 彼女を殺してあげる事。
番姉さんをどう殺すのか? 私にはわからない。
でも彼女を知る旧き知人――妖怪カオナシなら、その方法を知っていると思った。
雪女とカオナシは旧知の仲である。番姉さんはカオナシの棲む並折の事をよく話した。でも決して行きたがろうとはしなかった。並折は酷い街だ、と内容が傾倒していた。
永遠を歩む彼女にそれだけの印象を植え付けるのだから、妖怪雪女にとって縁深き土地なのだろう。だったら――そこに彼女を殺す方法を求めるのは無謀ではない。
だから私は此処へ来た。
でも……今の私は、それをもうどうでもいいと思っているのだろうか。
番姉さんは永遠を歩めばいい。私は安息を生きる。それで――いいんじゃないかな。
「瑠架子はさ、どうして並折に来たの? どうして結界寮に居るの?」
頭の中は甘いものでいっぱいだったのだろう。相変わらず呆けた眼差しと表情だったが、瑠架子はいつもより若干素早く顔をこちらへ向けてきた。
「拙者は人斬り。しかし好んで斬ることも無いし、好まず斬ることも無いでござる。つまるところ斬殺愛好家ではないのでござるよ。あくまで仕事としての人斬り。ところがこの仕事を続けていると、感覚が変になっていくのでござる。これは拙者特有のものなのかもしれんが、見かける人が人に思えなくなってくるのでござるよ」
感覚が麻痺してくるということだろうか。
「ちょっと違うでござる。たしかにその感覚も無いとは言い難いが、拙者はそれよりも仕事を前提にしてしまうのでござるよ。感覚が麻痺した場合、一人の人間を見た時にその人間をどう斬り殺すか最初に考えてしまう。拙者の場合は、まずその人間に対して価値を模索するのでござる」
「価値?」
「口にするのは抵抗あるが……《殺す価値》でござる。もっと言えば、《その人間を斬殺する事で拙者にとって益となるか否か》でござる。まず有り得ないでござるが、もしその人間を依頼で斬ることになった場合、どれほどの依頼金を用意され、どれほどの手間が掛かり、どのような人生を斬り捨てることとなるのか。考えてしまうのでござるよ」
「麻痺するより質が悪いわね」
「で、ござる」
「というか、瑠架子はそこまで依頼金とかに貪欲なわけ? たしかに裏稼業――殺し屋《艶斬り瑠架子》としてそこはしっかりしておきたいのはわかる。あたしも裏稼業についてとやかく言えるほど知ってるわけじゃあないけど、そこまで神経質になるものなの?」
「否。拙者とて、見かける人間それぞれの人生に興味を持つことは無意味であることを承知している。依頼金云々も、いわゆる皮算用であることも重々承知している。他の裏稼業とてこんな感覚になることはまず無いでござるよ」
だったら何故。
「拙者は、人間をやめようとしていたのでござる」
「へ?」
「人斬りとして仕事をするうちに、己を人間とは思わなくなっていたのでござるよ」
「じゃあ貴女はなんなのよ」
「《刃》でござる」
その一言を、彼女は私から視線を逸らして放った。
なるほど。そりゃあ瑠架子もあまり口に出したくないだろう。
彼女は、この並折に《逃げてきた》のだ。
自分の弱さを認めて、折れてしまったのだ。
彼女は人斬りもとい、裏稼業にはもともと向いていなかったのだろう。この世界で生きるには、《あまりにも人道的な面を持ち過ぎていた》。
だから自分がただ肉を断つ刃なのだと無意識に思い込み、そして無意識が感覚として表に出てきた。依頼金とか、手間とか、殺害対象の人生とか。《人道的な殺し屋》くらいしか気にもしない些細極まりないことが気になりだした。
それでも彼女は(彼女の人生は知らないが)人斬りとして生きるしかなかったのだろう。だから自分はただの刃で、感覚として気になるあれこれは刃を振る誰かが気にする事。と、無理矢理割り切ったのだ。
刃を振る誰かとは誰なのか。そこを埋めるために、瑠架子は並折に来た。
瑠架子という刃を振ってくれる、結界寮を求めて。
「わかった。瑠架子にとって、やっぱりここは安息の地なのね」
「折れた刃の負け犬風情が唯一生きていられる場所でござるよ」
「あらら、ネガティブになっちゃった。まあいいじゃない、甘いもの食べて暮らせているんだから。瑠架子にとっては正解ってことでしょ」
「うむ、そうでござるな」
自分の意志を捨ててしまった女性。
瑠架子もまた、結界寮の駒の一つなのだ。
いずれ捨てられる時が来る。
刃は振らなければ、ただの鋼だ。
この女性も結界寮に命を握られた人間の一人。
カザラさんや聖歌のようにいずれ居なくなってしまうのかな。
結界寮は並折を管理し、守ってくれる。だけど瑠架子のように深く関わってはいけない。今の私のように、他人事みたく話を聞ける立場が一番良いのだ。
「では今しばらく明朗少年を待つとするでござるか。なあにすぐに来るでござるよ。柘榴殿、お茶のお代わりを。砂糖ありありで」
「はいはい」
その後二時間が経過し、瑠架子は紅茶を何杯も飲み、昼食まで食べた。(瑠架子は卓袱台。私はテーブルで食べた)
それでも明朗が来る気配はなく、先程から何か変化があるとすれば、うちの砂糖入れが空になったことくらいだ。
食後の一服と言って瑠架子は煙草とマッチ箱を取り出す。彼女は愛煙家だった。
マッチ箱はどこかの飲み屋の物だろう。《BAR・Horse‘s》なんて書かれている。真っ黒のデザインで、なかなかお洒落だ。男性だけでなく女性が持っても違和感がない。
私は座椅子から立ち上がると、木造テーブルに置いてあった灰皿を卓袱台まで持っていってやった。もちろん、そのまま畳の上に腰を据えることはせず再び座椅子に戻った。
紫煙をくゆらせながら瑠架子は畳に手を着き、身体をのけぞらせた。のんびり屋の彼女もさすがに明朗がなかなか来ないことを気にし始めたのだろう。
そんな時だった。
「のお!」
瑠架子が奇声を上げて身体を跳ねさせる。
「拙者の印籠がバイブレィションでござる」
何を言っているのかさっぱりわからないので、私はただ奇異な視線を彼女に向けるしかない。そしてこの女、やたらカタカナ言葉の発音が良い。
瑠架子がポケットから取り出したのは――携帯電話だった。印籠ってそれのことかよ。
「申す申す」
もしもしでいいじゃないか。と思ったが、彼女は自称侍だ。変なこだわりを持っているのも理解しているので何も言わない。
「おお。これはこれは林檎殿。あ、いや、すまぬでござる。昼食は外で済ませてしまったでござる。うむ、事前に連絡しておくべきでござったな失敬した。いやいや、そこら辺のジャンクフゥドでござるよ――ってあ痛っ!」
手元にあった冷房のリモコンを投げつけてやった。
もう十月なので三桜が手配した冷房も使う機会がない。だからといってリモコンを投擲に使うものではないのもわかっている。人の手料理をジャンクフード呼ばわりする奴は例外ね。
「い、いや。なんでもないでござる。ところで林檎殿、明朗――小僧くんは今どこに居るのか御存知でござるか? うむ……え? いやしかし午後から……あれ? ああ、しまった拙者としたことが。そういうことでござったか。あいわかりもうした、では」
通話を終えた瑠架子は、携帯電話を折り畳んでポケットに戻す。そして煙草の灰を灰皿に落とすと、私の方に顔を向けた。
「明朗少年は予定が入ってござった。拙者が勘違いしていたでござる」
大体会話の内容で把握できていた。
まったく。無駄な時間を過ごしちゃったじゃないの。
「そしておそらく、明日も忙しいでござる」
「そうなの? まあ仕方ないわね」
「うむ。では早速行こうではないか、柘榴殿」
瑠架子は胸元から閉じた扇子を取り出し、少し開いて口元に当てる。ずっと思っていたが、侍というよりも艶のある仕草が多い人だ。
「行くって、図書館?」
「でござる。クレープ屋は次の機会にして、閉館する前に向かうでござるよ」
「やたら急かすわね。別に構わないけど」
「善は急げ。思い立ったが吉日」
「そうね」
「時は金なり。金は諸悪の根源」
「何が言いたいのよ」
「何か言いたかったのでござる」
じゃきん、と扇子を開く瑠架子。取り出したのは鉄扇の方だったのか。彼女はいつも普通の扇子と、この鉄扇の二種類を携帯している。
煙草をくわえた口の前でそれをまたバチンと閉じる。
閉じた扇子を灰皿の上にかざし、今度はゆっくりと開く。
綺麗に輪切りされた吸い殻が皿に落ちた。
瑠架子曰く、口紅のついた吸い殻を人前に晒すのは嫌なのだとさ。
◇ ◇
ともかく。私はこの日、一人の人斬りを連れて図書館へ行くことにした。
カオナシの情報。まあ、私にとっては有益な情報となったのは事実だ。
兎にも角にも私はカオナシという妖怪の恐ろしさを知ることになる。