PUNICA【あったかい雨の降る夜】8
「んーっ」
洗濯物を干しながら、あまりの気持ちよさについつい伸びをしてしまう。
八月ももう終わりかあ。
空は快晴。雲一つない。これが並折の本来の姿だ。
この暑さも、もう少し続くかな?
青々と鮮やかな色の葉。たくさんの葉を纏い、一斉に揺らす木々。
少し前までの雨天が嘘のように、並折全体にはからっと乾いた空気が流れている。
雨天……。
あれから、もう二週間が経ったのか。
破壊された羽田立荘の正面玄関と裏の倉庫は、結界寮の住人達がわざわざ出向いて修復してくれた。
響とカザラによって荒らされた庭も今では整備されて元通り。
建物は確かに元に戻った。
でも……矢神聖歌は、二度と戻ってこなかった。
彼女は死んだと、明朗に聞かされた。
あの時……彼女を尾行してきのえと駅で見たのが、私にとって彼女の最後の姿だった。
羽田立荘はこのまま使ってもいいと明朗が言ってくれたので有難く使わせてもらっている。聖歌はピグマとして個人で活動しながらも、結界寮の住人でもあったそうな。だから羽田立荘は結界寮が――というか、明朗が宿主として面倒を見てくれることになった。
「よいしょっと!」
ちょっと重い布団も干して、陽の光を浴びせる。
こうやって私達の世話をしてくれた聖歌ももう居ない。これからは私が頑張らないと。
風が少し強いので、干したタオルはそれぞれ洗濯バサミで固定してある。これなら飛ばされることもないだろう。
バタバタと音をたててなびく私の衣類や、三桜の衣類。
それを眺めながら、織神楽響のことを思いだした。
(洗濯、してあげられなかったなあ……)
彼は私と別れた翌日、死体として結界寮に発見された。
江本佐々奈という名の人形と一緒に、墓地の納屋で倒れていたらしい。
何の縁だろうか。江本佐々奈は、父親の仇と一緒に最期の時を過ごしたのだ。
「佐々奈と……響……」
「響がなんだって?」
ぼんやり呟いた私は、背中から声を掛けられて振り返る。
縁側に守野三桜が座っていた。
相変わらず暑さには弱いようで、爽やかな笑みを顔に張り付けていても汗が浮かんでいる。
「ん、別に」
「なんだよ連れないな。そういえば柘榴、貴様は響と一緒に行動していたんだよな」
「そうよ。人質みたいなもんだったけどね」
「よく殺されなかったよな。私様の知る織神楽響と、貴様の言っていた織神楽響とじゃあ随分印象が違うんだよ」
「あんたの知る響はどういう人なのよ」
「傲慢な奴さ。私様よりも、もっと質の悪い形で他人を見下す嫌な奴だったよ。常に冷たい目をしててさ、その奥には何かこう――弱い奴は見境なくぶち殺してやりたいって言いたそうな感情が滲み出ていた」
ふん、と鼻で飛ばす三桜。
「たしかにあんたの言う通り冷たい目つきをしていたけど……あたしが会った響は、なんだかあたしを仲間のように扱おうとしているように思えたよ。うーん、仲間というか、あたしの驕りかもしれないけど、あたしをなるべく見下さないように困惑しながら応対していたような」
「……へえ、あいつが。何か心境の変化でもあったのかねえ。まあ実際、江本佐々奈なんて奴にトドメ刺されてんだから、あながち嘘でもなさそうだな」
江本佐々奈。明朗の話では、聖歌によって妖怪雨女の能力を付与させられた人形だとか。あの長い雨天は、佐々奈が流した涙だと言っていた。
涙……か。
後に私は新聞の気象情報欄を抜き出して、ある事に気が付いた。
それは雨天の期間。
織神楽響が並折に侵入した日と、彼が死んだ日。それに完全な一致が見られたのだ。
無論、響の死んだ日というのは佐々奈の死んだ日でもある。
江本佐々奈はどうして泣いていたのだろう。
響が許せなかった? そうなのかもしれない。
それだけではないのかも……しれない。
父親は織神楽家に殺され、母親と自分は傀儡屋に殺されたも同然。それが――無理矢理復活させられて。しかも傀儡屋の作品として。
泣きたいに決まってるよね。
聖歌は工房に作品を置く傾向にあった。
佐々奈はそこで、結界寮の情報を聞いてしまったのかもしれない。『織神楽響が来た』なんて情報を。
涙は豪雨となって並折を包んだ。
佐々奈はとめどなく涙を流し続けた。
カザラの言っていたように、響なんて覚えていなかったかもしれないけど。それでも佐々奈は響の胸に刃を振り下ろした。織神楽の名に反応したのか。
「なんだか……みんな救われないね……」
「やけにセンチだなあおい。貴様が気にしたってどうしようもない事だろう。並折ってのは救われない街だと考えておかないと。これから先も何が起こるかわからないのに。いつか感情に押し潰されて自滅するぞ」
「……うん」
手で顔を仰ぐ三桜。
彼女はあぐらをかいて座りなおし、両肩を上げて私の方をじっと見てきた。
「柘榴、ちょっといいか」
「なによ改まって」
「私様も、この羽田立荘を離れることになった」
「――え?」
動揺はした。したけど、予想はしていた。
三桜は響の件でひとまず任務終了なのだ。一旦戻るのは当然だろう。
「そっか。三桜も居なくなるのね」
「おいおい、そんな顔をされると嬉しくも寂しくもなるだろ。別にサヨナラってわけじゃないよ。多分、少し間を空けてまたここに世話になると思う……」
「………」
私は響が去り、三桜が羽田立荘にびしょ濡れで帰ってきたあの時、響の言っていたことを話してやった。
三桜は織神楽に利用され、間違った任務内容を遂行していたと。
彼女は怒らなかった。感情を完全に消して「そうか」と呟くだけだった。
後に彼女に手紙が一通届いた。
私は内容を知らない。だが想像はつく。
そして今日、ついに三桜に帰還命令が出たのだろう。
任務を失敗した三桜。
響を助けられなかった三桜。
「大丈夫なの?」
私は素直にそう訊いた。
彼女は不敵な笑みを見せ、肩をすくめて応える。
「心配ないさ。ちょっと気が重いけどね。貴様は私様の心配なんかせずに、自分のことを気にしてりゃいいんだよ」
「わかったわよ。じゃあ早く戻ってきなさいよ。ここは一人じゃ広すぎるんだから」
「へいへい。さーて、帰り支度でもするか」
ぱん、と自分の太ももを叩いて立ち上がる。
私は抱えていた洗濯籠を置いて、縁側に駆け寄った。
「ねえ三桜。えっと……聖歌のことなんだけど」
三桜が聖歌を殺したのは知っている。結界寮には内緒にしとけと言われた。
「聖歌がどうした?」
「……ううん、やっぱりなんでもない」
頭を振る私の肩を、三桜は軽く叩いて笑顔を向けた。
「聖歌も楽しかったってさ。柘榴も私様も、家族みたいだった。そう言ってたよ」
「そっか……」
「そんでも殺さなきゃいけない。そういう世界に私様達は生きてる。柘榴から見れば私様の考え方は気に入らんだろうが、そうしないと私様も生きていられないんだよ。響だってそうさ。上から指示があれば殺さなきゃいけない。私様はそれを疑いもしなかった。関東での任務に失敗して傷だらけになって追っ手まで付けられてる奴なんぞ、実力主義の純血一族には戦力として不要だ」
「でも……」
「そう。今回は私様の方が間違っていたんだよね。これも仕方ないと言ってしまえばそれまでなんだが」
苦々しく笑う三桜はその感情を払拭するようにこちらへ手を伸ばしてきた。
私の肩だけでなく、頭、腕、胸、腰、脚――つまり全身をぺたぺたと触りまくった。
「ちょっと……」
「いいじゃないか減るもんでもない」
オッサンかお前は。
満足げな顔をして自室に行ってしまった。
触るというか、ほとんど揉んでいた。やはり変態だ。
「………」
……聖歌も居ないし、これで三桜も居なくなる。
しばらくは私一人か。
また一人、か。
「でも!」
孤独じゃあない。明朗だって来てくれるし。
なにより此処は、こんなにも明るい陽光が差し込む場所だもの。
新しく買ったホットパンツのお尻をポンと叩いて背筋を伸ばす。
「結界寮がどんなものか把握できたし、もしかしたら多少の協力だって望めるかもしれない。独りで感傷に浸ってる暇はないわ。本格的に鎖黒を探すわよ」
式神と呼ばれた屈指の強者。あの響でも命を落としたこの並折。彼との出会いと共に行動した経験は、私に並折での生き方を理解させてくれた。
強者は強者。弱者は弱者。それぞれ立ち回り方を弁えるべきなのだと。
強い奴だけ生き残れる場所じゃない。この結界都市は無慈悲なほどに平等なのだ。
呪詛能力や磨いた技術で他者を退けて生き延びる感性を捨てなければならない。外界では通用するだろうが、この結界都市ではほとんど無力となる。
三桜が聖歌から知らされた結界による呪詛弱効化。
並折全体が手に取るようにわかる結界屋の感知結界。
つまるところ響はこれらの効果によって命を落とすに到ったと言っても過言ではない。
呪詛の弱効化によって毒の操作がままならず、カザラを仕留めきれず自爆を受けてしまった。彼が私に神経毒を注入した時に『調節を誤ったか』と言ったことから、彼は弱効化に気付いていなかったのかもしれない。
どこへ行こうと感知する結界寮の手が回り、碌に休むこともできない。
なまじ外界で圧倒的な強者として君臨していたがゆえに、彼は並折の呪縛に捕らわれてしまったのだ。
だから、重要なのは力の強さじゃない。
上手に立ち回ることこそ、並折で生き残る最良の術。
当たり前のことだけど、実力に重きを置き、押し通るを良しとする世界に生きていると案外これが難しい。
独特の閉鎖、独特の管理、独特の現象。これらが成り立っている街、並折。
まず何がどう独特なのか理解しなければ始まらない。
閉鎖――結界という壁に覆われた空間。
結界とは何か?
誰が、何を目的として形成したのか。
結界屋。本当に結界屋が並折全ての事象に関わっているのか?
単純な対人目的の結界効果はこの裏稼業の仕業であるとは思う。結界寮が一勢力として成り立つべく外界から超常者の侵入に制限をかけるのも理由としては十分に値する。
ではその基準は?
私は入れた。三桜も入れた。
並折の存在を知る者なら誰でも入れるのか?
物理的には一般人でも土地に足を踏み入れることは可能だ。しかしその後、この土地の真の姿を認識できる者とできない者に分かれる。
私がここへ訪れる際に電車内で出会ったサラリーマンは、一般人であるのに認識できる者として分けられてしまっていた。なんらかの手違いがあったのだと考えると、この閉鎖は不安定なものなのではないかという予想もできる。
管理――結界寮による監視と執行。
結界寮の詳細は?
世界危険勢力『ティンダロスの猟犬』が裏で影をちらつかせているのは、明朗の話でわかっている。
その規模、所在地、管理目的は不明。
構成員は把握しているだけでも特徴にばらつきがある。
結界寮をまとめる管理人。梵と林檎。この二人が元ティンダロス構成員だという明朗からの情報で、結界寮の裏に危険勢力の意思がぼやけて見えるようになった。
住人とも呼ばれる者達。種類は様々で、明朗のような能力のない者も居れば、統界執行員という不気味な戦闘要員も居る。傀儡屋、結界屋という裏稼業も属している。
統界執行員のカザラという男が傀儡屋の作品だったり、並折の秩序を保つべく結界屋が結界を張り巡らしたりと、個性的な裏稼業でも結界寮へ協力している点から、結界寮は一つの勢力としてなかなかの力を蓄えている可能性がある。
さしも危険な純血一族や死使十三魔すら手を焼いている事実を鑑みるに、並折という土地の中では世界危険勢力と同等なのではないだろうか。
現象――これは結界効果に因るものと、土地に因るものに分けられる。
呪詛弱効化。純血一族や死使十三魔にとって致命的となる結界効果だ。
呪詛及び危険物の感知。武器になりかねないもの――それがたとえ小さなナイフであろうと感知する結界効果。感知された場所と照らし合わせて危険度を推し量っていると私はみている。
これら結界効果は結界屋――つまり結界寮による防衛機能の一部だろう。脅威となる呪詛能力者の対策に抜かりがない。たとえ侵入者が腕の良い裏稼業であっても、結界寮には世界屈指の裏稼業(傀儡屋・結界屋。少なくとも二人)が所属している。感知結界と併合すれば十分処理が可能だ。
土地に因る現象は不明瞭な部分が多い。
鎖黒や豊房のような怪遺産もこの土地の産物であり、また豊房によって顕現した妖怪もこの土地所縁の雨女。長い雨天現象はこれが原因だった。
私が恐れているのは、百奇夜行という言い伝えのように、こんな自然に影響を与えるような力が数多く顕現しかねないということだ。
豊房を矢神聖歌が持っていたことに驚いたが、今は再び所在不明。三桜の話からするに、結界寮に回収されたかもしれない。
一度滅びた妖怪達の脅威が未だ残っているのも怖い。が、忘れてはならない。
並折には、滅びていない妖怪が一人、まだ潜んでいることを。
◆ ◆ ◆
『懐かしいな、番――』
『――お前が居なくなってどれくらい経っただろうか』
『今年の八月は懐かしいものが見られたよ』
『雨女だよ。覚えているか?』
『お前が居て教えてくれないから、折角の雨も聞こえないし、見えないし、においもわからない』
『今年はこの街も、あの時のように騒がしくなっている』
『きっとたくさんの異形が死ぬ』
『そうしてまた、取り残されるのさ』
『妖怪一人、並折に残り……』
『繰り返される百奇夜行』
『口がないから、また伝えられず』
『流れに流され滅びゆく者達をまた見送るだけ』
『いつまで経っても俺には顔が無い』
『なぜ俺を置いて並折を去った』
『なぜ俺にこんな仕打ちをした』
『俺の愛した雪女よ……』
――守野三桜、貴女が人外だとは、私は知りませんでした。
――矢神聖歌、貴様が人外だとは、私様は知らなかったぞ。
――織神楽響、貴方が仇怨だとは、私は知らなかったです。
――江本佐々奈、貴様が人形だとは、某は知りもしなかった。
―――――――、――が――だとは、―は――――――――。
――五戒と誤解に後悔する者はなし。
――今はもう、遠き遠き空のむこう。
『また……生温かい血の雨が降る……』
PUNICA【あったかい雨の降る夜】了