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PUNICA【あったかい雨の降る夜】5

――〝なあに? 並折の話に興味を持ってしまったの、グレナデン〟


――〝ああごめんなさい。柘榴と呼んで欲しかったのよね。グレナデンの呼称は嫌なの?〟


――〝私の……(ツガイ)という名が漢字だから? 仕方ない子ね。二人きりの時だけよ〟


――〝うーん。そうねえ、カオナシの話に百奇夜行という言葉が出てきた通り、並折に潜んでいた妖怪はカオナシだけではなかったのよ。結局はみんな海へと沈んでしまったのだけどね。それでも、並折の伝奇にはまだまだ多くの謎が潜んでいる。妖怪達が跡をにごさず消えてしまったのなら言い伝えなんて存在しない。カオナシの話も、言うなればカオナシという妖怪自身が残した手記があったことで今も尚、伝えられている〟


――〝妖怪達の遺産。思い出の品々。怪遺産なんて呼ばれるわね。それらが、まだ並折に在るとしたら。妖怪は、そういった連想の糧さえあれば何度でも蘇る。空想にして顕在。模倣であれ虚言であれ、遺産の持ち主の名は語り継がれることになる。とはいえ……並折の妖怪も人間であったのだから、化け物として描かれ、語られるのは快く思わないかもね。もちろんいくつかの品は失われてしまったかもしれない。だけど、どのような形であれ残った怪遺産も存在する。この鎖黒(トザクロ)もその一つね。正確には《結永刃・鎖黒》と呼ばれる怪遺産よ〟


――〝……鎖黒は並折に在ってはいけない物。だからこうして並折の外にある。そんな怪遺産は鎖黒だけに限らない〟


――〝遺産で妖怪が蘇るというのは、あながち空想でもない場合がある。例を出すならば、豊房(トヨフサ)という筆ね。《安永筆・豊房》という怪遺産。ええそうよ、鎖黒のように武器の形状をしているわけではない、一見するとただの筆だからまだ残っているかはわからない〟


――〝あわよくば、残っていて欲しくない代物〟


――〝私が雪女と呼ばれていたことは柘榴も知っているわよね? 妖怪も、一人の人間にすぎない。そして私達は、己の力をよく理解し、悪用する者はほとんど居なかった。なんというのかしら……むしろ他の人間と異なる部分、つまり能力を、嫌悪していたの。特異な力を持ってしまった人間は村八分にされ化け物だと忌み嫌われ、酷い目に遭って生きていた〟


――〝ヒトの心を持っていたの。少なくとも並折に集まった妖怪達は〟


――〝私は自分の力で多くを殺し、凍らせ、こうして死使十三魔の序列四位として今も尚、殺人集団の力になっている。だから私は並折の妖怪ではない……〟


――〝とにかく、並折に居た者達はみな互いに助け合い、祭りをしたり、あたたかい生活を送っていたのよ。強い力を持った妖怪だって居たけれど、決して悪用しなかった〟


――〝安永筆・豊房はね、そんな彼らの特異な能力を蘇らせてしまう筆なのよ〟


――〝力の持ち主の妖怪が自分の意思で封印していた、力だけをね。だから豊房によって蘇り顕現した能力は、豊房の使い手に委ねられてしまう〟


――〝豊房を遺した妖怪は、並折の妖怪達が姿を消した後も、自分たちの力が役に立てばと思って遺した。けれど哀しいかな後の世では豊房を善行に用いる者は少なかった〟


――〝昔はちゃんと祀られていたのに。災害に見舞われた時、人々は豊房の力に頼っていたというのに。私が最後に並折を訪れたときにはもう祀っていた社は廃れて朽ち果て、壊されていた。豊房も盗まれて姿を消していた……〟


――〝だから、どうせ今もどこかにある豊房は、碌な使われ方をされていないのでしょうね。昔も今もただの人間どもは妖怪を蔑ろにする。あまつさえ外道たる方法で人工的に得た能力を、開き直ったように行使して衝動のまま殺人を繰り返す純血一族などという集団まで蔓延っている。役立つよう願って遺された豊房も、結局は危険な怪遺産として、こうして語られている〟


――〝……少し表情が険しくなってしまったわね。ごめんなさい。いえ、別に人工的に得た能力を嫌っているわけではないのよ。他の序列を批判するつもりもないの。ただ、目的もなく産む者の勝手で能力者を産む純血一族が気に入らないのは事実よ。産まれてくる子は己の意思など無関係に呪詛を宿して生まれてきてしまうのだから。しかもそんな――血に呪詛を宿して能力者を産み続けられるようにした一族の形態ですら、そもそもが超人による支配を目的としたのが起源だという。まさにヒトの腐った心を象徴したような連中〟


――〝……並折も昔のような温かい妖怪達の過ごした場所ではなくなっているわ。この世界も然り〟


――〝だから柘榴、貴女はここに居なさい。私の傍に、ずっと居なさい〟


――〝いい子ね。待ち続ければ、序列一位の目指す世界に変わる。あの方はその器を持っている〟


――〝偽りなき世界〟


――〝約束の刻〟


――〝訪れたその時こそ、豊房を正しく使って私達がみなを迎えに行ってあげましょう〟




  ◆  ◆  ◆




(う……寝てた……?)


 湯船に浸かったまま寝てしまったのか。

 気が付けば頭の上に置いていたタオルが底に沈んでおり、私は自分の腕を枕にして湯釜の縁に顔をうつ伏せていた。息苦しくなって起きたらしい。


(夢というか、昔の記憶を見ちゃった)


「はあ……」溜息が出た。

 生まれつき能力を持ってしまった存在――かあ。まあ妖怪ってのは、この国の誰かさんがそういった人達を勝手にそう呼んだだけなんだよね。

 純血一族だって、言ってしまえば現代に生きる妖怪集団なんだろうなあ。

 番姉さんは並折に訪れたことがあるのかな。あるのよね、きっと。

 並折の妖怪達は平穏に暮らしていた。けれどカオナシ伝承の通り、みんな海へと沈んでしまった。

 きっと番姉さんはその時に並折には居なかったんだ。

 みんな居なくなってしまった並折。残ったのは妖怪達の遺産と、ただの人間達。

 それでも並折は結界都市として現代も特異な地として利用されている。

 どうしてだろう……結界屋がこの都市に結界を張ったわけではないのか? 結界屋が居るなら、どこだって結界都市になる筈だもの。

 この地はまだまだ謎が多い。

 番姉さんが持ち出した鎖黒は、もとはといえば並折で作られた。怪遺産と呼ばれる特別な代物だ。並折にはあってはならない鎖黒を私は持ち込んだ。姉さんの言いつけを破り、彼女の元を去った。


 ……カオナシを見つけなければ。カオナシなら番姉さんを救ってあげられるかもしれない。


 ユキオンナはカオナシのことをよく話した。

 でもカオナシ本人ではなく、カオナシに纏わる話ばかり。

 ユキオンナと、鎖黒と、カオナシ。

 きっとこれらは堅く繋がっていると思うのだ。


「ともあれ今は目の前の問題を片付けないとね」

 ぱん、と両手で一回顔を叩いて立ち上がり、浴場を後にした。



 浴衣に着替えて女性浴場から出た私は、その足で隣の男性浴場に向かう。

 男性用更衣室の中は照明が消されている。響はもう上がったのだろう。

 さて彼の衣服はどこだろうかと籠を見て回るも、回収するべき洗い物が見当たらない。まさか響はあのずぶ濡れて汚れた忍装束をまた着たというのか? まさかね。

 そもそも彼に渡したタオルも見当たらないのだ。


 ここで私はヒク――と頬を引き攣らせた。


「ちょっと待って嘘でしょ……」


 裸足のままでドタバタと廊下を駆け、洗濯機の設置してある場所へ急ぐ。


――ゴウン、ゴウン。

――ゴウン、ゴウン。


 洗濯機が、起動していた。

 あんぐりと口を半開きにするしかない。


「な、ん、て、こと」


 凄まじい罪悪感が全身を支配した。

 あ、あああ、あの、式神に……洗濯をさせてしまった。

 純血一族の当主。当主だぞ。絶対とし、式神として崇め敬まわれて生きる人間だ。

 私は純血一族の人間ではないけれど国をも裏で揺れ動かすような名家の当主様に、自分で洗濯物の処理なんてさせられない。させたくはない。


「ぐ……っ」


 私は抱えていた自分の洗濯物を隣りの洗濯機に放り込み、すぐに反転。

 再び廊下を駆けぬける。


 彼は、ロビーに居た。


「随分な長湯だな。天宮柘榴」


 開けた浴衣の胸元から覗く褐色の肌。左右の盛り上がった胸筋の上を、痛々しい大きな残り傷が走っている。

 覆面で隠れていた表情はやはり冷徹さに覆われており、目つきは鋭い。髪は長く後ろで縛ってまとめられていた。しかし若い。声も若かったが、想像よりももっと若い。成人……しているよね?


 これが――織神楽響。

 彼はいつも三桜が定位置としている畳敷きのスペースに座り、こちらを見上げている。

 ぱくぱくと口を動かすだけだった私は、慌てて彼の前に両膝を付けて座った。


「せ、洗濯物……!」

「洗濯物?」

「か、か、かごかごかご……!」


 舌がうまく回らない。「かご」に舌を回す文字は含まれていないのだが、声がどもっていると自分で表現したくないのだ。

 うまく言えないと思いきや身振り手振りで拙い連想ゲームを勝手に始める私。実に滑稽である。


「籠? 脱衣所の籠か」

「そう! 籠の中に……!」

「ああ。勝手に洗ってしまった。すまんな」


 恐れ多すぎるわ!


「お、置いておいてくれればあたしが洗いましたけど……」

「そうか。まあ些細な事よ」


 重大な事でしょうが!


「それよりも天宮柘榴……これを見ろ」

「へ?」


 響は卓袱台の上にあったソレを、呪文布の巻かれた片手でぱしんと叩いた。もう片方の手はやはり使えないのか浴衣の中に突っ込んでいる。

 卓袱台の上には、なにやら分厚い紙の束があった。私が湯船で寝ている間にこれを読んでいたのだろうか。

 彼は乗せた手を横へずらして紙束を移動させたので、私は畳に膝をついて忠犬のように彼の隣へと移動した。


「これは?」

「貴様が遅いので、先ほどの壊れた倉庫を少々調べさせてもらった。三桜嬢の殺気も倉庫の中に充満しておったしな」

「むむ……」


 どうやら紙束は倉庫から持ってきたものらしい。強い力で握り締められたからなのか、紙に折り目がついていたり皺がよっている。

 表紙にはボールペンで『江本正志』と書いてあるだけだ。聞いたこともない。


「この紙束だけが入口に落ちていた」

「江本正志って書いてあるけど、なんだろう」

「江本正志は、我々織神楽家が五月に殺害した男の名だ」

「――ん、え?」


 ど、どういうことなのか。

 これは羽田立荘の倉庫にあったものでしょう? どうして織神楽響の事情に関係するものがあるのだ。


「内容は……」

「ふん、どうやら別件で江本正志と取引していた者が居たらしい。この紙束の内容は要約すれば、江本正志の個人情報と取引内容の明細と事後記録といったところだな」

「じゃあ偶然、関わりのあった人の名前があっただけ?」

「否」


 ぴしゃりと私の言葉を両断した響の一言。

 混乱に目を泳がせる私に対し、紙束を見下ろす彼の目は変わらず冷たかった。


「事後記録に軽く目を通したが、おそらくこの《pygma》という輩、某の動向を掴んでいる」

「ぴぐ……ま」


 はて、ピグマ。ピグマ。

 なんだっけ私知ってるような気がする。


「ここに矢神聖歌という人名らしき単語が記載されているが、貴様この名に心当たりはあるか?」

「矢神聖歌? 知っているも何も、あたしと三桜に羽田立荘を提供した人よ」

「……そうか」


 彼は浴衣の下で両腕を組んで唸る。そしておもむろに紙束の最後の方をぺらぺらとめくっていく。

 私はというと、これがもうさっぱり状況が掴めていない。まるでわけがわからない。

 江本正志が誰なのか知らないしそいつの個人情報も私にとってなんの役にも立たない。そんな紙束に聖歌の名前があったとしても「ああそうなの」程度にしか思わない。

 でも織神楽響も関係しているのが問題だ。


「江本……佐々奈。だと?」


 響はとある一枚を開いた状態で硬直した。

 おそるおそる彼の顔に自分の顔を近づけて紙の内容を覗いてみると、たしかに紙の最後には『六月二十日。お誕生日おめでとう、江本佐々奈』とある。江本正志の親類だろう。

 ああ、そういえば私が並折に来たのって六月の二十四日だったなあ。どうでもいいか。


「……江本正志。その妻、江本美香子。娘、江本佐々奈。この取引内容からすると美香子と佐々奈は死んでいるのか? 馬鹿な。確かに同居していた江本涼子は殺害した。正志も殺害した」


 なにやら低い声で呟いている。


「だが本妻の美香子と娘の佐々奈だけは、事後処理を簡略化すべく生かしておいた筈だぞ。家族が全員死亡するとなにかと面倒だからだ。こちらは脱走した涼子の殺害と、その娘――解毒爪を持つ音々子の回収、音々子を守ろうとして我々を裏切った正志の殺害。その目的さえ果たせば十分だったのだ。美香子と佐々奈には、正志の死亡記録を曖昧にすべく織神楽が指示を与えていた。その二人が……死んでいるだと」


 チィ、と舌を打つ響。

 直後その視線が私の方へと向けられる。


「この宿を提供したという矢神聖歌は何処だ」

「え、あ、今は買い物に出ていて……」

「そやつ、ただの人間ではないぞ」

「え?」

「三桜嬢がこの紙束を読んで激昂するのも無理はない。矢神聖歌は某が並折に逃げ込んだ事情を知っている」

「え、え?」

「純血一族の人間が並折に入るという事を把握しているということだ。その上で三桜嬢と貴様に宿を提供したのなら……」

「聖歌は、三桜が純血一族だと知っているかもしれないってこと?」

「仮定にすぎんが、極めて確定に近い。矢神聖歌は《pygma》という者と関わりがあり、その《pygma》は結界寮と密接な関わりを持っている」


 差し出された紙束の開かれた部分。その一部に響の指が当てられた。

 そこに書かれた手書きの文を私は目でなぞってゆく。


「見本として――矢神聖歌を――返却――? サインは……pygma」


 なに見本って。これじゃあまるで聖歌が、無機物のような――商品のような書き方じゃないの。

 聖歌は確かに生きているのよ。一緒に食事したり紅茶飲んだり、味について語り合ったりした。味覚が無ければできないことだ。彼女が汗をかく姿も見たし、包丁で指を切って血を舐める姿も見た。

 人間でないものと一ヶ月も、私と三桜が共同生活を送るわけがない。

 ふざけているのかこのpygmaとかいう奴は。聖歌に対して物のような扱い方をしやがって。


「提供材料? 結界寮、結界屋、錫杖……梵」


 たしかに結界寮の関係者だ。

 材料。作品。母親。娘。取引していたのは……まさか死体?

 材料というのは人間の死体?


「ちょっと見せて貰います!」

「ん……ああ、構わん」


 読んでいた部分をそこでいったん閉じて自分の方へ引き寄せ、最初から紙をめくった。

 江本正志の個人情報はもういい。

 私が見たいのは取引の明細――材料の内訳だ。


「B‐Sku(md)、B‐Cla(d)……」

「その表に書かれているのは隠語だ。某にもわからぬ」

「……」


 こんなのただの頭文字だ。

 B‐Sku(md)。

 Born‐skull(mother・daughter)。

 つまりこれは骨部頭蓋 (母・娘)という意味。


 B‐Cla(d)、これは骨部鎖骨(娘)。

 B‐Sca(d)、骨部肩甲骨(娘)。

 B‐Ste(m)、骨部胸骨(母)。

 Bは骨という分類。わかり易く頭頂部から部位を書き出してある。


 この書き方をする奴を私は知っている。

 これが人体の全てを書き綴った大量の紙束でなければもっと早く気付いていたかもしれないけど。でも似たような手紙を受け取ったことがあった。

 それは人形制作に協力してほしいという一文から始まっていたのだが、読むにつれて私はだんだんと嫌悪感が膨れ上がっていったのをよく覚えている。あろうことか番姉さんの身体の一部が欲しいという、くそ馬鹿げた内容だったので握りつぶしてやった。


(あの人形偏愛症、生きていやがったのか)


 軽々しく死使十三魔の序列四位にコンタクトを求めてきたうえに、肉体が欲しいと抜かしやがる大馬鹿者。

 当然、私は番姉さんの直下部隊に指示を出して始末させた筈だった。


 同一人物ならば、まさか並折で生きていたとはと驚きを禁じ得ない。

 奴は今もこの街で死体を使って人形を作り続けているというのか。


「大方の把握はできたな」

 そう言いながら響が音もなく立ち上がる。

「三桜嬢は倉庫でその紙束を閲覧し、pygmaもしくは矢神聖歌が自分を嵌めたと気付いたのだろう」


 三桜の奴……聖歌を殺すつもりなのか。

 いやすぐに殺しはしないだろう。聖歌はpygmaの指示で動いていた可能性もある。大元であるそいつの居場所を聞き出してから殺すつもりだ。

 ここで一つの疑問が浮かぶ。


 三桜は響を捜さないのか?


 嵌められて怒ったのはわかる。でも三桜の任務って、響と合流して回収することでしょう? いや別に捜しに飛び出したのならこの疑問も不要だけどさ。

 仮に、響そっちのけで聖歌のところへ向かったのなら。それはおかしいじゃないの。

 …………。


「響……さん」

「なんだ」

「三桜が、いえ、誰かが並折まで助けに来るという情報は、知っていたんですか?」

「否。貴様に聞いたのが初めてだ。一応、各地の潜伏先で合図を出してはいたがな」


 …………。


 ……………………。


「訊きたい事はそれだけか。某は行くぞ」

「どこへ?」

「装束を取りに行く。洗っている場合ではない」

「ちょ、ちょっと、どういう――」

「結界寮がうろついているこんな状況の中では、さすがの三桜嬢でも一人は危険だ。それにpygmaとやらには某も用がある。つまり矢神聖歌という者を探せば両者に辿り着けるという事。しかし某はその矢神聖歌の顔を知らぬ。貴様、案内できるな?」


 羽田立荘で三桜を待つより、こちらから出向くべきだという判断か。

 私としてはここでじっとしていたいのだが、この男を前にそれは許されないだろう。私の命は織神楽響の手に握られているのだから。

 首肯するしかなかった。


 そうと決まれば浴衣一枚では動けないので着替えなければならない。

 私も立ち上がって、自室に戻ろうとした。


 しかし、突然、羽田立荘の玄関を叩く音がロビーに響く。


――ドン、ドン。

――ドン、ドン。


 私と響は顔を見合わせたまま硬直。

 そっとロビーから半分だけ顔を出し、玄関の方を覗く。

 スモークガラス越しに人影が見えた。


「クロちゃーん! クロちゃーん!」


 この声は……明朗? 明朗だ!

 私の表情は明るくなり、すぐさま飛び出していきたかった。私の背後で息を殺し、殺気に満ちる劇物から解放されたかった。


「居ないのー? 入るよーっ?」


 がちゃがちゃと、不慣れに鍵を通そうとする金属の音。明朗は羽田立荘の鍵を持っているのか?

 響は私の口に背後から手を当て、「声を出すな」という意思を告げてくる。口に当てた手はいつでも毒を出せる凶器だ。必然、恐怖で全身が震えた。

 そのまま後ずさるようにロビーの奥まで連れられてゆき、階段を上がる。

 階下を覗き見られる位置に私と響は隠れた。


「……誰が来たのだ」

 彼の小さな吐息が耳を撫で、私も小さく応えた。

「知り合い。よくここに来る人」

「血を見たくなければ去るまでおとなしくしていろ」


 ほどなくして開錠された玄関が開き、明朗が入ってきた。


「クロちゃーん! 帰って来てないのかな」

「……どうかな。明かりは灯ったままだ」


 明朗と、もう一人分別の声。来たのは二人なのか? 誰?

 というかロビーの電灯を消していない。気配を探られてしまう。


「三桜さーん! 三桜さんも居ないんですかー?」

「天宮柘榴、結界寮の統界執行員だ。伊佐乃明朗の要請を受けて保護しに来た」


――ゴトン。ゴトン。

 明朗の足音とは違い、もう一人の足音は重々しいものだった。


「うわぁ、カザラさん! 土足じゃないですか駄目ですよ!」

「相変わらず細かい男だなお前は。わざわざ付き添ってやったんだ文句を言うな」

「だってきのえと駅の近くを巡回していたのカザラさんしか居なかったから……」

「居なかったから……なんだ? 俺ではなくアリスにでも付き添いを頼んだ方がよかったか?」

「それこそ土足を注意するどころじゃありませんよ。それに中まで付いてこないでください。いつも言ってるでしょう、貴方達は人目に付かないようにしてもらわないと」

「いちいち口喧しいことだな。女々しいぞ」

「なんとでも言ってください」


 二人の会話を冷や汗交じりに聞いていると、明朗の足がロビーに入るのが見えた。

 その後から、大きな黒革のブーツが続く。なんだろう、黒い前垂れを付けているらしい。両脚の前で布が揺れている。

 二人が畳に近付くと、頭のすぐ後ろで舌打ちする音が聞こえた。

 おそらく響が倉庫から持ちだした紙束を見られることを危惧しているのだろう。そこは優秀な私が、響の前で浴衣の胸元を開く。

 紙束の角が顔を覗かせた。


「でかしたぞ」


 そう。私はロビーの電灯こそ消し忘れたが、紙束はちゃんと回収してあったのだ。これは私の、席を立つ際は元居た場所を一度確認するという癖によるものだった。

 だから二人が紙束の存在を知ることはない。

 これで再び頭を撫でてもらえたのだから得した気分である。


「……うーん。ロビーには居ない。自室に居るのかな?」

「おい小僧。アリス・エイリアスから連絡だ」

「カザラさんまで僕を小僧と呼ばないでください! それで! アリスさんから連絡って何ですか!」

「そう怒るな。傀儡屋がひのえとで交戦中だとよ」

「交戦中? 聖歌さんが?」

「ああ。アリスもすぐに向かうと言っている。相手は織神楽響とみていいだろう。お前はすぐに梵と林檎を呼びに戻れ」

「でもクロちゃんは……」

「織神楽響に連れ去られたのだとしたら天宮柘榴もそこに居るだろう。心配なら俺がこのまま残って建物内を捜索する」


 ロビーから離れて相談しているみたい。階段の方へ顔を向けていないので、こっそりと顔を出せば二人の姿が見える。

 明朗はひのえと駅前で会ったからその姿に感想を抱くことはないが、もう一人の出で立ちにはおもわず息をのんだ。

 ブーツ、手袋、前垂れ、硬質的なコート、そして頭部の下半分を覆うマフラー。

 全部黒一色。

 私の季節感覚が混乱してしまうような格好だ。

 妙な呼吸音に加えてやたら声がくぐもって聞こえると思ったら、その男は見慣れない装甲で頭部を覆っていた。錆びた鉄のような色をし、のっぺりとした顔の中心部に赤いガラスのような球体。そこから視界を確保しているのか?

 たしか統界執行員とか名乗っていた。

 明朗の仲間、つまり――結界寮の戦力ということか。

 成人男性の平均的な身長を有する明朗が見上げて話すような大男。禍々しい姿は正直人間とは思いがたい。ヒトの形をした化け物だ。

 今のところ明朗と一緒に私を探しに来てくれたみたいだけど……果たしてあの男が織神楽響に対抗できるのか。

 私はべつに響に協力したくて行動を共にしているわけではない。そんなわけがない。殺されないよう最善の選択をしたまでだ。

 今、響の隙を突いて助けを求めたとして、私があの毒手によって蝕まれることなく救い出される保証はない。

 ここは息を潜めているしかない。


(う……なんだか気分が……)


 視界がぼやけ、明朗と男の姿が揺らいだ。

 織神楽響を背後に忍ばせ、密着状態で潜んでいるから息苦しいのか? めまいがする。吐き気も少しする。


「よせ。あまりアレを見るな」


 共に様子を窺っていた響が後ろから手を伸ばし、私の視界を遮った。


「アレって、あの大男?」

「……ひのえとをうろついていた連中と似た格好をしている。黒の前垂れと首巻。どれもまともに相手をしたくない奇妙な違和感があった」


 響でさえ気味悪く思う統界執行員。このめまいと吐き気は、あのカザラとかいう男を見ていたからなのか? でも明朗は違和感なく会話している。

 結界寮。ますます胡散臭い。


「小僧、さっさと判断しろ。俺もできればきのえと駅を調べるアリスに合流したい。だが俺はお前に従うよう言われている」

「わかりましたよ戻りましょう」

「で、ここはどうする」

「荒らされた形跡もないし、とりあえず書き置きだけ残していきます」

「了解だ」


 明朗は上着の中から出したペンでなにやら紙に文字を書いてそれを卓袱台の上に置いた。

 統界執行員は先に建物から出て行ったらしく、廊下を踏みしめるブーツの音と玄関を開く音が聞こえた。

 後ろめたそうに卓袱台を見下ろしていた明朗も、男に続いてロビーを後にする。


「クロちゃん……」


 明朗……ありがとう……。

 本当はすごく助けてほしい。

 今この場で明朗の名を叫びたい。

 響の腕を払いのけて、明朗のところへ飛び出して、盾となった統界執行員が響と対峙し――仕留める。それが理想。でも叶わない。有り得ない。

 二人が私を助けに来たのなら、私は人質でもある。今ここで私を傍に置いた響と彼らが合流したところで、不利になるのはむしろ彼らの方。

 それに私自身、そんな勇気が出ない。

 一度あの痛みを味わった私は身に染みついてしまった。織神楽響に対する恐怖心は尋常ではない。一挙手一投足、些細な動作に反応しては怯え、表情を窺う情けない動物となってしまった。彼の言葉に従順となる暗示のようなもので縛られてしまったのだ。

 まさしく私と響の関係は、純血一族の理想たる支配の形なのだろう。


 明朗も出て行ってしまった。

 気配も遠のいたのを確認すると、響がくつくつと肩を震わせながら笑った。


「この織神楽響が身を潜め続ける屈辱。本家へ帰還したあかつきには万倍にして返してくれよう」


 彼の片手は階段の手すりを握り締め、まるで泥のように削ぎ消してしまった。


「………」

「急いで着替えてこい。奴らの話ではひのえとで戦闘が起きているとの事。三桜嬢に相違あるまいて」

「………」

「どうやら三桜嬢と擦れ違ったようだな。統界執行員どもが集まる前に、彼女と合流せねばならん。急げと言っている!」


 最後の強い口調で私は跳ねるように立ち上がり、転がるように階段を駆け下りる。

 その勢いのままロビーに入って卓袱台から明朗の書置きをひったくって胸に抱く。

 階上から見下ろす響の視線に怯えながら、自室へと逃げた。


 まるで悪夢のような現実。

 どうして私がこんないざこざに巻き込まれなければならないのか。

 結界寮と純血一族が勝手に争えばいいのに。

 あんな奴ら、番姉さんにかかれば簡単に凍結させられるのに。


 私はほんとうに弱っちい。

 

 自室の戸を閉め、そのまま力が抜けてへたりこむ。

 この世界は力がすべて。力のない私は、痛くて怖くて辛い目に遭いながらこうして身を伏しているしかない。

 やっぱり世界は私にとって絶望でしかないよ番姉さん。


 胸に押さえつけた明朗の手紙……何が書いてあるんだろう。

 綺麗な字だなあ。意外。


『クロちゃんが心配なのでお邪魔しました。待っていようと思ったけれど用事が出来たので戻ります。帰宅したらそのまま屋外へ出ないようにしてね。きのえと駅にも近寄らないようにね。あと――』


 明朗……。


『――三分後に、統界執行員という結界寮の戦力が一人、突入するので安全な場所に避難して』


 ありがとう……。



  ◇  ◇  ◇



 震える手で手紙を読み終え、顔を上げた瞬間――、


 羽田立荘の正面玄関で、大きな破砕音が轟いた。



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