PUNICA【あったかい雨の降る夜】4
食べ終わった五本目のアイスキャンディの棒を床に落とし、守野三桜は片眉を上げた。
『江本正志』
紐で括られた紙束の一枚目にはボールペンで名前だけが書かれている。
羽田立荘を使う事になった際、裏庭の倉庫は矢神聖歌が片付けと掃除を担当していたので古びた倉庫の中はあまり埃っぽさがなかった。
聖歌の自室を後にした三桜は、冷凍庫からアイスキャンディを調達したついでにまだ見たことのなかった倉庫へ足を運び、そこでこの紙束を見つけたのだった。
紙束はいくつもあり、段ボールの中にまとめて詰め込まれていた。
しかしこの――江本正志と記された紙束だけは、最近閲覧されたのだろうか閉じられたダンボールの上に無造作に置かれていたのだ。
(江本正志。えもと……まさし。えもと?)
引っ掛かる。
三桜の記憶は、その名前が初見ではないと彼女に告げている。
どうにも名前を見ただけでは思い出せず、彼女は束になった紙に記憶を呼び覚ますきっかけを期待してめくり始めた。
記載されているのは、この男が企業経営者であったということ。既婚者であり娘が居たということ。二年前から出張で家に戻っておらず、別の女性とその連れ子と同居していたこと。そして――今年の五月に死亡したということ。それだけだった。
特に変わった経歴ではない。彼の死因が不明という点は気になるが、企業経営者が浮気していましたよ、という心底どうでも良い情報だった。他にもどこで調べたのか自宅住所やら携帯電話の番号やらの個人情報が書かれているだけで、三桜の満足する内容ではなかった。
この紙束は個人情報が記されているだけのものなのか。
ひどくつまらなそうにもう一枚紙をめくり――、
そこで三桜は眉をひそめた。
『提供報酬』
そんな題を付けた、奇妙な表。
そこには謎の文字が綺麗にずらりと書かれており、それぞれ隣に金額が付けられている。どうやらこの紙の記載者が江本正志に支払った金額だと思われる。
いったい何を売買していたというのか。
「なんだこりゃ? B‐Sku(md)、B‐Cla(d)、B‐Sca(d)、B‐Ste(m)――?」
取引材料はすべて隠語で記されており三桜にはとても知り得ない。
(何かの頭文字か?)
《B‐》というジャンルだけでもかなりの量だ。この表が分厚い紙束のほとんどを埋め尽くしている。それらすべてを合計したと思われる数値に――さすがの三桜も目が回りそうになった。
「こ、こんな額の金が動いたのか? 江本正志とかいう男の為に?」
紙束はまだ終わっておらず数枚を残している。
それは赤い文字で書かれていた。
『当方の検査により提供材料と希望材料の不一致を確認』
『取引は一応成立とする。しかし違反により提供報酬を大幅に削減』
『見本として送った矢神聖歌を至急返却するように』
『二〇〇六年四月、返却を確認。送金完了。提供者控えを送付』
小さく『買取側控え』と書かれ、紙の端には『pygma』というサインが施されている。買取側の名前だろう。
記載内容からすると、どうやら何かの提供者である江本正志は違反を犯したらしい。
しかし減額されながらも取引は成立していた。
(最後に閉じてある数枚は手記か?)
これだけは手書きで、まるで日記のように綴られている。
『五月、提供者の死亡により提供者控えが返送されてきた。他に受け取り手がいないだろうから必然だ。とにかくこちらは送金済みなので、契約通り直接提供材料を回収してきた。モノがモノだけに結界寮の結界屋がうるさかったが、管理人の錫杖梵に話をつけてあったので特に揉めることもなかった』
『材料の状態は――まあ次第点といったところか。多少の損傷は想定内だ。やはり一番欲しかった物ではないのが悔やまれる。これでは今までと変わらない。そこで私は、かねてより実現させようと考えていた試みに手を出すことを決めた。今回の作品は実験も兼ねたものになる。非常に楽しみだ』
『鎖黒の情報もあったので、できればそちらを使いたかったのだが回収できる目途が立っていない上にあまり時間が経つとさすがに材料の腐敗が進行してしまう。今回は豊房を使うことにした。鎖黒はいつか手に入れたいので機会を待とう』
『豊房をどこに仕舞ったのかは覚えていたので、さっそく取り出してきた。随分長い間放置していたから苦労した。羽田立荘の倉庫がかなり散らかってしまった。そのうち片付けにでも行こうと思う』
『製作にあたりあらゆる解毒方法を準備しておいたのだが、どうやら必要ないようだ。どちらも死因は毒ではなかった』
『せっかく私と似た材料なので普段ならできない方法を試みる。二体作っても良いのだが、母親の方は使用不能な部分が多く、今回は豊房の実験もあるという理由で無理な使用を避ける。なるべくなら珪素を用いたくない。それにしても江本正志にはもっと品質に気を遣って欲しかった。娘の方も各所に骨折や内臓の破裂が見られる。交通事故死だろう』
『作品は大方仕上がった。この時点でやはり人格が形成され自我を持った。少し気になる点はあるが問題はないだろう。相変わらず私の製作速度は神業の域に達していると言っても過言ではない。先代でもここまで速くはなかった。最後の仕上げとして点睛に豊房を用いる』
『とても笑える結果だ。それはさておき、私は完成した作品をどれも自分の傍で愛で続けたいという思いが強く、いつもこの時が苦しいものだ。結界寮に置いておくかと思ったが、既に置いてある作品があり錫杖梵に断られた。次からは藍澤林檎に交渉を持ちかけよう。使われていない羽田立荘に置くか? いや、それでは作品が可哀想だ。また狭くなってしまうが工房に置こう。それがいい』
『名前は、ベースとなった娘のものを使用する』
『今回も素晴らしい作品が出来上がった』
『六月二十日。お誕生日おめでとう、江本佐々奈』
……手記はここで終わっている。
《pygma》という者もしくは業者が、江本正志と取引して何をしていたのかが、手記によって理解できた。そして《pygma》はこの羽田立荘を所有している、もしくはそういった権利を持っているということも明らかだ。さらに矢神聖歌はこのことについて知っている。
知っているどころか紙束に彼女の名前が載っていた。《見本》などという奇妙な呼称で。
《pygma》が《製作》している《作品》。
その《見本》として挙げられた矢神聖歌。
作品というのは――。
三桜は顔をしかめて想像を中断。
(待てよ……)
紙束を置いた三桜は、その場で顎に手を当てた。
(思い出したぞ。江本……)
「織神楽涼子と、その娘――解毒爪を持つ織神楽音々子。その二人が織神楽家から抜けてしばらく名乗っていた苗字だ。脱走したのは二年前。時期も一致する。江本正志と同居していた女と娘は……涼子と音々子のことか! そして江本正志は今年の五月に、織神楽家によって抹殺された! そしてこの《pygma》と取引していたのは……本妻と娘の……死体か?」
まずいまずい。これはまずいぞ。
三桜の脳内はその言葉をひたすら反芻し、「やられた」と歯ぎしり交じりに漏らした。
(響の馬鹿野郎め……殺害対象の身辺調査を怠りやがったなぁ! この《pygma》って奴が個人か団体かは知らんし、やっていることにも興味なぞ無い。だが、問題なのはこいつが並折の人間ってことだ!
こいつは手記に解毒の準備をしていたと書いた。織神楽家が毒を扱うと知っていて、しかも江本正志を織神楽家が狙っていることまで並折に居ながら把握していたんだ。それで本妻と娘も織神楽家にまとめて毒殺される可能性があると考えた。だからあらかじめ解毒の準備をしていたってわけかよ。
もしこいつが織神楽家の任務事情をも把握していたなら、どこかから情報が漏れている可能性がある。それは後で考える。つまりそこまで把握しているなら、当然ながら響が傷を負って逃走していることも知っているはずだ。そんな機密性を欠き穴が開いた駄々漏れの情報で並折に入った私様と響は――罠にかかった事になる! 人為的に並折へ誘い込まれた可能性が高いぞ! 九条家の諜報部は能無ししか居ないのか!)
そして――、
「矢神聖歌……あのアマもグルだ畜生がああああああああああああああ!」
並折から外界の江本正志と取引していた《pygma》。そいつは織神楽家の逃亡者を観測していた。
あそこまで個人の情報を調べ上げているような買い手だ。涼子と音々子の正体も調べ上げているとみていいだろう。
織神楽家が江本正志を殺害したことも把握している。
無論、そいつは知ってしまった筈だ。織神楽家がどうして正志を殺害したのかを。
それが織神楽音々子こと、江本音々子の回収任務の過程だという事を。
更には回収に失敗し、響が撤退中だという事まで。
たとえ情報の漏洩でなかったとしても、この現状に対する三桜の予想と危惧は的確。
そして響は――並折に逃げ込んだ。
その援助に守野三桜も並折へ入った。
守野三桜に宿を提供した矢神聖歌は――《pygma》と関わりのある者だった。
これが偶然というにはあまりにもできすぎている。
「なァめやがってえええええええええ!」
怒りは彼女を昂らせ、
肥大硬質化した大腿筋で倉庫の床を踏み抜いてしまう。
感情のままに振った裏拳は壁に大穴を開け、
人の物ならざる咆哮は天窓に罅を入れた。
純血一族――守野家が当主。
獣人――守野三桜。
彼女の猟刻が、始まる。
◆ ◆ ◆
織神楽響と私は、私の案内で羽田立荘に到着した。
彼は人間が通るような道ではなく林の木々を縫うように駆けたので、頭には木の葉や枝がくっついていて取り払うのに苦労した。
彼に抱えられてわかったことが一つある。
先程までは動揺して観察眼がまったくと言っていいほど働かなかったが、よくよく彼を至近距離で見てみると――彼の覆面は赤く染みていた。
吐血によるものだろう。雨でも流されないくらい染み付いている。こんな怪物が片手を失い、吐血するほど追い込まれた事情が想像できなかった。
とにかく屋内へ入ろう。このままでは身体が冷え切ってしまう。
玄関の戸に手を掛けた私は――それが開かない事に困惑した。
「あ、あれ?」
がたがたと乱暴に横へ動かそうとしても開かない。鍵をかけられているのだ。
私は激しく戸を叩いた。
「三桜! ねえ三桜! 鍵なんてかけないでよ! 聞いてるの? 三桜ってば!」
待っても返事はない。
戸のスモークガラス越しに中の様子を窺うも、暗くてわからない。ロビーの明かりも消されている。
三桜の奴、外出したのか?
いや鍵は聖歌しか持っていないから、外側から鍵をかけることは三桜にはできない。
なんだ? 様子が――羽田立荘を包む気配がおかしい。
それを私よりもはっきりと感じ取ったのは、織神楽響だった。
「……殺気だな。だが三桜嬢が本当に此処に居たとして、争いが起こればこの建物が原形を保っていられるわけもなし。殺気だけを残して三桜嬢は消えたのか?」
殺気。宿に残っていたのは三桜だけだ。誰かと争ったわけではないとしたら、この殺気は三桜のものか。
……やはり三桜は宿に残ってなにかを調べていたのか? その結果、殺気を撒き散らして外へ出るに至ったということか?
それは屋内に入ってから考えよう。
私は響を連れてどこかから入れないものかと建物の周囲を巡り――裏庭で入口の大破した倉庫を目にした時は言葉を失った。
「なによこれ」
「……ふむ。あそこの勝手口が開いているな」
倉庫の件は一旦置いておこう。今は見なかったことにしよう。
三桜が開けっ放しにしたと思われる勝手口から羽田立荘の中へと入った私は、まずは織神楽響を浴室へ案内した。
私も彼もずぶ濡れの状態だし、彼は何日も汚れた状態で過ごしていただろうこともわかる。
冷静冷酷、無情無表情、致死毒の塊。そして純血一族の当主という身分である彼が、私なりの気遣いに対してどんな反応を見せるかと戦々恐々としていたが、意外にも彼はあっさりと私の言葉に従った。
そういえば一応いつでも使えるようにはしてあるが、羽田立荘の男性浴場を使うのは彼が初めてになるか。明朗もまだ泊まっていったことはないし。
男性浴場の入り口と女性浴場の入り口の前で、響と私が立っているこの光景は、なんというか……非常にシュールな図だ。
「えっと、これ……タオル。着替えは此処の浴衣が用意されているからそれを。脱いだ衣服は……問題が無ければあたしが洗うので籠に入れたままにしておいてください。あ、あと洗剤は浴場内にあるので」
「……」
彼は無言でタオルを受け取ると、さっさと中へ入っていってしまった。
よ、ようやく。ここでようやくあの怪物から解放された……怖いし痛い目にも遭わされたけど、三桜との仲介役として殺されずに済んだ。
安堵の深い溜息が自然にこぼれ、タオルを抱えた私も女性浴場の脱衣場へ向かう。
脱衣場は広く、ただの料亭だったにしては多人数が利用できる設計になっている。
おそらく宿として開業するにあたり浴場部分も改築されたのだろう。使い慣れてしまった感は否めないが、宿にしては良い物だと思う。
塗れて身体に張り付いた衣服を四苦八苦もがいて脱いだ後、目の前に掲げて眺める。肩部分を失って台無しだった。お気に入りだったのに……。ニーハイソックスも膝の部分が破れてる。新しい服買わないといけないなあ。
洗うのは下着とスカートだけか。あとで靴も乾かさないと。
しまった替えの下着を持ってくるのを忘れた。
まあ、いいか。自室に戻ったら着替え直そう。
えっと……多分、響も替えの下着に困るかな。いや、その、男性の下着はよくわかんないけど。此処に予備があればいいが。
いい機会だから今度明朗に見せて――もらえるかっつーの!
(アホか私は)
よくよく考えてみれば、織神楽響だって食事は摂るし入浴もするんだよね。人外だ超常だ化け物だ怪物だと表現しても、彼だって結局は人間だ。体力は常人を凌駕するだろうけど疲労もするだろう。
まったく別の生き物というわけじゃあない。一人の、男性だ。
そう思ってしまうと、彼の前で粗相をやらかした自分が余計に恥ずかしくなってきた。しかもそんな状態で抱えられて――。
(うわああああ)
もうやめよう。これ以上は自分を追い詰める。
仕方ないじゃないか……痛かったんだから。
裸体になった私は脱衣所に備え付けられた姿見に自分の全身を映してみた。
両脚の膝小僧がすりむけて赤くなっている。皮膚を溶かされた肩も気持ちの悪い赤黒さだ。響の言った通り骨まで溶かされるようなことはなく、せいぜい皮膚の表面を焼かれた程度。擦り込まれた神経毒が、私にあんな痛みをもたらしたのか。
患部が彼の手形状に肩を覆っている。親指と思われる部分が脇の下まで溶かし、擦れる度に痛んだ。
頬に付いた砂を腕で拭い、浴場に入る。
設置されたシャワーは五つ。肩の神経毒がまだ残っているかもしれないのでよく洗い流し、それから頭と身体を洗った。
いつもなら大体このタイミングで浴場へ三桜が飛び込んでくるのだが、今回はそんなことがなく安心だ。わざわざ隣のシャワーを使い、私の胸の大きさにいちゃもんを付けてくる迷惑な行為にも遭わずに済む。
思い返せば改めて奴は変態で最低だと再認識した。
響と三桜。同じ純血一族でも違いが大きすぎる。家系の差か? いや守野家にだってマシな奴は居る筈だ。それに響の方は純血一族の当主様。殺人集団ではあるが連中は名家でもある。厳格を全身に貼り付けたような立ち居振る舞いをしていた彼のことだ、三桜なんかと違って礼儀作法を重んじて生きていたに違いない。
(三桜は何を調べていたんだろう)
桶にためた湯を頭から被り、備え付けのシャンプーで髪を洗う。
(倉庫で何かを見つけたのかな。結界寮の動きに気付いて響を探しに出て行ったとか? 気付くきっかけがないからそれは有り得ない。響じゃないとすると、あいつが此処を飛び出す理由は――聖歌か?)
石鹸を泡立てたタオルで身体を磨きつつ、真正面に設置された鏡越しの自分と目があった。
どう思う? どうだろうね。
なんて、首を傾げたりしながらの自問に自分で応ずる。
なんだろうこの突発的な騒がしさは。
・延々と止まない並折の雨。
・矢神聖歌の奇妙な行動。
・織神楽響の逃避行。
・結界寮の響討伐。
・守野三桜の残した殺気。
各々が慌ただしく動いている。
私は無関係の筈なのに、こうして各々の行動を把握できてしまうような――渦中に居る。
胸騒ぎがする。
各々自分の目的に集中している現状、ここまで把握できているのは私くらいだ。そんな私が一連の動きを突発的だと思った。それはつまりタイミングが揃っているように思えたわけで。実際にこれらは一日で起きた出来事なわけで。
(結論を出すには早いけれど)
全部が繋がっているように思えてならない。
「ふう」
頭の上にタオルを乗せたまま湯船に浸かると身体の疲れが一気に抜けてゆく感じがした。ここ最近ぐうたらしていて身体が鈍っていたからなのか、はたまた出来事が出来事なだけに必要以上に疲れをためてしまったのか。
とはいえ全部が繋がっていると仮定するにしても、どう繋げるというのだ。
響と結界寮の繋がりは明朗に聞いたから良いとして、聖歌がひのえと駅で降りなかったことが織神楽響とどう関係する? 並折の一住人である聖歌と純血一族なんて接点などありはしないだろう。
三桜の行動も気になる。羽田立荘の倉庫なんかで何を見つけたというんだ。殺気を残して倉庫を破壊して。そこまで彼女を激昂させるものがあったというのか?
……この羽田立荘。ただの宿か? 矢神聖歌は何者だ? 遡って考えると疑わしいものはいくらでもあるわけだが。そもそもこの街自体、裏世界の人間で溢れかえる場所だしなあ。
長い雨天についても調べるか。私の部屋には六月から昨日までの新聞が保管してあるからね。いつもロビーで三桜に読むのを邪魔されて自室に持ち帰って読むからなんだけど……。捨てずに置いておくうちに溜まってしまった。
「う……眠くなってきた……」
ええと、お風呂を上がったら――、
とりあえず洗い物を回収して――、
響の様子を窺って――、
倉庫の状態を確認して――、
新聞の気象欄を抜き出して――、
あれ、今って何時だっけ――ゆうはん――したく――。
聖歌――帰って――くるよ――ね――。
◆ ◆ ◆
ひのえとの商店街を巡回し、再び駅前まで戻ってきた伊佐乃明朗。
結局、織神楽響の所在は掴めないまま。
彼は眉間に皺を寄せながら、天宮柘榴とばったり会った駅前広場の像に背中を預けていた。しかしながら皺の寄った眉間と曇った表情は、織神楽響を見つけられなかった不満によるものではない。
彼の足もとには羽田立荘の番傘が転がっていた。
天宮柘榴が持っていたものだ。
「クロちゃんの身に……何かあったのか?」
こんな雨の日に自ら傘を放り出すなんておかしい。
明朗は番傘を拾い上げると、取っ手を強く握った。
駅前だからと油断していた。路面電車ですぐにきのえとまで戻れるからと、彼女を一人にした。結界寮の住人でありながら情けない。天宮柘榴に偶然会った嬉しさに、気持ちが浮いていた。
「ギリ……」と明朗の食いしばった奥歯が軋む。
(まさか織神楽響と遭遇したのか? すぐに羽田立荘に行って帰宅したか確認をとらないと。聖歌さんは出払っているだろうし、残っているとすれば三桜さん……か。彼女が何者かはわからないけど、協力してくれるかな)
天宮柘榴と仲の良さそうな彼女のことだから、きっと協力してくれる。明朗はそう自分に言い聞かせ、路面電車に乗るべく駅へ向かおうとした。
路面電車は一時間に二本。目の前にはちょうど駅に到着した電車があり、彼は慌てて足を急がせる。
ひのえと駅の改札口へ急ぐ透明のビニール傘。
その先で揺れたのは――赤い番傘だった。
「……あら、明朗君?」
「せ、聖歌さん!」
矢神聖歌が、明朗を見つけて声を掛けた。
「そちらの状況はどうですか? 織神楽響は見つかったの?」
普段と変わらぬおだやかな表情で彼女は問い、立ち止まった明朗は彼女の言葉を聞きながら、扉を閉じて動き出してしまったきのえと行きの路面電車を見送ることになってしまった。
諦めて溜息を吐いた明朗はあらためて聖歌の前に立つと、かぶりを振って見せた。
「いいえ、こちらは駄目です。おそらくもう別の地域へ移動してしまったかと。聖歌さんの方はどうですか? つちのえとにある工房に行ったんですよね」
「ええ。捜索を手伝えなくてごめんなさい」
「気にしないでください。いつも思うんですが、どうして工房を墓の近くに建てたんです」
「……火葬ではなく、埋葬だから。ですね」
にこやかにそんな事を言う聖歌に、「うへえ」と明朗は目を背けて唸った。
「そ、そうですか。それで見つかったんですか、逃走したという江本……なんでしたっけ」
「佐々奈よ。江本佐々奈。私の方も収穫なしですね」
「まずくないですか? 梵さんの耳に入ったらどやされますよ」
苦々しく眉をひそませる彼に対し、聖歌はやはり変わらぬ笑顔で手を振った。
「これは私だけの問題なので、梵さんは何も言ってこないですよ」
「はあ。まあ《pygma》は直接結界寮とは関係ないですし別にいいですけど。ひのえとで降りたってことは、これから買い物ですか」
「ええ。クロちゃんと三桜ちゃんがお腹を空かせているでしょうから、早く帰らないと――それよりも明朗君、とても慌てていたみたいですけど。どうしたの」
ここで明朗はハッと目を見開き、首を傾げて頭上に疑問符を浮かべる聖歌へさらに接近した。
「そうですよ! クロちゃんが危ないかもしれないんです!」
「クロちゃんが? どういうこと?」
「実はひのえと巡回中に駅前でクロちゃんに会ったんですけど、後で戻ってきたらそこにクロちゃんの傘だけが落ちていて……」
慌てて事態を説明し、聖歌はとても落ち着いた様子でそれを聞いていた。しかし彼女の表情はおだやかさを崩して少しだけ曇っている。
織神楽響に遭遇した可能性があるので早く羽田立荘に行って確認を取らなければ。そう言う明朗の顔を見ながら、聖歌は別の事を考えていた。
(クロちゃんが、ひのえと駅に?)
小首を傾げる。
(どうしてクロちゃんがひのえと駅に居たのかしら。あの子がきのえと駅に行くのならわかる。鎖黒を探しているでしょうから。行っても見つからないとは思うけど。そもそも――盗んだのは私ですもの)
盗んだはいいが、直後に盗まれてしまって聖歌にも在処がわからないからどうしようもない。
それは置いておくとして。
(私に何か用事でもあったのかしら。まさか……!)
聖歌の目と眉間に力がこもる。
(また、三桜ちゃんに使い走りをさせられたの……? 可哀想に。有り得る。有り得すぎるわ。夕飯のメニューに希望ができたから私に伝えてこいとか、そんな感じだわきっと)
頬に片手を添え、嘆きの息を吐く。
聖歌から見ると三桜と柘榴はとても仲の良い姉妹のようで、いつも微笑ましく過ごしている。時折、三桜が柘榴をからかったり使い走りにする姿も見受けられるので、今回もすぐにそうだろうと予想したのだ。
三桜と柘榴が姉妹のようであれば、聖歌は母親のようであった。
実のところ聖歌は彼女達の素性を知らない。たしかに鎖黒を手に入れるべく天宮柘榴に接近はしたが、柘榴個人に関しては特に情報を貰ってもいなかったし興味もなかった。ただ鎖黒を盗んだ直後にまた何者かに鎖黒と指輪を盗まれてしまい、そして柘榴の同行人らしき守野三桜に指輪探しを手伝ってもらったのが羽田立荘を提供するに至った理由である。
きっかけは鎖黒だったわけだし、天宮柘榴を傍に置いておけばまたその在処が掴めるかもしれないという思惑はあったが、それは後で思い立ったことである。つまるところ聖歌は本当に御礼のつもりでその時に羽田立荘を提供したのだった。
普段なら並折の住人である彼女はそんな真似はしないが、その日がちょうど妹の命日だったこともあり、その気になってしまったのだ。
「話はわかったわ明朗君。すぐに羽田立荘へ向かってクロちゃんが帰っているか確認しましょう」
「はい。あの、買い物はいいんですか? 鍵さえ渡してもらえれば先に僕が行って確認しますけど」
「クロちゃんの一大事に、買い物なんてしていられないわ」
「まだ決まったわけじゃないですよ。もし居なければ織神楽響に遭遇したと判断して結界寮が総出でクロちゃんを捜索します。梵さんと林檎さん、結界屋さんも駆り出させます」
「ほんと――貴方は頼もしいですね。クロちゃんが羨ましい。と、同時に、貴方の結界寮に於ける意見力が少々怖いです」
「大袈裟ですよ。聖歌さんだってその点、僕よりも自由じゃないですか。《pygma》のことや、聖歌さんが結界寮の住人でもあること、クロちゃん達に話してないんですよね」
「あの子たちを不安がらせるだけですから。明朗君だって初めは随分と警戒されていたじゃないですか。それに私は彼女達の素性を知ろうとは思いませんし」
「ふうん……ま、それで上手くいってるなら僕が口出しするのは野暮ですね。じゃあ、僕は先に行っています。事態が悪ければ伝言役を送りますよ」
「ええ。はい、これ宿の鍵。クロちゃんのこと、お願いします」
鍵を受け取った明朗は「お任せ」と言い、発券機の方へ身体の向きを変えた。
「あ。伝言で思い出した。聖歌さん」
急に彼の声のトーンが下がったので動揺したが、聖歌は平静を維持した。
「どうしたの」
「……梵さんから伝言を預かっているのを忘れていました。返事も貰ってくるよう言われています」
「私に? なにかしら?」
明朗は傘を閉じ、先で床を叩いて雨露を払った。
「この雨のことですよ。『聖歌。お前もしかしてトヨフサを使ったんじゃないだろうな?』だそうです」
さすがに鋭い女ねえ。と、聖歌は心中心底感心し、肌身離さず持っている一本の筆に意識を向けた。
その存在を知っているのは、せいぜい結界寮管理人の梵と林檎――あとは住人がちらほら程度だが知られたところで問題はない。先ほど明朗が言ったとおり結界寮は《pygma》に関与しないからだ。豊房は《pygma》関連の件。どう扱おうが聖歌の自由。
「御名答。と伝えておいて」
「……わかりました。それにしてもこの長い雨天は聖歌さんの仕業だったんですね。まったく、どういうつもりかは訊かないですが勘弁してください」
「あら。私はきっかけを与えただけで、私だけの仕業ではないですよ」
「意味が解りません」
あっけらかんとした聖歌の態度に、明朗は肩をすくめる。
続く雨天にうんざりしているであろう彼の肩を叩き、聖歌は「またすぐに晴れますから」となだめた。
とにかく今は柘榴を心配する気持ちが大きいのか彼はすぐに元の調子に戻り、聖歌はその姿に笑みを見せて二人は別れたのだった。
◇ ◇
さらさら。雨粒は傘の表面を撫で――、
しとしと。雨粒は像の曲線を伝い――、
くすくす。聖歌は傘で表情を隠し――、笑っていた。
「ああ可笑しい。でも素敵。喜怒哀楽は私の力で与えられますが、涙はどうしても無理でした。けれどあまりにも流したいと懇願されたので豊房の力で点睛してみたわけですが。まさかまさか雨だとは。ふふ、ふふふふ」
いやはや未知なる道具は実に興味深い。
これなら同じ怪遺産である鎖黒にも期待感が増してしまうではないか。
「蘇り顕現した妖怪は雨女ですね。雨女、江本佐々奈。これは面白い作品に仕上がりました。流石は私、上出来です」
矢神聖歌。その通称は《pygma》。
そして結界寮に属し裏世界に轟くまたの名は――、
傀儡屋。
神の領域を犯し、芸術の至高を求め、生物の歪曲した模倣を実現させる女。
師は禁術を解き禁忌を嘲笑い禁断を掻き集めた傀儡屋。世界に七人しか存在しない禁忌執行者。矢神聖歌はその弟子にして二代目であった。
「あまり涙を流し過ぎると、眼球そのものが洗い流されてしまいますよ。まあいずれ――え?」
曇った空に呟き掛けた聖歌。
傘から何気なく覗かせたその目だったが、
直後まばたきする事も忘れて見開くことになった。
聖歌の目には、空を横切る影が映ったのだ。
見間違い?
違う。見間違いではない。
何度も影が自分の頭上を猛烈な速さで通り過ぎていく。
何度も。何度も。右から左。左から右。縦。横。斜め。
影は――完全にはっきりと明確に、矢神聖歌だけを意識して飛び跳ねている。
そう。跳んでいるのだ。
縦横無尽に、あらゆるオブジェクトを踏み台にして跳躍を絶やさない。
そこまでわかるくらい目が慣れてきたというのに、雨による視界の悪さと影そのものの速さが相俟っていまだに影を影としか認識できない。
しきりに首を振り身体を動かしその姿を追っていた聖歌もさすがに疲れてきたのか、傘を投げ捨てた。
「何者ですか?」
向けた声の先――ひのえと駅の屋根には影があった筈だが、もうどこかへ移動して見当たらない。
駅前の像に背を付けた聖歌は、自分の投げ捨てた番傘の近くに同じような番傘が転がっていることに気付いた。明朗が言っていた柘榴の傘だろう。
像があるのは駅前広場の中心。
影の跳躍は駅の屋根から像を対称とした商店街の入り口にある門まで届く。
つまり――駅前広場という檻に、聖歌は閉じ込められたのだ。
(――っ)
目を左右に動かすも影を捉えられない。
しばし翻弄された後、影はやっと動きを止めた。
屋根の上に立ち、白い歯を覗かせたのは――背の高い女。
守野三桜だった。
「シィ」
鋭い吐息が聖歌の鼓膜に届いたと同時に、三桜は屋根から何度も前宙をまじえて駅前広場に降り立った。
聖歌は言葉を失うしかない。彼女も傀儡屋として裏抗争に駆り出されて多くの超人を目にしてきたが、たった今見た動きはその《慣れ》をも揺るがすものだった。
一度の屈伸で、およそ五十メートルは跳躍した。それを絶え間なく何度も高速で継続させた。跳躍開始時はあまりの速さで姿が消えるほどだ。
聖歌は自分の中の超人という言葉が急激に下落してゆくのを感じつつも、その超人感を凌駕した者があろうことか守野三桜であったことに周章狼狽した。
「み、三桜ちゃん……?」
「見ぃつけたぁ」
三桜は長いうしろ髪を片手で払うと、ぐっしょりと濡れた自分のジャケットを破り捨てる。
現れたラバー質のタンクトップは彼女の女性部分を強調するとともに、隆起した腹筋まで浮き上がらせていた。
あからさまに剥き出している殺気。
獲物を推し量る野生の視線。
理不尽なまでに広大な――猟域。
「眼球は洗い流すものじゃあない。刳り貫くものだ。矢神聖歌ぁ」
「どういうことなの……? 三桜ちゃん、どうしたの?」
「あまり純血一族を嘗めるなよ弱肉てめえ」
「……純血……一族……って」
「響は私様が回収する」
「なるほど。なるほどね。なるほどそういうことなのね、三桜ちゃん。貴女は――」
「餌に納得は無意味。弱肉強食はこの世の理。嘗めた餌は、即刻喰われるんだよ。来世ではよく覚えておくんだな」
バッ――と両手両腕を開いた三桜の指先から、スプリングでも仕込まれているかのように長い爪が飛び出した。
弱肉と見下す守野三桜に対し、矢神聖歌は――やはり笑う。
しかしいつものような笑いではない。
鋭くも座った冷淡な目と、普段なら見せはしない三日月形に歪んだ口から歯を覗かせた笑顔。それは三桜の言う通り。
嘗めに嘗めて嘗めきった、嘲笑だった。
「守野家なんて、初めて知りました。マイナーすぎるのかしら。弱小すぎるのかしら」
「……表情も行動も発言まで嘗めきってやがるな。てめえが白痴なだけだ」
「貴女が純血一族だったとは。そうだ、次の作品には貴女の血液を流し込むとしましょう。これはいい考え。これがいい考え」
聖歌は自分の左手親指を顔の前に立てて、その爪を噛んだ。
そのまま手を前に動かすが、爪は歯に挟まれたまま。
爪は剥がれ、指から離れ、爪と指の間には――ピン、と一本の細いワイヤーが伸びていた。
「貴女という材料。傀儡屋、矢神聖歌が頂戴しましょう」