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PUNICA【あったかい雨の降る夜】3

 改めて主張するが私は他人を完全には信用しない。

 番姉さんであろうと、だ。

 だから当然ながら三桜を信じきっているわけでもなく、その言動ひとつひとつに疑いを持っている。

 聖歌が墓土の臭いを纏っているから尾行しろと三桜は言った。それが真実かどうかはこれから確かめればよいことなのだが、私が尾行する必要はないのだ。

 三桜は、自分が純血一族の人間だからあまり出歩かない方が得策だという理由で私に行かせた。そりゃあ三桜の顔を知る者に遭遇したら面倒になるだろうとは思う。

 しかし三桜はそこまで迂闊な女だろうか?

 実のところ彼女が純血一族であるという事を理解しつつも実際この目で純血一族たる姿を見ていないわけだが、それは置いておくとして。純血一族のような裏世界を跋扈する人間が、尾行もまともにできないとは思えない。

 守野三桜という女が守野家の中でどんな地位に就いており、どれほどの実力を備えているかは知らない。それを踏まえても尾行くらいはできそうなものだ。

 ようするに三桜は私に行かせたい理由があると、私は推察している。

 私が外出したことで羽田立荘には三桜が一人だけ残ることになる。彼女は羽田立荘の中で何かをしようとしている。そんな予想も、大いに有り得るのだ。

 矢神聖歌と守野三桜。

 どちらも何かを腹に秘めている。その間で私が浮遊している状態だ。

 なぜなら私は今のところ二人の事情に興味がないからだ。二人が各々なにかを企んでいたとして、私に何か影響があるとは思えない。

 しかしながら三桜の方は純血一族の事情だろうと予測できるが、聖歌の方は全く以て予測できない。どちらかというと、私に影響を及ぼしかねない奇妙な綻びを出した聖歌の方が気になる。三桜には純血一族としての目的があるのに対し、聖歌は並折の住人であるということしかわからないのだ。

 いとも容易く羽田立荘を私達に提供した彼女。そんな親切な人が、並折に居るか? そう疑いを持っていた時に現れた一つの綻び。

 だから私は素直に三桜の言葉に従った。


 そして今――矢神聖歌はきのえと駅へ向かって歩いており、私はその後ろで気付かれぬよう距離を置いて歩いていた。

 赤い番傘は大きく、若干目立つ。激しい雨で音と視界と気配は紛らわせられるが、用心するべきだろう。


(……歩行速度が遅い)


 私は六月に聖歌に先導されて初めて羽田立へ向かった際、彼女の後ろと隣を歩いた。彼女の歩行速度は記憶している。


(尾行し辛い。いつでも後方を振り返られる速度だ)


 案の定、聖歌は道を曲がる際に高確率で後方に視線を送ってきた。

 後方だけではない。度々周囲を見回している。

 意識的にではなく不安感に因る無意識の挙動だろう。ただ買い物へ行くだけの人間がする挙動ではない。


(これは、クロかな)


 きのえと駅に着くと、彼女は慣れた足取りできっぷ売場へ赴き、きっぷを購入。

 ここで問題が発生した。

 きのえと駅は多くの路線が停車する駅だが、それほど大きな駅でもない。だから路面電車用の発券機は二台しか設置されていない。聖歌は電車を待つ間、改札口へ入らずにそのすぐ近くに位置取ってしまったのだ。

 これでは私がきっぷを買えない。

 こういう時は改札口に顔でも出して駅員から直接購入する方法もあるが、残念ながらきっぷ売り場は改札口のすぐ隣。聖歌の視界内にある。

 きっぷを買っての乗車は無理か。

 いや待て。そもそも並折を走る路面電車は一両だ。そこにばれることなく聖歌と同乗できるわけがない。

 私はタクシー乗り場へ向かった。

 ひのえと駅に先回りすればよいだけの話じゃないか。




  ◆  ◆  ◆




 羽田立荘の玄関に鍵を掛けた守野三桜は、矢神聖歌の部屋に居た。

 箪笥と化粧台、押し入れの中には畳んだ布団があるだけ。移り住んで一ヶ月とはいえ、飾らない質素な部屋だった。

 三桜は衣服の散らばった自分の部屋と比べて苦笑する。

 その中へ足を踏み入れ、まずは部屋の中心に立つ。

 周囲を見回す彼女の視力は繊維と繊維の隙間ですら確実に認識できるほどのものだ。

 繊維――そう。守野三桜は、天宮柘榴に教えた墓土の臭いとは別に、もう一つ矢神聖歌を怪しむ点を見つけていた。

 通常生活を送る上で繊維を認識したところで特に気にするものではない。しかし日常的にそういったものをも視認できてしまう三桜は、小さな奇異を容易に見つけてしまう。

 その奇異もまた、やはり矢神聖歌の身体に見られたものだった。

 それは――、


「あった。バイオレット……モノフィラメント。やっぱり医療用だったか」


 化粧台の引き出しから三桜が手に取ったものは、医療用の密封されたパッケージだった。

 モノフィラメント。それは手術の際に縫合用として用いられる糸である。織物や衣類、テニスラケットのガットまで様々な用途に使われるものだ。

 三桜はこれの切れた一本を、聖歌の衣服に見つけた。見つけたとしても怪しむ類の糸ではない。しかし――三桜は、それがすぐに医療用縫合糸だと気付いた。

 バイオレット。糸の色である。縫合の際に視認しやすくするため、大抵は色の付いた縫合糸を用いる。

 そして糸を構成する芯糸と側糸。その中に非吸収系のナイロンが用いられている事まで、感触と視覚だけで気付いた。

 ただしそれだけではまだ疑うまでに至らない。

 決め手となったのは、拾った糸の部分。三桜が拾った糸は単純にちぎれ落ちたもので、いわゆる三重結びという結び目があったのだ。

 モノフィラメントは拡張力はあるが、結節保持力に不安がある。外科ではそういった合成糸、特にナイロン糸を縫合糸に用いる際は結節の緩みを防ぐ為に三重で結ぶのだ。

 そこで三桜は注意深く聖歌を観察し続けた。

 するとやはり聖歌が度々モノフィラメントの欠片を衣服のどこかに付け、しかも日を追う毎にその頻度が増していることに気付いた。


 三桜は少し前に、一度さりげなく聖歌に「外科のある病院はどこか」と尋ねてみたことがある。

 病院の場所を教える返答はあったものの、「私も並折に来てからは医者にかかったことがありませんので」などという言葉も引き出した。

 更には一緒に風呂に入ろうと誘ってみたこともある。

 これは拒否され、天宮柘榴から冷たい視線を向けられた。「広い風呂なのだからいいじゃないか」と、ごねたのを三桜はよく覚えていた。


 そういった不可解な事情が重なり、ついに今日、聖歌の部屋を調べてみようなどと思い立ったわけである。


(縫合が必要なほどの怪我をしたとは思っていなかったが……これは……)


 引き出しを開けたまま、三桜は固まっていた。

 一つの引き出しいっぱいに医療用縫合糸のパッケージが入っいるとは、さすがに思わなかったからだ。


「聖歌。お前は一体なんなんだ……? 傷を負っていたとしても縫合糸なんていずれ不要になるものじゃないか」


 首を傾げて引き出しを閉じた三桜は、台の上に置いてあった写真立てに目を向けた。

 置いてはあるが、それは伏せられていて写真が見えない。

 三桜は手に取ってみた。


「ふむ。だいぶ前に撮ったものだな。持っている荷物からして家族旅行の写真かねえ。父親と、母親と。これが聖歌だね。それにしても随分古いな」


 写真は駅前で撮られたものだった。三人とも笑顔で身を寄せている。

 駅名は――『ひのえと駅』とあった。三人の背景には一体の像も立っている。これはきのえと駅前でも見た顔の無い子供の像とまったく同じものだ。

 きのえと駅だけでなく他の駅前にも同じものが建てられているのだろう。

 どうやら聖歌は昔、並折を訪れたことがあるようだ。


「ま、あいつの家庭に興味はないや。さて次は倉庫でも漁ってみるかね――」


 写真を置き、部屋から去ろうとしたところで――三桜は足を止めて少し舌で唇を舐め、「うん?」と声を漏らした。


「聖歌。たしか妹が居たはずだよな?」




  ◆  ◆  ◆




 ひのえと駅に路面電車が到着しても、聖歌は降りてこなかった。


 ひのえとは駅の正面にすぐ商店街の入り口があり、私は駅から出てくる乗客が見える場所で傘をさして立っていた。

 出てくる人は一人残らず確認したから、間違いない。聖歌はひのえとで降りなかったのだ。

 ここで降りなかったのなら、やはりつちのえとまで乗っていったという事だろうか。乗車賃はどこまで行こうと一律同額なので、聖歌がきっぷを買う時点ではどこへ行くのかわからなかったし。

 しかもこういう時に限ってタクシーが無い!

 すぐにつちのえと駅へ先回りしなければならないというのに!

 並折の路面電車は速度が思ったよりゆっくりなので急いでタクシーを捕まえれば間に合うと思う。私を乗せてここまで来たタクシーの運転手はひどく無愛想で、少し待っていてくれと言う間もなくさっさと清算して私を降ろして行っちまいやがった。万死に値する。

 このままひのえと駅に張り付いて、次の電車も待って聖歌が降りてこなければ、それはそれで彼女がひのえと駅に降りなかったという事実を確かめられたわけで十分なのだが。

 できれば彼女がどこへ向かったのかも確かめたい。


 雨天の中じっと待ち続けたからなのか、身体が冷える。

 特に脚。スカートは風通しが良すぎる……。

 肩を抱きながらタクシーを捕まえられそうな場所を探していると、駅の前に気になるものを見つけた。


(カオナシの像……! ひのえと駅にもあったんだ)


 しかしきのえと駅の物とは様子が違い、少し首を傾げる。

 それでもきのえと駅で見た顔の無い子供の像が、ここでも見られた。嬉しくなってもっと近くで見ようと移動しながら、どうして嬉しくならなければいけないのかと自分の感情に野次を飛ばした。

 確かに此処は初めてくる場所だし、知人も居ないし、それどころか通行人すら見当たらないし、雨は容赦なく降って気温をさがらせている。見覚えがあるだけの像に嬉しくなるくらい陰鬱になるのも無理はないだろう。


 孤独には慣れている。こんな孤独はむしろ楽しい。


 このくらいの寂しさで動揺するような私ではない。十年も私は独りだったのだ。薄暗い部屋で、眠り続ける番姉さんと鎖黒を守り続けた。あの孤独に比べたら他の孤独など些細なものだ。

 私はこの並折に来て、やっと自由を得られたのだ。寝起きするのも私の意思のまま。食事だって楽しい。何もしたくないと思えば何もしなくていい。

 私は天宮柘榴だ。もうグレナデンではない。

 長く続くとは思えないけれど、今はこの、私の意思で私が動ける状況を満喫したい。

 だから私の意思で招いた孤独は、喜んで受け入れよう。


「あれ? クロちゃんじゃないか!」


 像を眺めていた私は、掛けられた声に驚いて振り向いた。

 そこには透明のビニール傘を高々と掲げて手を振る明朗の姿があった。


「明朗っ?」

「奇遇だねクロちゃん! まさかひのえとで会うなんて!」


 おもわず顔が綻んでしまい、近付いてくる明朗に悟られまいと片手で覆う。


「うん、ちょっと用事があって。明朗は?」


 目を泳がせながら問うと、彼は「ふふん」と口の片端を持ち上げて得意げな笑みを見せた。今日の彼は缶バッヂがいくつも付いたニット帽を深く被っている。


「僕は結界寮の仕事中。つまり任務。ミッション!」

「へーそう。どんな?」

「僕に任されたのは人探しなんだけどね……。でもこれがまた大きな任務でね、危ないからひのえとの住人は屋外へ出ないように結界寮が勧告を出しているくらいなんだ」

「それは大掛かりね」

「だからクロちゃんも、早いとこ帰った方が良いよ。なにせ純血一族の当主なんて大物が潜んでいるんだ。鉢合ったりしたら一瞬で殺されちゃうよ!」


 純血一族の――当主?

 と、当主?

 それは、つまり、あの《式神十二式》と呼ばれる奴らのことか?


「純血一族の当主だなんて……一大事じゃないの」

「そう! だから処理しないといけないんだ」

「つまり、殺すって事?」

「そうなるね。戦闘狂の(そよぎ)さんは大張り切りさ」


 大張り切りって、そんな馬鹿な。

 以前明朗から聞いた話では、あの梵という女性はティンダロスの元戦闘員。無音の異名持ちだそうだが。

 それでも無謀の域を出ない。

 ティンダロスの猟犬は、純血一族と死使十三魔とでは質が異なる組織だ。

 たとえティンダロスの猟犬という暗殺組織で名を馳せていたとしても――あの組織に呪詛能力者は居ない。奴らは道具と技術を駆使する――人間なのだ。

 対する純血一族は、血に呪詛を宿し超常の力に磨きをかけた――化け物。


「呪詛能力者を相手に……大丈夫なの?」

「梵さんは強いからね、きっと大丈夫だよ。それに純血一族を相手にするのはこれが初めてじゃない。今までだって並折の調査に送られた純血一族の間者を、彼女と林檎(りんご)さんは何人も葬っている」


 対呪詛能力者戦闘には慣れている、ということか。

 いやしかし今回はそう簡単にいかないだろう。式神十二式――つまり当主が標的なんだろう?

 式神の力を他の純血一族と一緒にするべきではない。


 純血一族は、十三の家系が集まって成り立つ組織。

 そして純血一族は、《統一家系》と呼ばれる一つの家系によって束ねられている。つまり構成としては頂点に君臨する家系の下に、十二の家系が位置しているということだ。

 各家系には当主という長が存在する。

 実力主義の純血一族だ。長は年功序列で決まるわけがなく、やはり実力。

 各家系の、十二人の当主。

 統一家系を守護する十二の鬼神として、彼らは《式神十二式》と呼ばれている。

 その実力は計り知れず、新進気鋭の死使十三魔が、その組織名をそこからなぞったとも言われているほどだ。

 大物も大物。本拠地であるこの国でなければほとんど縁のないような、遥か高みの存在だ。

 死使十三魔の序列入りした者でさえ……太刀打ちできるかどうか……。

 それに死使十三魔は式神によって甚大な被害を被った過去だってある。


 例を挙げるなら――、

 私がグレナデンというコードネームで死使十三魔に居た頃。つまり序列四位、魔氷の直下部隊に在籍していた頃だ。

 死使十三魔は少数精鋭の組織とはいえ、序列入りした人間には様々な者が居る。魔氷こと番姉さんのように膨大な力を備えながらもあまり活発に動けない人や、動きたがらない人、行方すら掴めないような気分屋まで。とにかく異色の性格が揃っている。

 だから、手駒となる部隊を抱えている者もちらほら居るというわけだ。


 もうかれこれ七、八年前になるか。

 序列十二位に《魔盾》の異名を持つ者が居た。そいつは異常なまでの面倒くさがりで、個人の部隊作って任務をさせていた。

 その直下部隊が、式神に壊滅させられた事件があったのだ。しかも魔盾まで殺されてしまった。十二位の席には今は違う者が就いている。

 たしかその時の相手は……純血一族、九条家の当主だったと聞いている。

 死使十三魔の序列入りはヤワではない。少数精鋭と呼ばれているのだから。魔盾も一騎当千の実力者だったのだ。

 それを駆逐してしまった九条家の当主――式神一人の力は死使十三魔とて重要警戒対象。


「……ねえ明朗、あたしなんかが口を出すことじゃないかもしれないけど。もっと慎重になるべきよ。純血一族の当主がどれほど危険なのか。そのくらいあたしだって知ってる」


 油断すると、梵は命を落とすことになる。

 明朗は私の言葉に素直にうなずいた。


「わかっているさ。梵さん含め結界寮は、式神と呼ばれる彼らの危険性は熟知している。だからこそ、手負いの今を逃す手はないとも言える」

「手負い……? 手負いなの?」

「そう。毒爪家系、織神楽。その当主にして式神十二式の一角、織神楽響! 白毒雷(びゃくどくらい)なんて仇名で呼ばれる猛毒使いの男だ。万全の状態ならこちらも手出しを躊躇するけど、どうやらひどい傷を負った状態で並折に入り込んだらしい」

「ひどい傷って。それじゃあその、織神楽響という式神は、別に並折や結界寮を探ろうとしているわけじゃないのよね? ただ逃げているだけでしょ。どうして躍起になって殺そうと――」

「何を言ってるのさクロちゃん。並折を探ろうがそうでなかろうが、世界危険勢力の重要戦力だよ彼は。以前の話と今回の件は別物だよ。なにせ織神楽響は――うちの結界屋さんが並折に招いてあげたのだから」

「じゃあ式神をわざと並折に?」

「そういうこと。追っ手を付けられていたらしいから、先を越される前に結界屋さんが隔離したんだ。追っ手の人には悪いけど、これも並折の堅固さを世界に知らしめる良い機会ってわけ」


『純血一族の当主を並折が仕留めた』

 その事実は絶大な効果をもたらす宣伝となるだろう。

 死使十三魔も一層手を出し辛くなる。

 純血一族とて報復に出ようにも、未だ並折は謎に包まれた領域。しかも式神まで仕留められたとあっては報復どころか調査派遣すら踏み止まるようになる。

 並折は結界寮の――ティンダロスの領地としてこれまで以上に確固たる地盤を築いてしまうわけだ。


 織神楽響は、勢力同士の間合いを左右する、重要な立場にあるということか。

 そして結界屋が細かく情報を掴めていたように、織神楽響の負傷と逃走の報せは、既に出回っていると考えるのが妥当。

 ならば各勢力は、もうなんらかの行動に出ている筈。

 動き方は、わかりやすい。

 死使十三魔はいちはやく仕留めたいだろうし、純血一族はなんとしてでも生還させたいだろう。ティンダロスは先述の通り並折の地盤強化。


 ふうん。

 読めてきたぞ。


 追っ手を付けたのは死使十三魔で間違いないだろう。今は並折の結界――結界屋によって隔離されて失敗に終わりそうだが。


 そして純血一族が打った手は――そう。


 守野三桜だ。


 あいつは、この為に並折へ送られたのだ。

 ようやく三桜の目的が読めた。

 守野三桜は、織神楽響を回収し――生還させる為に、この並折へやってきたのだ。


 三桜のやつ、ここ最近落ち着かない様子だったのは響となかなか合流できないからだったのか。共有する合図でもあったのだろう。


 これは面白い。

 実に面白い。


 三桜にこの非常事態を教えてやるか、それとも黙っているかで、この重大局面が揺らぎかねないわけだ。

 このまま黙っておいて織神楽響が仕留められたなら、三桜は任務失敗。こんな重要な任務なんだ。彼女はただでは済まされないだろう。

 結界寮の正体ごと教えてやればすぐに彼女は羽田立荘から血相を変えて飛び出すだろうし、もしかしたら並折を血の海に変える大暴れを見せてくれるかもしれない。


 勢力のいざこざなんか興味はない。知ったこっちゃない。

 けれど。


 これは、面白いね。


「クロちゃん?」

 おっと、少し顔に出てたかな。

「ま、そういうことだから。用事が急ぎじゃないなら日を改めるべきだよ。羽田立荘まで送っていこうか?」

「御忠告ありがとう、大丈夫よ一人で帰れる。それにしても並折に入り込ませたのは結界寮なのに、見失ったの?」

「……まあ。あちらも一筋縄じゃいかないから。結界屋さんもひのえとで感知したのを最後に行方が掴めなくなったらしい」

「だからひのえとに明朗が居たってことね」

「僕だけじゃないよ、結界屋さんと管理人二人以外はみんな出動してる」


 まさに総動員というわけか。


「じゃあ、僕はもう行くよ。くれぐれも寄り道なんてしてはいけないよ。結界寮の住人だって危険な人が居るんだ」

「だろうね。気を付けるよ」

「……やっぱり、送っていこうか?」


 心から気を配ってくれているのだろう。明朗はじっと澄んだ目で私を見つめて話をし続けていた。私はもう一度「大丈夫だから」と言い、明朗の肩を叩く。思ったよりがっしりとした体格だった。

 渋々この場を去ろうと背を向けた彼に、私は聞きたい事があったのを思い出して「あ、ちょっと待って」と呼び止めた。

 首を傾げてこちらを振り返る明朗に、私はすぐ近くにあったカオナシの像を叩いて見せる。


「この像、きのえと駅の物と違うよね。顔の無い子供と――この、子供を正面から抱こうとしている女性の像」


 そう。きのえと駅は子供の像だけだったのだが、此処の像は二体居る。子供が両手を挙げて女性に抱きつこうとしている構図だ。しかも子供とは違い、女性には微笑む顔がちゃんとある。

 明朗は「ああ」と片手を腰に当てて傘を回した。


「そういえばそうだね、此処――ひのえと駅の像も他の駅の像も、元々は一体の子供だけだったんだよ。でも街の住人から、なんだか寂しそうだという意見が多く出たみたいでね。随分前に女性の像が加えられたそうだよ」

「随分前って、どのくらい?」

「かれこれ四十年くらい前になるんじゃないかなあ」


 女性の像もやたら古いと思ったが、そんなに昔からあったのか。

 カオナシの伝奇になぞって建てられたものだとしたらこの女性は不要だろうに……まあ、役所の人間も街の人間も、この像が建った由来について知らなかったということだろう。

 寂しそう――ねえ。

 顔の無い子供の像がどんな感情を抱いているのか、勝手に想像して勝手に蛇足を加えるとは。四十年前の人間も随分と身勝手なもんだ。


「色々とありがとう明朗。いつも気に掛けてくれて、感謝してるよ」

「へへ、構わないよ! また何か訊きたい事があったら訊いてよ。クロちゃんに並折を案内してあげたいし」

「うん。お願いする」

「じゃ、ばいばーい、また羽田立荘に顔を出すよー!」


 手を振り、雨などものともせず駆けてゆく彼の背中を、私もまた手を振りながら見つめ続けた。

 彼は本当によくしてくれる。結界寮の住人の中では、戦う力を唯一持たないと言っていたけれど。でもなんとなくわかる気がする。

 傍に居てくれると――って。

 何を考えているのか私は。

 冷静になってみるとまた顔が綻んでいるじゃないか!


(ああもう! どういうことだこれは!)


 ぱんぱん、と片手で頬を叩き、深呼吸。

 そのままカオナシと女性の像に触れてみた。


 この女性の像、一体誰なんだろう。

 髪がとても長い。若干屈んでいて、髪が地面に付いてしまいそうだ。

 しかも左右に分けられた前髪。線のように細い目。

 ゆったりとして、飾り気のないドレス。

 これではまるで――、


(番姉さんみたいだ……)


 よく似ている。

 そう考えるとこの女性像が番姉さんにしか思えなくなった。


「でもこの像は……後から付けられた物なのよね」


 カオナシの伝奇には――余計な物。


「綺麗な人だけど、あってはならない像なのよね」

「ならば破壊すれば良い」


(――っ?)


 突如として聞こえた、予期せぬ応答。

 私の独り言は、独り言ではなくなった。


「な、なに?」

 さすがに動揺を隠しきれず周囲を見回すが、私の近くに人影はない。それどころか私の視界内には人が完全に消えてしまっていた。

 人通りは少なかったが、それでもまばらに確認できた筈だ。明朗と話す間も人が皆無ということはなかった。

 それなのに、私の耳には至近距離で放っているであろう男の声が続いていた。


「不要な物、余計な物、邪魔な物、それらは総じて少数が多数の意に反して生み出した物。そういった物は排除されてしかるべきだ。ただし――」


 コツン。と、私の番傘が何かに当たった。

 傘をどけてみると、頭の上に足があった。

 白い――脚。

 白い――着物。

 白い――覆面。

 その男は雨に打たれながら女性像の上に座っていた。


「ただし――少数が多数に勝る場合は、その限りではない」

「誰だ!」


 私は咄嗟に像から離れ、傘を投げ捨てて身構えた。

 気配がなかった!

 私は弱いが、気配を感じ取ることには自信がある!

 これだけ人の居ない場所だ、微々たる気配でも容易に感じ取ることができた筈だ!

 それなのにこいつには……気付かなかった。

 只者じゃない。纏っている衣服は忍装束というやつか?


「ふむ。純血一族の者――と言って、貴様は理解できるか?」

「な……」


 最悪だ。


「できるようだな。良し。某は純血一族の織神楽家で当主を務める者。名を――」


 最悪だ。

 最悪だ最悪だ最悪だ。


「織神楽響という」

(し、式神……! 本物……!)


「娘。貴様に選択肢を与えてやろう」

「せ、選択肢?」


 膝が震え、男を見上げる首の筋肉が痙攣した。

 織神楽響。彼の両手は呪文の書かれた布で巻かれ、その片方は形が違う。おそらく片手を失っているのだろう。

 その呪文布の隙間から何かが漏れ出ているのが視認できる。緑色の湯気のような――呪詛によるものか。

 たしか織神楽家の能力は――毒爪。

 ならばあの漏れ出ているモノは、呪詛毒か。


「窒息死。失血死。溶解死。感染症及び寄生虫症。呼吸器結核。悪性新生物。老衰以外のありとあらゆる死因で殺してやろう。さあ、選択肢は多い。選べ」


 容赦がない。鉢合ったら希望なんて抱く間もないのは本当だ。

 さっさと私を殺してどこかへ去るつもりか。

 いや――違う。

 純血一族なら声も掛けずに殺す筈だ。

 それなのに、私に声を掛けた上に名乗った。

 つまり彼は、少なくとも私に何かを期待しているということだ。


「も、守野――」

「なに?」

「守野三桜という女性を……知っています」


 私は弱い存在だ。強い存在に狙われた時、媚びへつらうことで難を逃れようとする。

 女である事を利用できるものなら利用しただろうし、身代わりになるものがあったのなら迷うことなくその陰に隠れただろう。

 今回だって同じことだ。

 守野三桜が織神楽響を探していることを知っている私は、同時に織神楽響がこの並折に於いて協力者を得なければならない状況だということも知っている。

 よくしてくれる明朗の――結界寮の面々が、この二人の合流を良しとしないことも、わかっている。

 だけど弱者が強者の前に餌食として晒された時、弱者が助かるには――強者の期待に応えるしかないのだ。

 三桜は並折へ来た当初、私に言った。『私様の足手纏いになるな』と。

 つまり三桜もまた強者として弱者のこういった特性を知っているから、ああ言ったのだと思う。

 事実、私は誰かの足手纏いになることでしか自分の身を守れない。


 私は貴方を助けに来た同じ純血一族の女を知っています。情報を持っています。だから殺さないでください。

 そうやって三桜をダシに使い、結界寮側の足を引っ張り、織神楽響の脅威から逃れようとしているのだ。



「なんだと貴様」


 思った通り、織神楽響は動揺を見せた。

 しかし……その動揺の仕方は、私の予想していたものとは大きく違った。

 彼は片手で額をおさえ、呻きながら怒りに肩を震わせたのだ。


「ふざけおって……守野三桜だと……?」


 彼は女性像から飛び降り、私にずいと近寄ってきた。

 ぎらぎらとした鋭い眼光は近付けば近付くほど、私を束縛の呪いに引きずり込む。

 そのまま恐ろしい怒りを含んだ視線で私を見下ろし、毒の溢れる手で私の肩を掴んでくる。


――ジャッ。


 肩には掴まれた感覚ではなく、むしろ布が擦れるような感触があった。

 次に訪れたのは、ひやっと強く冷えた感覚。もちろん氷を当てられたわけではない。この感覚は、これから訪れる最悪の未来を知らせるものだ。

 私の表情を作る筋肉は、きっとこの溢れだす恐怖に追い付けていないだろう。


「ひ――」


 擦るように空気を吸い込み、身体が強張り耐える準備を行う。

 けれどそれらは全て中途半端で、心の準備とか身体の準備とか、そんなもの待ってはくれなかった。


「――ぃい゛っ!」


 目を見開いた私に襲いかかったのは、

 凄まじい――激痛だった。


 服の肩が一瞬で焼け消え、私の皮膚が異臭と共に溶けていくのがわかる。

 恐怖に理性を削がれ、痛みに悲鳴を上げた。


「い゛やああああああああああああ!」


 肺を一気に潰し、圧しだされた空気を全て叫び声に変えた。

 甲高く荒んだ私の悲鳴。

 とにかく意識を散らしたくて腕を抱いたまま身体をくの字に折り曲げ、地に頭や顔を擦りつけて叫ぶ。


「痛い痛い痛いいいいいいいいいいいい!」

「答えろ。守野三桜が、並折に居るのだな?」

「ひぃ、ひぃい゛ぎゃあああああああああ!」

「答えろ!」

「います……います……います……う゛うう……」

「チィ。神経毒の調節を誤ったか?」


 舌を打ちながら響はすぐに手を放した。

 私は患部を手で押さえ、その場にうずくまって嗚咽を漏らした。「ヒュー、ヒュー」と自分の掠れた呼吸が雨水の溜まった地面を何度も這う。

 触られたのは肩だけだというのに全身の皮を剥がれるような痛さに襲われた。見れば肩は赤黒い肉が剥き出しになっており、じゅくじゅくと体液が滲んでいる。

 よく見ると骨まで確認できてしまいそうで、それを見るのは怖くて目を背けた。


「ふ……うぅ……」


 痛い。ずっと痛いのが続いておさまらない。痛いよう。

 痛い、痛い、痛い。涙が止まらない。

 座り込んだ私の下腹部と脚が暖かい。ちくしょう、漏らしちゃってる。毛穴は開き脂汗が滝のように流れ雨に流され、粘つく唾液を垂れ流した上に膀胱まで空っぽにしている。

 最悪だ。聖歌を追いかけてこんな目に遭うなんて。

「っく、うう……ひっ、く……」

 下着が気持ち悪い。というかもはや全身水浸しだ。もういやだ。恥ずかしくて消えてしまいたい。


「おい」

「ふええ……」

「おい貴様」


 怒鳴り声に怯えて肩を震わせながら、男を見上げる。

 彼は呪文布をきつく巻き直しているところだった。


「ただの溶解液だ。浸食、感染する類の毒は出しておらぬ。喚くな、立て」

「うぅ……腕が……痛いよう」

「馬鹿者が。皮膚が少し焼けた程度だ。痛みは神経毒に因るもの。そう酷う無いわ」


 響が私の怪我した腕を乱暴に掴み、「ぎゃっ」と声が漏れた。

 しかし彼は緩めもせず力づくで立たせ、内股でふらつく私を片腕で抱いた。


「此処ではあの連中に見つかる。場所を変えねばならん」

「み、三桜に会わないの……?」

「場所も知っているのか?」


 私は感覚が麻痺してきた腕を撫で、涙を拭いながら頷く。

 すると彼は私の頭を撫でてきた。信じられなかった。

 こんなに酷い目に遭わされたというのに、あの式神が私の――木っ端元雑魚戦闘員の頭を撫でたという事に感動している自分が居て、なんだか納得がいかなかった。

 だって番姉さんは、一度もそんなことしてくれなかったから。偉い人は、そんなことしないと思っていたんだ。


「ふん。奴に頼るのは……癪だが……案内しろ」


 響は私を肩に担いたので、慌てて片手でスカートをおさえる。

 そのまま彼はぐん、と脚を曲げて踏ん張り――跳躍した。

 凄まじい身体能力。その筋力はもはや人間のものとは思い難く、一個体を兵器として認識せざるを得ない。これも呪詛で強化されたものだろう。


 しかし呪詛……果たしてそれは人間を超常の存在に昇華させるだけの都合の良いものなのだろうか。そうは思えない。

 呪詛とはこの世に未練を抱きながら死んだ者の残滓だ。そのほとんどが憎悪や怨恨に塗れている忌まわしいもの。なんらかの代償を伴うに違いない。

 同じ呪詛能力者の集まりである死使十三魔でも、呪詛を宿しているのは序列入りした者くらいだ。私がその効果と影響を知ることはない。

 どれだけ時を経ようとも全く変化を見せず美しい姿であり続ける番姉さんを見れば、呪詛を宿すという行為がどれほど常軌を逸しているのかくらいわかる。

 彼女もまた、相応の代償に苦しんで生きているのだから。


 織神楽響は女性像の頭に片足を乗せてもう一段跳躍。

 ひのえと駅の屋根に乗り、また跳躍。

 まるで身軽な猫のように、猫よりも軽々と、様々な建物の屋根を跳躍して進む。


「もう痛みは失せたろう」

「……まだ、痛い」


 彼は呆れるように舌を打ち、溜息を吐いた。


「軟弱な。まあいい。貴様、天宮柘榴といったな。あの守野の三桜嬢が貴様のような一般人を傍に置くとは、いささか信じられぬが。同時に興味深くもある」

「三桜は……」

「ん?」

「ただの、変態よ……」

「……」


 響は一瞬だけ言葉を失い、直後――「ふっ」と覆面の下で息をこぼした。


「変態、か。相違なし。某も同意だ」

「……?」

彼奴(きゃつ)のことだ、貴様もあの野生の獣じみた言動に困惑させられたろうて」


 矢神聖歌を尾行しろと頼まれて出掛けた雨の日。


 私は、とんでもない劇物を連れ帰ることになってしまった。


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