逢魔――おはようございます
「ご機嫌如何ですか? お久しぶりです」
「私達の事、覚えておいでですよね? 実に八万七千六百時間ぶりですけど!」
「いいえ。確固たる自信を持ちまして、初めまして」
【逢魔――おはようございます】
◆ ◆ ◆
部屋の壁に掛けられた幾つもの蝋燭が暗い部屋を仄かに照らす。それでも床に敷かれた絨毯の模様すらはっきりとしない明るさで、やはり暗い部屋という表現の域を出ない。
絨毯の中心にはクロスで覆われた正方形の机と、椅子が三つ。他に部屋の内装を説明するなら、それ以外の物が無いといったところか。
「土着の伝奇なんてものは千差万別なの。似通った点はあるかもしれないけれど、その土地その土地の歩んだ歴史に伴って改変ないし脚色付けは施されているでしょうね」
外界の音も届かないようなこの部屋には、三人の女が居た。
一つの椅子に座っているのは、髪が床に着いてしまいそうな程に長く伸ばした、肌の白い成人女性である。その髪は青く、蝋燭の明かりに怪しく照らし出されている。
彼女は、決して喋り慣れているとは思えない小声で話を続けた。
「怪談というものは昔の人の目撃談として記録されるもの。当然ね、奇怪に遭遇した者の証言でなければ嘘の作り話なのは解りきった事。子供とて噂話をする時は『友達の友達から――』『知り合いの従兄弟の話では――』と、知恵を絞って信憑性を高める前置きを加えるでしょう。ところが――今から話すのは、そういったものが一切無いの。なにせ登場するのは妖怪だけというもの」
純白の、飾りっ気の一切ないドレスが揺れ、彼女は一つ息を吐く。
そんな青髪の女性を、期待感溢れる真ん丸な眼で見つめる少女が二人。彼女の正面に座っている。
背丈も顔のつくりも、挙動すら、どこからどんな角度で見ても瓜二つの少女達だった。解り易い程に――双子。しかし立ち居振る舞いを見るに、彼女らが見た目ほど若くないのも明白。更にこの双子は、質素な青髪女性のドレス姿と違い、使用人が着用するようなエプロンドレスを着ていた。しかしながらこの二人は使用人という立場では無いのだから、おかしな話だ。
衣装趣味は多種多様なので置いておき、青髪女性の話に夢中である彼女らは興味津々だった。
「へえ、登場するのは妖怪だけですか」
「それはつまり、信憑性の有無はさほど重要ではない怪談である。という意思の表れでしょうか? 番様」
最初から作り話として、信用させようともしない事を前提に作られた怪談話とは。珍しいものだ。
青髪の女――番は、にこりと微笑み、続けた。
「題目は確か……『百奇夜行と、のっぺらぼう』だったかしら」
「のっぺらぼう。私、聞いた事があります。化け狸が顔のない人間を演じて人を驚かしたという――」
「違うよ――みそら。正確には貉。狸ではなくアナグマよ。そうですよね、番様?」
番はこくりと頷き、真ん中から二つに分けた長い青髪が揺れる。
「それも正しい。でもね――しずね、日本ではアナグマの事を狸と呼ぶ事も、狸の事をムジナと呼ぶ事もあるの。地域毎にね。では私の話では、ムジナとしましょう」
ね? と首を傾けて二人を見る。
しずねとみそらは互いに互いの顔を見合い、にっこり頷く。
「なにも『むかしむかし』から始まるわけではないから、どう話していいのか迷うけれど……ちょうど今、みそらが言った通り――のっぺらぼうというのはムジナが化けて顔の無い人間になり、驚かすという話が有名ね。しかしこの話にはムジナは出てこないの。それに初めは――カオナシと呼ばれていた。のっぺらぼうの呼び名が有名になった為に題目も変わったのでしょう」
「なら、本来のタイトルは『百奇夜行と、カオナシ』?」
みそらは丸い瞳をぱちぱちと瞬かせて問う。
「ええ。話の主人公は、そのカオナシ。カオナシ自身の体験談という形なの。カオナシはその名の通り、顔が無い。目も耳も鼻も口も、何も無い。何も無い故に、見る事も聞く事も嗅ぐ事も話す事もできない」
これにしずねが小さく笑った。
「体験談も何も、それじゃあどうにもならないですよ」
それには番も可笑しく思い、口元に手を当てて小さく笑った。
「いいところに気が付いたわね、しずね。そうね、有名なのっぺらぼうが話の中で当然のように喋っているのも、妙な話ね」
言われ、そういえば『こんな顔?』と言うお決まりの文句があるのをしずねは思い出した。
「この話が妙に現実味を帯びているのはその点。カオナシは一切喋らない。そう考えると何者かが化けたのではなく、そういう妖怪だったのでしょう。カオナシは器用な妖怪で、化粧をするのが上手だったらしいわ」
「化粧……」
ほう、と虚空に視線を浮かべたみそらが頬に手を当てる。こう聞けば彼女のように大抵は可愛らしい印象をカオナシに抱いてしまうだろう。そんなみそらを見て、しずねが姉の耳元へ「化粧は元来、魔力を宿らせる儀式として使われたものなのよ姉さん」と囁いていた。
「現代でも女性は魅惑の粧を塗って外出するけれど――貴女達はどうかしら?」
訊かれた双子はどちらも眉を吊り上げて目を大きく開き、「人並みには……」と小さく頷いた。
「ふふ。それで――カオナシも自分で自分の顔を描いていたの。ただしカオナシは六つしか部位を描くことができなかった。だから左右対称にくっついている目と耳と鼻だけを描いた」
――左右対称。
その単語を聞いて双子は若干、顔をしかめた。
自分達が並んで立ち、「左右対称だね」なんて言われる事は頻繁にあったし、自覚もしている。だから別にそういった理由でその単語が苦手というわけではない。
彼女達が、あまり好ましく思わない奴。そいつが、よく「左右対称なんて嫌いだ」と口にするからだ。左右対称という単語を聞く度にそいつを連想してしまい、彼女達は不快に思うのである。
ともかく、今の話とは関係の無い事なので彼女達も思考からそいつの醜い顔のイメージを追い出し、番の話を聞く至高の時間に集中し直すことにした。
「――どうしてカオナシが化粧をしていたのかというと、やはり外出する為だった。百奇夜行を見に行きたかったのよ」
「人間味のある妖怪ですね」
「なんだかその百奇夜行も祭囃子に囲まれていそうです」
語る番は笑い、先程から机の上に置いてあった紙とペンへ手を伸ばそうとした。が、ペンが見当たらない。いつの間にか――みそらが胸に抱き締めるようにして持っていたのだ。
番は「ありがとう」と礼を言って受け取った。
彼女は話を中断し、時折何かを思い出しながら紙に図を描いている。地図だろうか。
大きな丸――。彼女は「駅よ」と言い、紙の左上の隅に一つ書いた。更に丸の中に『きのえと』という名称を書く。
その右下に、少し小さめな丸。「これも」と言った。丸の中には『ひのえと』。
またその右下に、同じく丸。『つちのえと』。その右下にもまた丸を書いて『かのえと』。
見事に四つの駅は左上から右下へ一直線に並んでいる。
計四つの駅を描き、最後――紙の右から左へペンを一直線に走らせ、「川が一本」と言いながら『蝉乃川』と書いた。
あとは下方にぐにゃぐにゃと境界線のようなものを書き、斜線で塗りつぶす。これはおそらく海だろう。上方には山の範囲を書いている。
どうやらこの地図の街は、怪談の伝わる地元の地図のようだ。山と海を含んだ高低差のある広い場所らしい。
番は出来上がった簡単な地図の一番左上――『きのえと』を指しながら「ここからだったかな」と言い、そこから山や他の駅や川へと、すいすいペンを走らせた。
成程、夜を行く百奇はそのルートで、列を連ねて歩いたのか。と双子は頷くも、番が口元に手を当てながら「えっと……たぶんこんな感じ」と呟いた為、出鱈目にペンを走らせていた事が判明し二人は拍子抜けしたのだった。
番は最後に、百奇夜行の到達点を指し、妖怪カオナシの結末を述べた。
「カオナシは目と耳と鼻を手に入れ、百奇の仲間に入れてもらおうとした。しかしカオナシには口が無く、自分を名乗ることもできなければ、入れてほしいと訴えることもできなかったの」
カオナシは、ただ百奇夜行を見守るだけだったという。
「山を下り、海へと向かう列。百奇は夢中で行進する。故に、このまま海へ入り溺れてしまうことに誰も気付いていない。気付いたのはカオナシだけだった。しかし口が無いから注意を促す事ができなかった。結局――百奇夜行は海へと入り、みんな溺れ死んでしまった……」
語り終えた番は、疲れたのか胸に手を添えて大きく息を吐いた。
間髪入れずにみそらが質問を投げ掛けてくる。
「それが並折という例の街に伝わる怪談ですか。それで、カオナシはその後どこへ行ったのです?」
「わからない。もしも誰かがカオナシに気付いてあげたら、結末は変わっていたかもしれない。そして、今話したこの怪談自体も時代を経て多少なりとも変わってしまっているかもしれない。ちなみに、この物語を綴ったのがそのカオナシだというのだからおかしな話ね」
「よ、妖怪が綴った話?」
「文末には『俺、顔、無し』とあったそうよ」
双子はなんだか不気味な心持ちだった。妖怪カオナシ。そいつ自らが文章として残すに及んだ、どうしようもない孤独感とやるせなさに感情移入してしまったからなのだろうか。
そう。この怪談からは、悪意は感じられない。誰もどうしようもなかった為に迎えてしまった悲劇的な結末だ。
再び静けさを取り戻した部屋。
そんな中、しずねが少し迷うような素振りを見せた後、意を決したのか口を開いた。
「番様が、その、つまり――ええと」
しかし言葉がなかなか出てこない。
番はしずねの言いたい事を悟ったのか、問われる前に答えていた。
「そうね、きっと、作り話じゃないかもしれない。今もまだ――カオナシはどこかに居るんじゃないかしら」
しずねは申し訳なさそうに肩をすくめ、みそらは納得したように何度も頷いていた。
「妖怪は決して幻想じゃないわ。事実、貴女達の目の前に居るわけですもの――」
番はインクの凍ってしまったペンを人差し指で撫でるように転がす。
「――雪女が。ね?」