王宮魔導士のアーデルト
ミーナの恋が静かに散っていったその日の、少しあとのことだった。
また、鈴が鳴った。
からん——。
さっきより、少しだけ低い音。
魔女は、指先を止める。
「……今日は、もう誰も来ないと思ってたのに」
胸の奥には、まだミーナの“空の恋”が残っている。
青い余韻が、かすかに心を揺らしていた。
扉に近づき、そっと開ける。
木漏れ日の中に立っていたのは、黒いローブの男だった。
「よう」
短い挨拶。
落ち着いた声。
鋭いのに、どこか疲れた目。
王宮魔導士――アーデルト。
「……あなた、ね」
魔女はほんの一瞬だけ眉をひそめる。
来てほしくないわけじゃない。
でも、来てほしいと願ったこともない。
それでも、彼はときどき、何の前触れもなく現れる。
「今日は……仕事?」
魔女がそう聞くと、アーデルトは軽く首を振った。
「仕事“だけ”というわけでもないが、用はある」
彼は部屋の中を一度ぐるりと見渡し、
テーブルの上の、洗ったばかりの空色のカップに視線をとめた。
その目が、わずかに細くなる。
「……最近、また依頼を受けただろう」
アーデルトは靴を脱ぎ、いつもの椅子に腰を下ろす。
アーデルトは鼻先で、かすかな匂いを拾う。
「……空の匂いがするな」
魔女の指がぴくっと動いた。
「空?」
「晴れた日の、朝の空だ。
焼きたてのパンと、石畳の匂い。……少しだけ、雨の前」
魔女は観念したように溜め息をついた。
「……パン屋の娘の恋よ。忘れな草みたいな、いい色だったわ」
「ふむ」
アーデルトはそれ以上追及しないで、机に肘をついた。
一拍置いてから、ふと魔女の顔を見つめる。
「お前の顔色が悪い」
「いつもこんなものよ」
「違う」
その言い方が、あまりにも即答だったので、
魔女は思わず視線をそらした。
アーデルトは静かに言う。
「また飲んだだろう」
「……仕事よ」
魔女はそっけなく返す。
アーデルトは少しだけ眉を寄せ、棚のほうを見た。
並んだ小瓶。
底にこびりついた淡いピンクや、かすかな色の残り。
そして、洗ったばかりのカップ。
「……増えてきたな」
「なにが?」
魔女はわざと知らないふりをした。
アーデルトは目を細めて、ゆっくり答える。
「“飲んだ恋”の数だ」
「依頼を受けた分だけ、ちゃんと処理してるだけよ」
「処理、ね」
アーデルトは組んだ指の中で、小さく魔力を揺らした。
「飲みすぎれば、お前の胸が先に壊れる」
魔女は、笑ってごまかそうとした。
「そんな簡単に壊れたりしないわよ。
慣れてるんだから」
「慣れていいものじゃない」
アーデルトの返事は、いつもより少しだけ強かった。
魔女は、むっとして唇を尖らせる。
「あなたこそ、よく来るじゃない。そんなに暇なの? 王宮魔導士が」
「暇ではない」
「でしょうね」
アーデルトは立ち上がると、
洗い終わった空色のカップを手に取り、
底に残ったほんのわずかな粉の気配を確かめた。
「これは、悪くない恋だ。きれいに終わる」
「そうね。あの子、ちゃんと自分で決めてたから」
「だが——」
アーデルトはカップから目を離し、魔女をまっすぐ見る。
「飲んだのは、お前だ」
魔女は胸を押さえた。
さっきまで落ち着いていた“彼女の痛み”が、
彼に見つめられた途端、またざわりと騒ぎ出す。
「……だから何よ」
「お前は、自分の恋を知らない」
アーデルトはぽつりと落とした。
「え……?」
「他人の恋ばかり飲んでいると、
どこまでが人のもので、どこからが自分の痛みなのか、
わからなくなる」
魔女は笑ってみせた。
「大丈夫よ。私、誰にも恋なんてしてないもの」
強がるみたいに言ったつもりだったのに、
自分の声が、思ったより小さくて、魔女は少しだけむっとした。
アーデルトはすっと手を伸ばした。
魔女の胸元の、少し手前で、指先を止める。
触れてはいないのに、そこだけ空気がぴんと張り詰めた。
「……やめてよ」
魔女は思わず一歩、後ずさる。
「胸のあたりに、魔力を流すなって言ったでしょう。くすぐったいもの」
「くすぐったい程度なら、まだ軽傷だ」
アーデルトは淡々と言いながらも、指先からそっと魔力を流した。
ほんのわずか。
表面を撫でるくらいの、弱い探り。
魔女の胸の奥で、いくつもの“色”が微かにゆれた。
淡いピンク。
にごった赤。
薄い灰色。
そして、まだ消えきらない、青い空色。
アーデルトは目を細める。
「……やはり、溜まりすぎている」
「やめてってば」
魔女はぱしっと、彼の手を払いのけた。
触れていないのに、払いたくなる距離だった。
恋の芽は、うちの家系でしか見れないはずだが、魔力の色は見えているようだ。
「気をつけろよ」
アーデルトは、心配げに魔女を見つめた。
その目は、魔女をまっすぐに見ていて、言葉に偽りがないことがちゃんとわかった。
アーデルトは、よく魔女の様子を観察しに来る。
おそらく、罪悪感なのだろう。
彼の恋を飲んでから、私の胸の一番奥の赤い魔力がずっと消えないことは、彼も知っているはずだから。




