魔女のお仕事
森の入口で、鈴のような声がした。
魔女が扉を開けると、 ラグルが、ちいさな少女を背に隠すように立っていた。
「おう、連れてきたぞ。迷ったら厄介だからな」
魔女は片眉を上げる。
「珍しいわね。あなたが道案内なんて」
ラグルは頭をかきながら娘の背を軽く押した。
「こいつ、パン屋の娘でな。俺が、商売に訪れたら、店の中が音沙汰なくてさ。なんでも数日店を閉めてるって聞いて。心配で家を訪れたら、死にそうなのがでてきてな。」
パン屋の娘は、赤い目のまま深く頭を下げた。 細い肩が震えている。 声はかすれ、今にも崩れそうだった。
魔女はそっと頷いた。
「入って」
ラグルは「任せるぞ」と短く言って帰っていった。
魔女はカップを並べ、娘に向かい合う。
彼女からは、パンの甘い匂いと、塩の匂いが混ざっていた。
健康そうに焼けた小麦の肌から、きっと純粋な恋をしてきたんだろうと思った。
「名前は?」
「ミーナ……です」
「ミーナ。あなたの恋を、終わらせたいのね?」
ミーナは唇を噛んで頷いた。
「……振られたんです。 幼馴染で10年以上付き合っていたんです。ずっと、この先も一緒に人生を歩んでいくんだろうって思ってたから。」
魔女は、彼女の胸のあたりを見る。
彼女が小さく呼吸するたびに、かすかに光るものが揺れた。
忘れな草
本当に澄んだ青色だった。
その小さな恋は、見るだけで胸がじんと温かくなる色をしていた。
「……ミーナ」
娘はびくりと肩を震わせた。
魔女は、優しいけれど決して誤魔化さない声で言った。
「ひとつ、確認するわ。あなたは 本当に その恋を終わらせたいの?」
ミーナの喉が動く。
すぐには答えられない。
恋の花は、摘めば戻らない。
魔女は静かに続けた。
「あなたが自分で決めたのなら、私はその手伝いをする。
でも、逃げたいだけの気持ちで摘むなら……後悔してしまうわ」
ミーナは唇を噛み、涙をぽとりと落とした。
「……逃げてるの、わたし。わかってます……でも、でも、彼は……もう私を見てくれない」
声が震えた。
「十年、一緒にいて……でも、彼だけが先に大人になったみたいで。
置いていかれたみたいで。それでも、まだ好きで……苦しいのが……もう耐えられなくて……」
魔女はミーナの手を握った。
その手は冷たかった。
「あなたの恋は、澄んだ空みたいに優しいくてきれいな花ね。こんなきれいな花、あなた自身でしか咲かせられなかったわ」
少し間を置き、魔女は静かに聞いた。
「それでも――終わらせたいのね?」
ミーナは、涙を流しながらも頷いた。
「……はい。このままじゃ、パンも焼けない。……あの人を好きなままじゃ、前に進めないんです」
「後悔しないのなら、いいわ。」
魔女はゆっくり呼吸を落ち着け、つぼみを摘み取る。
それは、本当に軽かった。
空気よりも、涙よりも軽い。
「……大切に、育ててきた恋だったのね」
魔女は、小さく震える彼女を見る。
「はい。これで終わりよ。」
恋の花は、一般人には見えない。
「でも、胸は痛いままで、、」
魔女は、その摘んだ花を目を細めて見る。
「大丈夫よ。明日には、きっとあなたの恋はなくなっているわ。彼のことなんて、考えなくなれる。」
魔女は、棚にある瓶から、薄く輝く蛍を取り出した。
そして、魔法の糸で蛍の体に結び付ける。
「こいつが、あなたを町まで案内してくれるわ」
娘は、感謝の言葉を言い、この小屋を後にした。
ーーーーーー
ミーナが帰ったあと、小屋はようやく元の静けさを取り戻した。
魔女は扉を閉めると、背中でそっと壁にもたれた。
「……空みたいな恋、なんて。とっても自由で淡くて、夏みたいな恋をしてきたんだろうな」
ふわり、と淡い光が揺れる。
触れてしまえば壊れてしまいそうなほど、繊細で、儚くて、どこまでも優しい青。
「後悔したらいいわね。その男。」
魔女は、その純粋な青をすり鉢に入れる。
忘れな草のような恋のつぼみ。
ミーナの胸から抜き取ったとき、
魔女の胸にも一瞬だけ青い光が宿った気がした。
優しくて、あたたかくて、そして傷つきやすい恋。
魔女は息を整え、ゆっくりすり鉢の中の花をつぶしはじめる。
かり、かり……
粉になる瞬間、
ふわりと甘い風が小屋の中を巡った。
ミーナの恋の記憶が、かすかに流れ込む。
――一緒に焼いたパンの匂い
――どんな日でも手を離さなかった少年の手
――初めて「好き」と言われた夕暮れ
――そして、最後に背を向けられた朝
魔女は胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じた。
「…空の味ね。晴れて、澄んでいて……ほんの少しだけ、雨の前の匂いがする」
粉をカップに落とすと、
それはお湯の中で淡い水色に溶けていく。
まるで空をひとしずく閉じ込めたような色。
青く揺れるカップを両手でそっと包んだ。
「……ミーナ。あなたの恋、いただくわ」
そして、静かに口をつけた。
一口。
胸の奥に、ぽうっと灯りがともるような優しさ。
誰かを好きになったときにだけ生まれる、初めての幸福感。
魔女は目を閉じた。
「……やっぱり、きれいね……あなたの恋は」
五分後。
優しい温度は薄れ、
代わりに胸の奥がざわざわと揺れ始めた。
淡いグレーの空が、雲に覆われるように。
魔女は胸を押さえ、苦笑した。
「うん……これは、苦しいわ」
胸がドクンと脈打つ。
その拍動は、魔女自身のものではなく――
ミーナの恋が最後に見せた“ざわめき”だった。
そう、別れを告げられた時の、空虚であの残酷な音。
「……そうね。恋って、だいたい最後はこうなるのよね」
そして急に胸の奥がきゅうっと縮んだ。
それはミーナの恋の痛みが散る最後の瞬間に、魔女へと託した“本音”だった。
——後悔すればいい。
——少しだけ先に大人になったのかもしれない。
——外の世界を見て、私を置いていったのかもしれない。
——でもね。
——本当に大事なものって、手に入りにくいのよ。
魔女はその声を“味”として受け取った。
苦くて、深くて、青い空が一瞬だけ曇るような痛みだった。
魔女は胸を押さえ、静かに息を吐いた。
「……ミーナ。あなた、思っていたよりずっと、強い子なのね」
その言葉は、ミーナには届かない。
けれど魔女だけが知った“彼女の本音”は、確かに魔女の胸に残った。
「いい恋だったわ。
飲む側が、少しだけ救われるくらいには」
そして、窓越しに見える空を眺めて呟いた。
「ねぇミーナ……明日、きっと呼吸がしやすくなるわよ。
あなたの胸の痛みは、今夜ここで――ちゃんと散ったから」




