恋の芽を摘む魔女
森は、心地の良い音が響いている。
鳥の声と、風の音と、葉擦れと少しの動物の気配。
魔女は朝の森を歩いていた。
薬草を摘むための小さな籠を腕に下げ、 足元の根や苔だけを淡々と確かめながら。
「これは、いい根ね。使えそう」
独り言のように呟いて、その根を刈り取る。
小屋に戻る頃、 東の空はすっかり明るくなっていた。
苔むした屋根と、少し傾いた煙突。 扉の前には、誰の足跡もない。
今日も、訪ねてくる人はいないかもしれない——魔女はそう思う。
けれど、扉の上に吊るされた鈴だけは、 いつ鳴らされてもいいように、静かに揺れていた。
普段の魔女は、人と関わらない。 街にも滅多に降りない。 祭りにも行かないし、友だちもいない。
でも——依頼は絶えない。
“森の奥に、なんでも叶える魔女がいる”
魔女の存在は、古くからこの森の近辺では知れ渡っていた。
代々、この家系は、魔女の血筋。
扉の上に吊るしてある鈴が鳴った。
からん、と、乾いた金属の音。 魔女は顔を上げる。
「……早いわね。今日は来ないかと思ってたのに」
扉を開けて入ってきたのは、 背の曲がった中年の商人だった。 擦り切れた帽子。 よく磨かれた靴。 目元だけが妙に鋭い。
「やあ、嬢ちゃん。今日も良い森の香りだねぇ」
「お世辞はいいわ、ラグル。どうせまた高く売りつけに来たんでしょう」
名前はラグル。
森の外れから定期的にやってくる行商人。 このあたりで魔女の小屋の場所を正確に知っている人間は、 彼くらいのものだった。
ラグルは肩をすくめて笑う。
「いやぁ、そりゃ商売だからね。 森までの運搬料ってやつさ。危険手当も込みで」
彼は手押し車から荷を下ろしながら続ける。
「塩に小麦粉、干し肉、ランプの油。 それから……新しいカップなんかどうだい? 前の、ひび入ってただろう」
「よく見てるわね」
魔女は少し呆れたように目を細める。 ラグルはニヤリと笑った。
「そりゃ、常連様だからな。 森の魔女様ほどの上客、ほかにゃいないさ。 なんたって——お金だけは、たっぷり持ってる」
魔女はため息をつきながら、 それでも荷物をひとつひとつ確認していく。 値段は、やっぱり高い。 街で買うなら、1/10で済むだろう。
でも魔女は、文句を言わない。 街に下りる気力も、 人混みに耐える気も、もう残っていない。
森に籠もっている代わりに、 ぼったくりの値段を払い続けているだけだ。
代わりに—— ラグルは少しだけ、世間話を持ってきてくれる。
「で? 最近の依頼はどんな感じだい?」
いつものように、 荷物の整理がひと段落した頃に、 ラグルは何気なく尋ねる。 魔女は椅子に座り直し、 少しだけ視線を宙に漂わせた。
「そうね……相変わらず、恋を消す魔法が多いわね」
「恋?」
「片想いを諦めたい人。 別れた相手を忘れたい人。 夫がいるのに、違う人を好きになってしまった人」
魔女は指を一本一本折りながら、淡々と言った。
「不思議なものよね。 私みたいに、人とほとんど関わらない人間が—— 一番、恋の終わりに立ち会ってるなんて」
「へぇ……物好きが多いねぇ、世の中は」
魔女は首を横に振る。
「物好きなんかじゃないわ。 みんな、本気で苦しんでる」
その目は、森の奥のどこかを見つめていた。
「で、その“恋の魔法”ってのは、どうやってやるんだい?」
魔女は少しだけ口元をゆるめた。
「教えても、ラグルにはできないわよ」
「そりゃそうだろうけどさ。興味くらいはあるだろ?」
魔女は棚の方へ視線を向ける。 そこには、 さっき森で見たものと似た――目には見えない何かが、 ぼんやりと漂っていた。
「……恋の芽はね」 魔女は静かに言った。
「私の一族にしか見えないの」
ラグルの目が、わずかに丸くなる。
「芽?」
「ええ。人の胸の中に、ふと生えるの。 自分でも気づかないうちに。 誰かを見つめているうちに。 名前もつけていないうちに」
魔女は胸のあたりを指でなぞる。
「それが大きくなって、 つぼみになって、花になる。 それが、恋」
ラグルは妙な顔をした。
「……人の心の中に、花が咲くってわけか」
「比喩じゃないわ。本当に咲くのよ。 ただ、人間には見えないだけ」
魔女は目を細めた。
「だから、摘むことができるのも—— この目を持った一族だけ」
ラグルはしばらく黙っていた。 そして、ぽつりと呟く。
「……変な商売だな」
魔女は少し笑った。
「そうね。 世界でいちばん、恋と縁のない女が—— 世界でいちばん、恋の終わりに関わってるんだから」
奇妙なバランスだ、と自分でも思う。
誰にも恋をしたことがない。 誰かに想われた記憶も、たぶんない。
それなのに。 人の恋の芽を摘み、 花を粉にし、 湯に溶かして飲む。
「摘んだら恋が終わるってのかい?魔女らしいかなり罪深い行いをしてるんだね」
魔女は、眉をひそめる。
「自覚はあるわよ。でも、本人が望んでるんだから。摘んだ後に、煎じて飲むんだけどね。」
「お前さん……そんな危ないもん、人の代わりに飲んで大丈夫なのかい」
魔女は肩をすくめた。
「平気よ。慣れてるから」
魔女はそう言って、 窓の外の森を見た。
目に見えるものより、 目に見えないほうが、 ずっと重くて、厄介で、愛おしい。
魔女の一族だけに与えられた、 厄介な体質だった。
「ねぇ。あなた顔が広いでしょう?もし、恋につらそうにしている人がいたら、この話をしてあげて」
魔女は、ふと笑う。
「魔女の貴重な秘密を教えてあげたんだから。まあ、知っている人はしってるんだけど。」
交換条件というように、魔女は、こう話す。
「とても、本当にとても苦しんでいる人の芽ほど、官能なものはないんだから」
ラグルが帰ったあとの静かな小屋。
魔女は棚に手を伸ばし、
透明な小瓶をひとつひとつ並べ直す。
瓶の底には、
淡いピンク色の粉の名残。
魔女は指先でそっと撫でる。
「……結構、少なくなったわね」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
棚に残った小瓶の数は、
魔女が引き受けた“恋の終わり”の数。
瓶が減るということは、
魔女の胸に飲み込まれた恋が増えるということ。




