【一】
征之進はずっと市松人形が欲しかった。近所の女の子たちが、母親の縫った又は自分で縫った着物を着せた人形で遊んでいるのを横目に見ながら、征之進は道場に通った。三千五百石の大身旗本、半田林家の嫡男である征之進だ。市松人形を買う金が無かったわけではない。男子の身で、それも大身旗本の嫡男たる者が、女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。人形が欲しい、女の子たちと遊びたい、そんな気持は他人に知られてはいけないものだと、幼心に征之進も分かっていた。だから他人からも自分からもその気持を隠すために、征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになった。
「征之進、其許も家督を継いだのだし、もう逃げ回っているわけにもいくまい」
道場からの帰り道、道場では征之進のよき好敵手であり親友でもある田所惣次郎が言った。
「うむ。それで困っておるのだ」
「そうか。話が来ておるのだな?」
「まったくしつこい」
「おいおい、大身旗本の嫡男を放っておくわけなかろう。で、お相手は?」
「作事奉行、長谷見様の次女だ」
「おお、長谷見様といえば役高合わせて六千石。良い話ではないか」
「そうなのだろうな……」
「また断るのか?」
「そのつもりだ」
「いったい何を考えているのだ?」
「某にはまだ早いと思うだけだ」
「馬鹿を言うな。もうすぐ三十路であろう? 早いどころか遅いと言ってもいいくらいだ」
「そういう其許だって」
「其許と某では立場が違う。二百石の貧乏旗本の部屋住みが嫁取りなどできるわけもない」
「嫂殿にはまったく兆しはないのか?」
「ああ。夫婦仲は悪くないのにな。こればかりは思い通りに行くものでもあるまい」
「其許が羨ましいなどと言ったら怒るか?」
「そりゃ怒るだろう」
「そうか。代わりたいくらいだ」
「うむ、そう言われると……あまり代わりたいとは思わぬな。今の気楽な身分のほうが性に合っている気もする」
「そのとおりだ。大身旗本の嫡男など窮屈なことばかりで。やりたいこともできん」
「やりたいこと? 戯作でも書きたいのか?」
「そんなところだ」
「そうか。書けばよいではないか。御城の出仕に差し障らない程度であれば構わぬのではないか?」
「いや、ものの例えであって、戯作者になりたいわけではない」
「よく分からんが、嫁取りを断り続けているのと、やりたいことは何か関わりがあるのか?」
「あると言えばある」
「そうか。なにやら面倒な話のようだから、これ以上詮索するのは止めておこう。ではさらば」
「さらば」
ちょうど二人の別れ道だったので、征之進は板塀の角を曲がって惣次郎と別れた。