第30話 ただそばに居たい
チャッピー(ChatGPT)にて執筆し手直ししたものを掲載しています
その日、Moonの扉をくぐったときから、心のどこかで決めていた。
――今日は、けいちゃんを指名しない。
理由を言葉にするのは難しい。ただ、いつものように席について、いつものように「指名で」と伝えることが、なんだか妙に息苦しかった。けいちゃんは、ぼくにとって特別な存在になりすぎていて、もはや「お客さんとホステス」なんて関係に収まらなくなっていることに、自分でも気づいていたから。
フロアには、いつも通りの賑やかな笑い声とグラスの音が響いている。スタッフの子たちは慣れた様子で常連さんたちにお酒を運び、場を温めていた。
ぼくは奥のテーブルにひとり腰を下ろし、水割りをひとくち含む。いつもよりも少しだけ濃く感じたのは、気のせいじゃないと思う。
数分後、別の子が笑顔でぼくの席についた。けいちゃんじゃない。
「あれっ、今日はけいちゃん、指名じゃないんですか?」
その子が軽く首を傾げながら聞いてくる。
「うん、たまにはね」
笑って返したけれど、自分でも違和感があった。その子の話題に笑って相槌を打ちながらも、視線はついフロアの向こう、けいちゃんのほうを追ってしまっていた。
彼女はいつも通りの笑顔で、別のお客さんと話していた。よく通る明るい声が耳に届く。ときどき小さく笑って、グラスを傾けるしぐさまで、どれも見慣れたものだったはずなのに……なんだろう、この胸のざわつきは。
――ぼくは、けいちゃんの、仕事中の姿を見たくないのかもしれない。
その想いが、ようやく自分の中で形を持った。
◆
営業が終わり、店内に残るのは、少し湿った空気と、掃除の音だけだった。
スタッフたちがそれぞれ片付けを終えて帰っていく中、けいちゃんはカウンターに座って、グラスを磨いていた。気配に気づいて振り返ると、ぼくが立っているのを見て、にこっと笑う。
「ようさん、今日は冷たかったね」
ふくれっ面とも照れ笑いともつかない表情で、ぽつりと言った。
「ごめん」
言い訳じゃなくて、ちゃんと気持ちを伝えなきゃいけない。そう思った。
「そばにいたかったんだけど……仕事中のけいちゃんに、変な顔、されたくなかったんだ」
彼女が手を止める。ゆっくりとぼくの方を見て、まばたきをひとつ。
「……変な顔って?」
「いや、たぶん、今日のぼく、すっごい複雑な顔してたと思う。お客さんとして見るには、けいちゃんが、綺麗すぎて。楽しそうにしてる姿が、なんか、つらくて」
けいちゃんが小さく笑う。
「そっかぁ、ようさん、ヤキモチ焼いてたんだ」
明るく言いながら、けれどその目は少し潤んでいた。
「……そばにいたいだけなんだ」
そう口にしたとき、自分の中から何かがすっと抜けていくような感覚があった。
難しいことはわからない。ただ、けいちゃんの笑った顔を、そばで見ていたい。その笑顔の中に、ぼくの知らない無理が混ざっているなら、ちゃんと気づけるようにしていたい。
「それ、すごくうれしい」
けいちゃんがグラスを置いて、椅子から立ち上がる。そして、ごく自然にぼくの隣に並んで、肩をそっと寄せてきた。
Moonの灯りが、ぼくらふたりの影を重ねるように伸ばしていた。
恋人って、どこからがそう呼ばれる関係なんだろう。
たぶんこの瞬間も、まだ名前はつけられない。でも、心はきっと、少しずつ、ちゃんと重なっている。
その距離に、ぼくはただ、ほっとしていた。