残照の島
海風が頬を撫でるたび、戸川庄司は目を細めた。82歳の彼にとって、この風はかつての喧騒を運んでくる使者のようだった。島の港に響き合っていた船の汽笛、網を引き上げる漁師たちの笑い声、そして市場を埋め尽くす魚の匂い――それらは遠い記憶となり、今は静寂だけが島を支配している。
庄司の家は港を見下ろす高台にあった。木造の小さな家は、長い年月を経て軋む音を立て、まるで彼自身の老いた体を映しているようだった。妻の美代子が亡くなってから15年。彼女が愛した庭のツツジは今も咲き続けているが、それを愛でる相手はいない。子供たちは島を出て、それぞれ東京と大阪で家庭を築いた。孫たちの写真が届くたび、庄司は目を細めて笑うが、その笑顔はどこか寂しさを湛えている。
かつて、この島は漁業で栄えていた。庄司も若い頃は船に乗り、夜通し海と格闘したものだ。仲間たちと酒を酌み交わし、未来を語り合った夜は数えきれなかった。だが、時代が変わり、魚は減り、若者は島を去った。友人の一人は本土の老人ホームに移り、もう一人は去年、静かに息を引き取った。庄司は最後の漁師の一人として、この島に取り残された。
朝、庄司は決まって港まで歩く。杖をつきながら、ゆっくりと坂を下りていく。港にはもう船はない。ただ、古びた桟橋が波に揺れ、時折カモメが鳴くだけだ。彼は桟橋の端に腰を下ろし、海を見つめる。そこには、美代子と初めて出会った日の記憶があった。彼女は魚籠を手に笑いながら近づいてきて、「庄司さん、今日の獲物は上等ね」と声をかけた。あの笑顔が、今でも庄司の胸を温かくする。
昼下がり、家に戻った庄司は縁側に座り、古いアルバムを開く。そこには家族や友人の笑顔が詰まっていた。息子が初めて魚を釣り上げた日の写真、娘が島の祭りで踊る姿、友人の健太と一緒に撮った船上の写真。ページをめくるたび、彼の目には涙が浮かぶ。だが、それは悲しみだけではない。過ぎ去った日々への感謝と、愛おしさが混じり合った涙だった。
夕暮れ時、庄司はラジオをつける。島に残る数少ない習慣だ。流れる演歌のメロディーが、彼の孤独を優しく包み込む。窓の外では、夕陽が海を赤く染め、まるで島全体が最後の輝きを放っているようだった。庄司は目を閉じ、こう思う。「俺の人生も、こんな残照みたいだな。美しくて、儚い。」
夜が訪れ、庄司は布団に横になる。夢の中では、美代子が笑い、子供たちが走り回り、友人が網を手に叫んでいる。彼はそこで再び生きる。現実では孤独でも、記憶の中では決して一人ではない。
島は静かに眠りにつき、庄司の呼吸も穏やかになる。海風だけが、彼の小さな家をそっと包み込んでいた。