『破天のディベルバイス』第10話 来るべき明日②
* * *
ヨルゲン、テン、ウェーバーの三人の先輩が去って行き、暫らくすると、牧草地の向こうの山から煙が上がり始めた。街の火葬場は水没に巻き込まれて使えない為、山の焼却炉が使われたらしい。
団地に残された僕たちは、それを憂鬱な気持ちで眺めながら、病室の消毒を行う事になった。最初にここでオセス患者が出た時、自警団の人々が持って来たような空間消毒用の噴霧器などはないので、アルコールで湿らせた雑巾を使って部屋中を隈なく磨くという作業だ。アンジュ先輩により、この部屋にあったものは全て焼却処分するように、と指示が出された。
家具やその他諸々の物品を運び出している中、僕と伊織が幅のある床頭台を動かした時、その裏側の壁との隙間から、何かがカランと音を立てて落下した。拾い上げると、それは家族写真のようだった。真ん中にランニングシャツ姿の少年が立ち、その後ろで両親と思われる男女が笑っている。脇には、少年の祖父母と思われる老夫婦の姿もあった。ガラスケースはかなり埃を被り、ひび割れている。中の写真も色褪せていた。
──昔は活気があった団地だけど、どんどん人口が減って空き部屋が目立つようになっちまった。その上年度初めからの件で、残った人も全員病院か隔離施設行きだ。住んでいるのは元々、大体年寄りばっかりだったしな。まあ、掃除と消毒は日中に済ませてあるから、中は外見程悪くない。
あの案内役のビルクが言った言葉が、僕の脳裏に蘇った。これもモデュラスとしての情報吸収能力なのか、彼の言った言葉そのままに文章を再現する事が出来る。
この家族写真は、高齢化が進み、オセスでその老人たちが集団退去させられる以前に、ここに住んでいた者たちのものだったのだろう。もしくは、ここに住んでいた老夫婦が、我が子の作り上げた家族が遊びに来た時に撮影したものを大切に保管していたのか。ビルクは「掃除を済ませた」と言っていたが、空間消毒も同時に行ったらしいし、四角な座敷を丸く掃く、という程度で家具も避けなかったに違いない。だからこの写真が、棚の裏に落下したまま忘れ去られていたのだ。
「強制退去……か。それがあったにしても、こんな枕元に置くくらい大切な写真を、落としたまま行くはずがない。多分、ここに居た人たちは……」
伊織が、言葉を途中で呑み込んだ。僕も、彼の言おうとした事を悟って口を噤む。そのような目線で、誰もが幸せそうなこの写真を見ると、どうしようもなく居たたまれないような、胸に迫るものがあるような気がした。
「何をしているの?」
アンジュ先輩が、床頭台を挟んだまま足を止めている僕たちに声を掛けてきた。僕が写真を差し出すと、彼女は痛みを堪えるように胸を押さえ、数秒間袖口を指先で弄り、やがて言った。
「例外は作れない。これも、燃やす事になるわ」
「そう……ですよね」
もう、この人たちは居ないのかもしれないのだから。
そう言いそうになり、僕はぐっと言葉を切る。そして、「持って行っちゃって下さい」と言った。「見ていても、辛くなるだけなので」
「……そうね」
アンジュ先輩は言い、他の小物類と一緒に写真を籠に入れ、そのまま廊下に出て行った。僕たちはまた無言になり、粗大ゴミの運搬を再開する。僕は黙々と作業を進めながら、あの、一種非人間的なまでに排他的な村人たちにも、子供時代があったのだよな、と考えた。そして、それを考えると同時に、あの連中の為に感傷的な気分になどなって堪るものか、と思い直した。
* * *
団地のすぐ外にある牧草地にそれらを積み上げ、火を点けると、焦げ臭い嫌な臭いが立ち込めた。天候調節をしておらず、風向きも自動設定のままなので、その臭いと黒煙は団地付近に漂い、僕たちは噎せ返りそうになった。
それは、あの祭りに漂っていた煙のような、安心感を感じさせるものではなく、息の根を止められた生命を思わせる、不吉で陰惨なものだった。先月、灰燼と化した死体を処理した時よりも、一層酷いと言ってもいい。死者たちの存在した痕跡に止めを刺すかのような、確かにそこにあった生活の残滓を掻き消し、否定するかのような、昏い感情を孕んでいた。
僕たちは、何処まで用心したら良いのか測りかねていた。だが、出来るだけ汚染物を燃やした煙は吸わない方がいいだろう、と誰もが思い、火勢が収まるまで皆示し合わせたかの如く公団住宅に入り、窓を閉め切って時間を過ごした。
僕は、あまりカエラと顔を合わせたくない気分だった。無論、まだモデュラスに関する実験は終わっていないし、離れていると例の発作が起こった時に危険なので一緒に居るしかないのだが、僕はすっかり日の暮れた空を眺め、なるべく彼女の方を見ないようにした。
カエラは、僕が戻ってアーノルドの死を告げると、無表情で「そう」と応えた。そして、他の皆と同じように消毒作業を開始したのだが、その間もずっと僕は彼女の心情を読み取る事が出来なかった。
何故、彼女はこのタイミングで、僕と関係を持とうとしたのか。彼女は以前、僕の抱え込んだ感情の捌け口に自分の身体を使って欲しい、と言った。また、それで僕が彼女に惚れるのかどうかも確かめたい、とも。分からない、というのは、僕自身についても同じ事が言える。数時間前、目を覚ました僕はほんの数センチしか離れていない場所にあるカエラの裸身を見て、焦燥を感じた。だがその焦燥は、僕たちのそれが外部に知られてはいないか、というものだった。
あの時、僕は起こった現象に対して、怒りを覚えただろうか。いや、むしろ、カエラが僕を受け入れてくれた事に喜びすら感じていたのではなかったか。逃避願望などではない。確かに僕は、彼女に惹かれている。
これは……気まずさなのか。状況を弁えていない、と彼女を非難する気持ちは、僕が自身でそれを押し隠す為の自己弁護に過ぎなかった。
疲労は、夕方までの睡眠で完全に消えてしまっていた。再び眠る事も叶わないまま夜は更け、時計の日付が変わる瞬間を見た。そして翌日、七月十六日の夜明けは、あのガターンッ……という音と共にやって来た。
巨大な扉が、ゆっくりと開いていく音。僕たちが見捨てられた夜と同じ、クラフトポートのゲートが開けられた音だ。
(帰ってきたんだな……)
僕は、妙に冷静な気持ちでそう思った。思ってから、実感が伴われるに連れて、胸の内側で段々と心臓が速く鳴り出した。
何故だ、と必死に頭を回転させる。ニルバナは見捨てられたはずだ。そうでなければ、宇宙連合軍と取り引きを行った彼らが、あのような、ユニットを破壊しかねない作戦を受け入れるはずがない。だが、そう考えてすぐに別の可能性に思い至る。彼らの取り引きした宇宙連合軍が、それを反故にしたのだとしたら。
「祐二君」
カエラが、僕の名前を呼んだ。振り返ると、彼女は険しい顔で僕を透過し、窓を見ているようだった。来るべき未来を、厳かに迎えようとするかのように。
僕は、拳をぐっと握り締めた。