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『破天のディベルバイス』第9話 自由の王国⑫


          *   *   *


「あなたも疲れたでしょう」

 僕が皆の作業に加わって間もなく、アンジュ先輩がダークを伴って現れた。このような時でも先輩に対して「人質」という扱いを崩さないダークに僕は苛立ったが、彼は先輩の邪魔をする事なく、ただ部屋の隅に佇んでいた。

 アーノルドの看病は夜更けまで続き、次第に喘ぎのような苦しい呼吸は収まってきた。千花菜は、万葉たちが疲れて、シオン先輩の指示で部屋に帰ってからもずっと恵留と共に作業を行っていたが──僕はといえば、例の慢性疲労に急な労働、そして心労も加わり、ダークの横に座り込んでしまっていた──、アンジュ先輩は彼女に「もうやめるように」と言った。

「平気です、アンジュ先輩。今までだって、私……」

「体はそうも行かないのよ、千花菜ちゃん。疲労で体調が悪くなったら、免疫も落ちる。この際だから言うけど……私たちがオセスウイルスを保菌している事は、もう確定事項として覚悟するしかない。それを、せめて発症させないようにするには、体調を万全にするしかないの。この人だって、千花菜ちゃんの推測が正しければ日和見感染だったんだし……」

「でも」

「先輩としての命令です。ここから先は私やマリー、シオンに任せて、あなたは休息を取りなさい。あなたが発症したら、祐二君たちにも心配を掛ける事になるのよ。皆の為にも、ね?」

「……はい」

 千花菜は頭を下げると、「いざとなったらすぐに呼んで下さい」と断り、僕の方に来て壁に背中を預けた。恵留は、アーノルドの横たわるマットレスの側面に顔を付けてうつらうつらしている。

「千花菜……」

 僕は、何か言葉を掛けねばならない、と思ったが、気の利いた台詞はなかなか浮かばなかった。そうしている間に、彼女の方から発言した。

「祐二……この前、もっと僕を頼って、って言ったよね……今そうするのは、さすがに卑怯かな……?」

「そんな事は」僕は咄嗟に言う。

「怖いよ、私……こんな事、もう続かないと思っていたのに……」

「キムは、お前の推測通りなら、その男以下の強さのウイルスで死んだ事になるぞ、綾文千花菜」

 ダークが、立ったままこちらを睥睨して言った。僕はむっとし、千花菜の手を励ますように握りながら彼に非難の視線を向けた。

「これ以上、彼女を怖がらせるような事を言うな、ダーク」

「事実を言ったまでだ。どれだけ否定しようと、その男が死ねば皆が混乱する。自由の国という構想も、全てが絵空事に帰してしまう」

「だから、彼女は頑張っているんじゃないか。アンジュ先輩だって、他の皆だって精一杯アーノルドさんを救おうとしているんだ。それなのに、追い詰めるような事を言うのはどうかと思うな」

「なら、最悪のケースを想定しておけ。ユーゲントは、既に独立の構想を連合に向かって提示した。その状況で、再びニルバナで感染症が蔓延したとして、俺たちはどうなる? 逃げ出すのか? 逃げて、何処へ行く?」

 僕はダークを睨んだまま、次の言葉を発する事が出来ない。

 ダークの言う事は、僕が心の中で思いながらも、意図して考えないようにしている事だった。それを容赦なく口に出すダークに反発する事で、僕は自分の中の弱気を打ち消そうとしているのだった。

 弱気? いや、それが現実なのだ。幾ら皆が、自分たちの内側へと韜晦(とうかい)したところで、最悪の現実は徐々に実態を伴いながら追い駆けてくる。


          *   *   *


 僕は、千花菜と身を寄せ合ったままいつの間にか眠っていたようだった。僕の目を覚まさせたものは、再び荒さを増したアーノルドの息遣いであり、徹宵(てっしょう)彼を世話し続けたユーゲントたちが右往左往している声だった。

 明け方に目を覚ますと、夢なのか、起きている自分の想像なのか分からない光景を見る事がある。その時僕が見ていたのは、まさにそれだった。

 呼吸する事をやめたアーノルドの体、その傍らで泣き崩れる千花菜。その慟哭が、次第に苦しそうな喘ぎ声に変わってくる。彼女は自分で自分の首を絞めるかのように喉に手をやり、仰向けに倒れる。僕はその汗ばんだ額に恐る恐る手を伸ばし、火のような熱を感じて跳び退()いてしまう。

 見る間に衰弱していく彼女を見て無力感に苛まれながら、誰のせいでこのような事になったのだ、と自問する。村人たちか、ブリークス大佐か。それとも、リーヴァンデインを倒壊させたラトリア・ルミレースか。あんなに笑顔が素顔のような彼女からそれを剝奪し、これ程苦悶に満ちた表情を植え付けたのは、一体誰だ。僕が守りたいと思った彼女の、眩しく、温かくて可愛い笑顔を奪ったのは誰なのだ。

 そうしているうちに彼女は、苦痛に歪んだ表情を顔に貼り付けたまま動かなくなってしまう。僕はその場から逃げようとするが、コックピットの座席が僕を固定し、拘束している。せめて目の前の光景を見ないように、僕はぎゅっと目を瞑る。すると、カエラの聖母のような笑みが見え、瘡蓋(かさぶた)だらけとなり、血の滲んだ僕の心を陽溜まりのように包み、癒していくのが感じられた。

 ──二人きり、それも悪くはないと思うよ。

 カエラはそう言って、そっと僕の頭を抱き込む。そこで僕は、思ってしまう。逃げる事の何が悪いのだ、と。僕が戦おうとしたのは、千花菜の為だけだ。彼女を救えなくなってしまった今、何故僕がこれ以上苦しむ必要があるのだ、と。

「祐二君、何処? 何処に居るの?」

 その時はっきりと声が聞こえてきて、僕の意識は夢(うつつ)の状態から浮上した。廊下で、カエラが僕を探しているらしい。昨夜、彼女を部屋に残したままここに来て、そのまま眠ってしまったのだった、と思い出した。カエラはあの後、僕を待ったまま眠ったのだろうか。

「何か、用事?」

 僕は、半ば痺れている体を擦りながら壁際から立ち上がる。扉が開く音がして、玄関からカエラが顔を覗かせた。

「あ、祐二君。ちょっと来て」

 彼女が用事を言わない事を怪訝に思いながらも、僕は玄関に向かった。カエラは僕の袖を引くと、顔を寄せて囁くように言ってくる。

「何で、祐二君がこんな所に居るの? 昨日千花菜が言っていた事、聞こえてたよ。アーノルドさんが、病気を再発させたんでしょう? ここに居たら、祐二君も危ないよ」

「それは、千花菜たちだって同じだよ。何しろ急な事で、人手が足りないんだ。僕、この間もっと頼ってくれって千花菜に言ったんだ。無視する事は出来ない」

「どうして? どうして祐二君が、そこまで危ない目に遭わなきゃいけないの? 私たち、二人だけのモデュラスなのよ。祐二君が死んじゃったりしたら、私……独りぼっちになっちゃうよ」

 僕は、ぐっと歯噛みする。「勝手に、病人が死ぬって決めつけないで。僕も、死ぬと決まった訳じゃない。それに、アーノルドさんを病原体の集まりみたいに言うのも……」

 言いながら、僕に言えた事ではないな、と反省した。昨夜、アーノルドが千花菜たちに病気を撒き散らす事を憂えたのは、他ならぬ僕ではないか。

「疲れているんでしょう、祐二君? なら、何もこんな所で寝なくてもいいよ。悪い夢を見るもの……昨日の夜、私、凄く心細かった。私がモデュラスになったの、祐二君が居るからなんだよ。居なくならないでよ、私の所から」

 カエラは尚も言ってきた。その口調に、先程の夢(うつつ)で見た光景が蘇ってくる。

 僕にとって、どれだけ戦う事が重石になっていたのだろう。そして、その負担を今までどれだけ、目の前に居る彼女が癒してくれたのだろう。

 僕はちらりと、自分が先程まで座り込んでいた壁際を振り返る。そこには、千花菜がまだちゃんと座り込み、アーノルドの荒い呼吸と呼応するかの如く、(うな)されているような唸り声を上げていた。

「……祐二」

 ぽつりと、僕の名前が口から零れる。僕はそれを聞き、どうしようもない罪悪感のような感情が押し寄せてくるのを感じた。だが、続いて千花菜がその名を呟いた時、僕にはそれが心にひびを入れたような気がした。

「嘉郎さん……」

 彼女は、先程まで僕が座っていた辺りに指を這わせながら、そう言ったのだ。

 僕は振り切るように身を翻し、カエラに「部屋に戻る」と伝えた。一瞬、夜通しそこに立っていたのか姿勢を変えていないダークと目が合う。カエラは目を伏せ、微かに顎を引いて肯いた。

 アンジュ先輩たちは、僕が疲労困憊して部屋に戻ろうとしているのだ、と思ったのだろう。何も言わず、申し訳なさそうな表情でこちらを見つめ続けていた。その視線が背中に染み付くようで、僕は振り払うべく駆け足になった。

 涙が、目尻から頰を伝っていく。この涙が、それを湧き起こす感情が、スペルプリマーの精神干渉で増幅されたものだとは、どうしても思えなかった。悪夢という言葉すら許されない現実から逃げ切るには、この廊下は狭すぎる。

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