『破天のディベルバイス』第1話 地球が終わる日⑨
⑧ディートリッヒ・シュミット
それは、何の前触れもなく起こった出来事だった。
養成所上空、リーヴァンデインのすぐ横に当たる天蓋の一角が、突然爆音と共に砕け散ったのだ。音もなく、灰色の雲が人工の青空に流れ込み始める。
「天蓋が……破れた?」
自分らしからぬ呆けた声が口から零れ、ディートリッヒは我に返る。そうして返ってきた”我”もが、目の前で起こった出来事を否定しようとした。
有り得ない。防衛庁から最後に情報が入ったのは今朝で、その内容は「過激派が更にビードルへ接近したが、まだ警報を発するには及ばない」というものだったのだ。この短時間で、宇宙連合最大の守りの要たるガイス・グラが沈んだとでもいうのだろうか。
「教官!」
突然声を掛けられ、ディートリッヒは振り返る。
発着場に、訓練生の綾文千花菜と美咲恵留が駆け込んでくるところだった。二人ともエリア内での自由行動中だったらしく、夏はまだだというのに開きの多い私服で手提げバッグを肩に掛けている。
「すぐに防護服を着て、街に出ている全員を養成所内へ連れ戻せ。ヴィペラが流入し始めた。今日の風向き、風速の設定では、一時間も経たずにエリア内に充満する!」
「教官は……?」
綾文が口に出した時、養成所からパイロットスーツ姿の他の教官たちが駆け出してきた。さすが対応が速い、と肯く。
「渡海、神稲にも言った事だが、リバブルエリアに過激派が入ってきたとして最初に戦うのは我々大人だ。貴様らは貴様らのすべき事をしろ」
言ってから、現在ヴィペラへ潜航しているその二人の事を思い出した。もしも天蓋の損傷が過激派によるものだとしたら、リバブルエリア上空のヴィペラの中に過激派が潜っているという事だ。あの二人も危ないかもしれない。
……考えても詮ない事だ。自分はただ彼らを信じ、自分たち大人の役割を果たすのみ。
「来た!」
出てきた教官たちの誰かが叫び、ディートリッヒは再び空を見上げる。
早くも灰色に染まりつつある辺りから、バーデと思しき機影が次々と飛び出してくる。数は──捉えきれないが、十近い。
「急げ!」
ディートリッヒは綾文たちの背を押し、その反動のような方向転換で自機ケーゼへと走った。綾文と美咲は顔を見合わせ、肯き合うと、手で鼻と口を覆いながら養成所の中へと駆け込んでいく。
ケーゼに乗り込み、他の教官、否、機士たちと通信を繋ぐと、すぐに校長マーカス・エニアグラム大佐が声を掛けてきた。
『シュミット大尉、遅いぞ』
「申し訳ありません」
『速やかに敵を排除する。尚ヴィペラの拡散は最早止められないものとし、あらかじめヒッグス通信を使用する』
「アイ・コピー!」
答えるや否や、機体を発進させる。パイロットスーツを着用していない事に気付いたのはその時だったが、ヴィペラが流入していなくてもここで撃墜されれば、どの道助からない。機内には常備されているのだから、外に出る事になった時に着よう。
余計な考えを頭から振り払い、こちらに銃撃しようと構えているバーデに突進していく。
「あいつらを害する事は許さん!」
初手から榴弾を使用し、エンジンを狙って爆散させる。機体の破片が降り注ぐ先を確認するが、出歩いている訓練生は居ないようだった。
ディートリッヒに実戦の経験はない。長い間宇宙連合軍は抑止力に過ぎなかったという事と、過激派との戦闘が始まった頃は既にここでの教職に就いていたという事がその理由だが、訓練を怠った事はなかった。
養成所の護星機士の務めは、将来の機士たちを育成するだけではない。その為だけであれば、ビデオ教材を使いつつ修正箇所を口に出すだけで事足りる。
そう、全てはこの時の為だった。来て欲しくはなかった”いつか“、訓練生たちに敵の魔の手が迫るという時。
数ではこちらが優勢だった。時間を掛けすぎなければ、犠牲を出さずに敵を鎮圧出来る可能性は十分にある。危険な場所で働く者は常に最悪のケースを想像せねばならないが、想像しているからこそ、このような事態に迅速に対応出来る。
ディートリッヒは旋回し、次の敵を狙った。一機のケーゼと向かい合い、今にもぶつかり合おうとしている。その上から、流れ込んできたヴィペラがもくもくと灰色のベールを掛けていく。
ふと、そのバーデの下部から何か細長いミサイルのようなものが出現しようとしているのを見た。絶え間なく湧出する雲に隠れ、殆どシルエットしか見えないが、あれは──……
「田辺中尉、避けろ!」
ディートリッヒが叫んだ瞬間、ミサイルが発射された。
数秒後、〇三クラス主任の田辺中尉の機体を中心に、周囲の護星機士たちが掻き消える。目も眩むような光が発生し、やがてヴィペラに吸収されていった。
爆風から懸命に後退しながら、ディートリッヒの脳裏には不吉な単語が浮かび上がっていた。
エレクトロン・ゲル弾頭。灯油を主成分とする燃料を使用した、六百年近く昔の戦争で使用されたMark 77爆弾に近いものに、テルミット反応をプラスした兵器。
核兵器を除く、宇宙連合軍で使用が不可となっている兵器のうち最悪と呼ばれる代物。拡散範囲に僅かにでも踏み込めば酷い火傷を負い、酸欠を引き起こす。その後、爆発で拡散したアルミニウムと酸化鉄の粉末が更に広域を燃焼させる。真空の宇宙空間では使用が出来ず、ユニット内での戦闘を想定して作られた。
以前連合軍の開発部門に所属する科学者が生み出し、やりすぎだとの非難を浴びてリージョン九に保管、という名目でお蔵入りになっていた。それを、現地の基地制圧と共に入手した過激派はミサイルに改造した上で実戦投入した。
バーデには、ミサイルは一発しか搭載出来ない。だが、もし他の機体の何台かも同様の弾頭を積んでいるのだとしたら、こちらが全滅する蓋然性も否定しきれない。
『奴らはリバブルエリアを、ヴィペラよりも先に潰す気か……!』
エニアグラム校長が叫ぶ声が聞こえる。
そうだ。広域で大量の酸素を消費するこの爆弾は、ヴィペラと共にエリアの空気を食み尽くす。
ディートリッヒは他の機体との通信を確認する。早くも七機が墜とされ、数の差でも逆転され始めていた。
『急げ! なるべく散開して、敵を包囲しろ! 一斉に弾幕を張って、奴らを展開させるな!』
『アイ・コピー!』
機士たちの通信が一斉に応答する。ディートリッヒは更に機体を上へ向け、ヴィペラの雲が蟠っている辺りを包むように旋回した。
『一斉射用意! ……撃てーっ!!』
エニアグラム校長の合図で、セミオートに設定した機銃が何百、何千という徹甲弾を射出する。ヴィペラの雲の中で爆発と思われる光が局所的に点滅したが、何機撃墜出来たのかは分からない。
ディートリッヒの頭は最早思考を止めていた。ただ旋回し、撃ち尽くすつもりで弾丸を発射する。これを僅かにでも止めれば、抜け出したバーデが破壊を再開する。爆風を浴びてダメージを受けているこちらの機体はすぐに限界を迎え、撃墜され、全滅は免れない。
ヴィペラのせいで、目視で狙いは定まらない。敵全機が討滅されるのが早いか、こちらの弾が全弾撃ち尽くされるのが先か。それは、護星機士としての腕前が最早意味を成さない賭けだった。
ふと、レーダーに新たな反応があった。
後方、リーヴァンデイン上層の、トンネル直下。
(新たな敵か!?)
背後を取られると危ない。ディートリッヒは、パノラマの如く回転する側面モニターの景色に視線を這わせた。
リーヴァンデインのトンネルから、豆粒のような機影が現れていた。戦闘機ではない、あれは……作業船?
──オルト・ベータ。
(渡海、神稲、無事だったのか……)
そう思った時、その映像が掻き消えた。暗転した画面にひびが入り、液晶が噴き零れてくる。不吉な音と共に吹き込む灰色の煙を切り裂き、ミサイルの弾頭が体を圧し潰した。
光で満たされる視界の中、エニアグラム校長のケーゼが黒煙の緒を引きながら墜落していくのが見えた。