『破天のディベルバイス』第8話 分かり合う為に⑪
⑪アンジュ・バロネス
『渡海祐二、只今復帰しました』
ヒッグス通信の回線の向こうから、祐二の声が届く。その瞬間アンジュは、安堵のあまり床にへたり込みそうになった。深々と息を吐き出し、泣き笑いのような声を漏らす。ラボニが怪訝そうな顔を向けてくるので、無言で右手の親指を立ててみせた。彼女も、ユーゲントの他の者たちも、アンジュのその仕草と祐二の声で、彼が海中から生還した事を悟ったらしい。
「じゃあ、ストリッツヴァグンの反応が消えたのは……」
マリーが、高揚した声で呟く。
「Z軸座標……高度、海面から五・六キロ。一、二号機同座標、共に健在。渡海君、あなたが敵のスペルプリマーを……!」
「見て分かると思うけど、ダーク君たちのお届け物も到着したわ。伊織君の他、船内待機している子たちの中から成績優秀者を選んで操縦して貰っている。ヒッグスビブロメーターがないから、彼らは相互にしか通信出来ないけどね。祐二君、あなたは一回船に戻って来て。一号機のダメージ、かなり酷いでしょ」
『アンジュ先輩。……落ち着いて聴いて下さい』
祐二は急に声を低める。アンジュは、ついまた指先で袖口を掴んだ。
「何かしら?」
『ハイラプターの中に、船内に毒ガスを撒こうと狙っているものが居るようです。船に接近する中型以上のサイズの戦闘機を、逐一チェックして下さい』
「船内に、毒ガス……」
そうか、と思った。先程ディベルバイスは、ケーゼの受領とパイロットの搭乗、発艦の為に、一時的に加速上昇を中断した。そして今も、加速のペースが完全に元には戻っていない。
『あれだ、アンジュ!』
ヨルゲンが、レーダーの一部を示しながら声を上げた。映像を見ると、ディベルバイス後方の展望デッキに向かって一機のハイラプターが向かってきている。あの位置から船内に毒ガスのミサイルを撃ち込まれれば、居住区画に居る全員が死ぬ事になるだろう。
「回頭し、振り切ります。機銃掃射中断、高度維持。ヨルゲンさん、パーティクルフィールドの引き続き展開を」ウェーバーが言う。
「合点だ。シオン、射撃中止! 全方向にシールドを張る!」
『アイ・コピー! でも、追尾性ミサイルだったら?』
「撃墜するしかないわね。カエラちゃん、グラビティアローで撃ち落とせる?」
アンジュは、独自に状況を判断してくれる仲間たちに感謝しながら、下方に居るカエラに問い掛ける。
『すみません先輩、祐二君の機体が限界です! 自立飛行は困難ですし、そちらに送り届けるまでには撃墜が出来ませんので、間に合わないと思います。ダーク君に繋いで、誰か別の人を……』
『最初から、そのつもりだ』
「ダーク君……?」
突如回線の向こうから、ダークの声が聞こえた。先程「アンジュ」と呼んでくれた事を思い出し、つい頰が熱くなりかける。
『船尾側に最も近い神稲伊織を、ハイラプターに向かわせた。恐らく間に合う』
「ありがとう、ダーク君……!」
アンジュが感激の声を出すと、通信機の奥でダークが微かに鼻を鳴らした音が聞こえた。もう一度名前を呼んではくれないだろうか、と思ったが、すぐに状況を思い出して自粛する。
テンが、少々緊張を孕んだ声で言った。
「スペルプリマーの帰投を確認、誘導線を引く。それと、件のハイラプターからミサイルの射出を確認した。回頭完了まであと六秒!」
アンジュは息を詰め、モニター上に映し出されたミサイルらしい小さな光点の行く末を確認する。ヒッグスビブロメーターを搭載していないこちらのケーゼたちは信号を出していないので、ダークのもの以外は「アンノウン」としてレーダーに表示されている。
そのアンノウンの一つが光点に近づき、一瞬重なった。ウェーバーが「回頭完了」と言った時、その光点が消滅する。ダークの声が、再び届いた。
『……ブリッジへ報告する』
「……聴きましょう」
口の中で凝固しかけた唾液を、空気と共に飲み下す。指先は無意識のうちに、袖口を弄り始めていた。
彼の声は、心なしかいつもより柔らかく聞こえた。
『ミサイルは、神稲伊織によって撃墜された。攻撃を仕掛けてきたハイラプターも、他の者によって戦闘不能となっている』
一瞬間を置いて、ユーゲントがわっと歓声を上げて立ち上がった。ラボニは躍り上がって自分の方に抱き付いてくる。レーダー上では、敵の戦闘機群が徐々にその数を減らしつつあった。
アンジュは、小さく拳を握り込んだ。自分たちは、過酷な十時間を戦い抜いて希望を萌芽させる事が出来た。だが、それが実るにはもう少し掛かるだろう。まだまだ、気を抜いてはならない。
『序の口ですよ、アンジュ先輩』
カエラの声が、ダークに続いて届いてきた。それと重ねるように、ガチャン、という鈍い音も響く。どうやら彼女と祐二のスペルプリマーが、ディベルバイス内に着艦したようだ。
『今し方、目視で確認しました。ホライゾンの周囲、水の湧出している空間に変化あり、です。相手もここまで来て、焦り始めたようです。上方向、こちらに向けて、最初のような大波が放たれるかも……』
「終わらせましょう、ここで。各員、ディベルバイスを回頭。正面を、浮上してくるホライゾンの艦首に向けて。それからパーティクルフィールドを全解除、シオンと射撃組は弾幕を準備。勿論、フルパワーでね」
一瞬息を吸い、アンジュはその指示を下した。
「艦首レーザー重砲、ホライゾンに照準を固定して発射準備!」
ディベルバイス起動当初から、スペルプリマーを除く船本体で最大の武装とされながらも、一度も使われた事のなかった武器。これが一撃で戦局を決められるものでなかったら、この十時間は無に帰してしまう。
アンジュの覚悟を感じ取ったのか、仲間たちは一斉に息を詰めた。
「……本当に、やるんだな?」
テンが、最終確認をするかのように問うてきた。
「重砲に使用するのは、ディベルバイス本体のエナジーじゃない。これを撃ったらもう、シールドを展開する事は出来なくなる」
「だから、その一発で決めるのよ」アンジュは言った。「準備開始!」
──今は……今だけは、私たちの力を信じて下さい。
地球を脱出する際、自分の言った言葉が思い出された。あの時は、衛星軌道を離脱してボストークに訓練生たちを送り届ければ、自分たちの役目は終わりだと思っていた。だが実際は、自分たちは現在でもその「今」の延長線上に立っている。
自分は、彼らの命を背負っているのだ。その背中から零れ落ちてしまった命がある以上、彼らが疑心暗鬼になり、この戦闘中に恐慌が起こってしまった事は仕方がない事なのかもしれない。それでも……
(それでも、分かり合う為に。ここまで私たちに着いて来てくれた、皆の為に)
「回頭、重砲開口完了」
「照準補正、射角百二十度」
「チャージ開始、本艦への着弾なし」
ブリッジクルーが声を重ねていく。アンジュはそれを淡々と聴く。
「ホライゾン由来の重力場に反応あり。波が来ます」
ウェーバーが発言した時、こちらに向かって上昇の態勢に入ったホライゾンの周囲で、水と思われるものがきらきらと光った。来る、と身構えた時、ラボニががばりとこちらを向いた。
「チャージ完了、発射用意良し!」
アンジュ、と名前を呼ばれた。
これが自分の、最後の指示だ。
アンジュは肯くと、思い切り声を張り上げた。
「艦首レーザー重砲、撃って!!」
ブリッジの正面の窓が、真っ白に塗り潰された。モニターで、射角上で敵性信号を発していた戦闘機たちが次々にロストしていく。迫り来る水流は極太の光に触れるや否や、真っ二つに引き裂かれ、断面から蒸発していった。
光の中、ディベルバイスを凌駕するホライゾンの巨躯が灰色のシルエットとして浮かび上がり、そのブリッジに当たる部分が崩れ、融解していくのが分かった。そこを起点に爆発が起こり、船体を包み込む。約十一時間に渡って自分たちを苦しめ続けたフリュム船が沈んでいくのを、アンジュはある種の厳かな気持ちすら感じながら、最後まで見守った。
大光量を見つめる目を、不思議と開いていられた事に気付いたのはずっと後になってからだった。理由は、その時になっても分からない。