『破天のディベルバイス』第8話 分かり合う為に⑧
⑧渡海祐二
海水から浮上するべくエンジンを噴かす事は、とうにやめていた。ディベルバイスと同じく燃料は不明だし、恐らく無尽蔵なのだとは思っているが、ショートにより機体が吹き飛ぶかもしれない以上、無駄な抵抗はしない方がいい。だが、このまま沈み続ければ重力に圧し潰されてしまうので、僕は重力操作のみを行い、辛うじて拮抗を続けていた。
宇宙空間で流体の水を留めておく程の重力場が展開されている以上、スペルプリマーに働く浮力などたかが知れている。現在のこのバランスが少しでも崩れれば、僕はたちまち機体諸共圧死する。
狭いコックピット内で、脳は絶え間なく回転し続け、空気の循環設備も作動を停止している。僕は、溺死と機体が爆散する恐怖、体が潰れる恐怖に加え、窒息してしまう事もまた恐れていた。どの最期がいちばん最初にやって来るのか、分からない。だがこれ程の死因が有り得る状態ならば、「無事に生還」という可能性が限りなく低い事もまた了解していた。
重力の操作系を懸命に弄りながら、僕はデジタル時計の数字をなるべく見ないように、と意識していた。ダークたちが戦闘機を届けてくれるという希望の時刻まであとどれくらいか、見てしまったら逆に絶望的な気分になるような気がした。それ程、一秒一秒に死の可能性が凝縮されているようだった。
アンジュ先輩は、こちらに無駄な問い掛けをして焦燥を煽ったり、集中力を削いだりしてはいけないと気を配ってか、僕がエンジン浸水の報告をして以降ヒッグス通信を繋いでこなくなった。最早僕が介入する事は出来なくなった戦闘だが、最後の情報から確認出来た状況は、ニルバナがホライゾンの重力を振り切って浮上し、ストリッツヴァグンがホライゾンへと引き返し、入れ替わるように敵戦闘機の大群がディベルバイスに襲い掛かってきた、というものだ。ダークギルドが死に、希望が潰える、という事は避けられた訳だが、形勢が好転しない一方的な韜晦はもう暫らく続くという事だ。
見ないように、見ないように、と思いながらも、そのような意識をすると逆にデジタル時計は目に入ってしまうものだ。そして少しでも目に入った情報は、戦闘中の思考回路に切り替わった脳が拾い上げてしまう。
嬲るように流れが遅い時間は、それでも刻々と進み、戦闘開始から十時間半近くが経過した。予定ではそろそろダークたちの組み立てが終わり、ケーゼがディベルバイスに到着するはずだが、アンジュ先輩からまだ朗報は入らない。遅い、という事を気にし始めると、今度はわざと僕を甚振って楽しむかのように、時間の経過が速く感じられ始めた。
『……渡海、落ち着いて聴くんだ』
ブリッジからの通信が、約一時間ぶりに僕に向けられた台詞を発した。声の主は、テン先輩だった。
『ストリッツヴァグンのメンテが終わったらしい。今、あの機体が再び発艦されるのを確認した。ディベルバイスが水の中から脱した事で、パーティクルフィールドが使えるようになったのは大きい。だが、あのスペルプリマーの光線は防げない。重力操作で、熱エネルギー変換される粒子の配列を乱してしまうからな』
僕は、もう驚かなかった。逆に敵スペルプリマーが退避して一時間、戻ってこなかったのが奇跡のようなものだ。
「そうですか……」
『参考までに言わせて頂きますと』
ウェーバー先輩が、テン先輩の横から口を出した。
『あの機体の発射する光線ですが、陽子を始めとするハドロンを利用しているようです。原理としては、パーティクルフィールドと似たようなものですね』
『ウェーバー、今その情報は必要か?』
テン先輩が軌道修正する。
『大事なのは、ストリッツヴァグンが今のお前に接近しても、俺たちはカバーしてやる術を持たないという事だ。残酷なようだが、それが事実なんだ。……渡海、お前にはこの戦闘で、いちばん大事な局面で船を救って貰った。だが、俺たちは逆にお前を救ってやる事が出来ない……この船が捕まったり壊されたりしたら、皆の命がなくなってしまうんだ。だから……』
ごめん、などと言われたくはなかった。だから僕は、
「謝らないで下さい、先輩」
なるべく明るく聞こえるように、そう答えた。
「もういいんです、僕の事は……先輩方は、今船に残されている皆を救う事だけを考えて下さい。ダークたちも、遅れてはいるようですけれどもうそろそろ到着するはずです。皆を守るのは、先輩たちの役目ですから……あと少しだけ、堪えて下さい。スペルプリマーだって、あと三機残っているんですし」
言っているうちに、そうか、僕は死ぬのだな、という漠然とした予感が、段々と実体を伴ってくる気がした。すると、あれ程恐れ慄いていた事が嘘だったかのように、何処か達観したかのような冷静な気持ちが感じられた。
千花菜の事。伊織の事。カエラの事。何もかもが、もういいか、という気持ちになってくる。これで、終わるのだ。沈まないように必死に抵抗して、他に何も考えられない状態。その抵抗が終わると同時に、何もかもが終わる。それで、もういいではないか、という。
スペルプリマーの、各部位接合部の赤い発光が点滅を開始した。タブレット画面に再び『STRIDSVAGNが感覚共有を求めています』という表示が現れる。いよいよ、あの敵機が戻ってきたのだ、と考えた時、それが水中に光線を放って一号機を爆散させるビジョンが脳裏を過ぎった。
半ば必然のように、スペルプリマーに搭乗している間、今までは不思議と忘れられていたあのトラウマが蘇ってきた。ダイモス戦線で戦死した兄の遺体が、コンパクトに箱の中に収められている光景。千花菜が泣き崩れ、僕が嘔吐したあの光景。思い出す度に、指先の痙攣という症状が起こる光景。
スペルプリマーに乗るようになって、思考に変化が見られ始めてから、あまり表には出てこなくなったトラウマ。
それが、今ではあたかも当然恐れるべき事のように、フラッシュバックして操縦桿を握る僕の指先を震えさせる。
僕も、あのようになるのだろうか。人としての姿を失い、焼け焦げて嫌な臭いのする肉片となり、箱に収められるのか。存在が消えてしまう、という意味の死よりも、肉体があのように蹂躙される事の方が恐ろしかった。
(……死にたく、ない)
今更気付いた、というように、そのような思考がふと明滅した。
その刹那だった。
『ルキフェル!? あ、ああ……おい!』
『すみません、後はダークに!』
テン先輩、カエラの声が連続して回線から響いた。急に大声量になったので、僕はその会話を上手く聞き取る事が出来なかった。
「カエ……ラ……?」
『祐二君!』
彼女の声が間近で聞こえた、と思うか思わないかのうちに、タブレットのメッセージが一つ増加した。二号機の接近を告げる、例の文言。しかし、発着場に閉じ込められていた彼女が何故?
そう思った瞬間、すぐ傍の水中にグラビティアローの矢が落ちてきた。そう、それは彼女が放った、あの重力を伴うエナジーの矢だ。見慣れた赤黒い光が拡散すると共に、水中の一角に開けた空間が出現する。一号機がその空間に向かって流されかけた時、青い閃光が一筋、揺らぐ頭上を切り裂くようにして矢に続いてきた。
水が押し退けられ、僕の機体の肩部が水面から現れた時、一切の躊躇なく水の中に差し込まれた二号機の腕が、その部位をがしりと掴んだ。
僕がそれ以上の事を言う間もなく、二号機はこちらを致死性の海から引き摺り出した。水を通さずに見た宇宙は、何故かとても久しぶりのものに感じられる。
見慣れた無辺の闇が、これ程美しく思えたのは初めてだった。