『破天のディベルバイス』第7話 蒼き災い⑥
⑤アンジュ・バロネス
絶え間なく発着場に流れ込んでくる水を掻き分け、ディベルバイスは宇宙空間へと進み出していた。進むごとに、無重力空間に溢れた水が船体に絡み付くらしく、動きが重くなる。浮上がなかなか上手く行かないまま船体が完全に外に出た時、船全体が激しく揺れ始めた。
「ホライゾンの重力フィールドに突入! 当方の重力出力も上げているけれど、相殺しきれない!」
テンが、操船プログラムを高速で打ち込みながら叫んだ。アンジュは正面の大窓を見据え、海原の如く激しく波が立つ視界を捉えながら唇を噛む。
ホライゾンはここから五キロ程の位置まで接近し、その周りで祐二の一号機と敵機ストリッツヴァグンが激しくぶつかり合っている。敵船の周囲に漂う陽炎の如き揺らぎからは相変わらず水が湧き出し続けているようだが、最初と同程度の大波が再び襲ってきたら、今のディベルバイスは簡単に呑み込まれる。さすがに一撃で全壊などはしないだろうが、エンジンがやられればもう動かす事は出来ない。
「船底ジェットエンジン噴射中、出力最大! これで浮上しきれなかったらおしまいね!」ラボニは、絶望との境界線に立っているかのような声で言う。
「ルキフェル、ゲートは閉まったか?」ヨルゲンが尋ねると、
『もう少しです! 水勢が強くて!』カエラの返事が返ってきた。
アンジュは、ディベルバイスが発着場を出る前に下船し、ユニット制御室に向かったティプたちの事を考える。
制御室は基本的にコラボユニットの地下に当たる部分に存在しており、ユニット下部に異常重力場が広がっている現在、最も危険な場所だ。もし僅かにでも土台壁が耐えられなくなり、破れたら、彼らはたちまち全てを圧壊させる異常重力に晒され、もしそれを逃れても浸入した水で溺死する。
アンジュは激しい揺れの中、頭から無線機が落ちないように右手で押さえながら、左手で制服の袖を弄り続ける。祐二、カエラ、ティプ、ダーク、船外に居る彼らからイレギュラーがあったと報告があれば、判断は自分が下さねばならない。暫定リーダーのジェイソンには申し訳ないが、ホライゾンとの戦闘の指揮責任は半ば暗黙のうちにアンジュに渡っていた。
「皆……お願い……」
口の中で小さく呟いた時、突然それは起こった。
何か重いものが落下するような音が響き、突如ブリッジの照明が消えたのだ。ユーゲントたちが動揺の声を上げた瞬間、すぐさま不吉な赤い光が再点灯する。
「何? 何なの、これ?」ラボニが掠れ声で呟く。
「落ち着いて下さい。非常電源に切り替わっただけです」
ウェーバーが冷静に言ったが、それは決して落ち着ける事ではなかった。
「それって、発電設備がやられたって事!?」
「今調べましたが、浸水による一時的な緊急停止です。安全装置の作動でしょう、この状態で起動し続けると、ショートする恐れがありますから」
「そこまで浸水しているの? ……あっ!」
ラボニは、ウェーバーがシェアした船の図面を見て小さく悲鳴を上げた。発電設備周辺に小規模な浸水が見られるが、それは少しずつ範囲を拡大している。波に最も攻撃されている場所は、ジェットエンジンの排気口の辺りだった。
「エンジンまでは……切れない……」
自動車などエンジンで動くマシンに於いて、浸水による被害で最も危険なのはショートだった。火災や、水の急激な過熱による水蒸気爆発を誘発する可能性があるからだ。だがここでディベルバイスの起動を停止すれば、二度と自分たちはこの海を抜け出す事は出来ない。
「パ、パーティクルフィールドは使えないのか!?」
艦長席で震えながら、ジェイソンが発言する。だが、彼が言い終わるのを待たずにヨルゲンが「無茶言うなよ!」と一喝した。
「パーティクルフィールドは熱エネルギーを利用するんだぞ。こんな、半分が水没している状態で使っても数秒で消えちまうだろ!」
「そ……そんな……こんなの、無茶苦茶だあっ!!」
ジェイソンが叫んだ刹那、アンジュの鼓膜に無線機から大声量が叩き付けた。
『ブリッジ! 気を付けて!』
祐二の声だ、と思うか思わないかのうちに。
窓の向こうで一号機の戦っているストリッツヴァグンが、こちらに向かって光線を放とうとしているのが見えた。
「ひいいいっ!」
ジェイソンが椅子から落下し、頭を抱えて蹲る。アンジュが窓の外から目が離せないでいると、一号機がストリッツヴァグンに向かって刀を投げ付けた。
「あっ、馬鹿!」テンが叫ぶ。「スペルプリマーの武器はあれしかないのに、渡海の奴、放り投げちまうなんて!」
だが、その効果はあった。光線のエネルギーを溜めていた左腕が貫かれ、敵機は大きく前傾する。狙いの逸れた攻撃は海面に衝突し、大波が塊となってこちらに押し寄せてくる。
「全員、踏ん張って!」
船内の訓練生たちにも聞こえるように、アンジュはスピーカーのマイクに向かって叫んだ。叫びながら、胸を預けるように机に思い切りしがみ付く。
数秒後、戦闘が始まって最大の揺れがディベルバイスを襲った。皆の悲鳴が重なり合い、轟音に掻き消されそうになりながら響く。アンジュは咄嗟に目を瞑ったが、しがみ付いている机からガラガラと音を立ててものが崩れ落ちるのが分かった。頭から無線機も外れ、肩に引っ掛かってぶら下がる。
「カエラちゃ────んっ!!」
船の後ろでゲートと格闘している二号機の事が過ぎり、アンジュは絶叫した。
極限まで引き延ばされたかのような数秒間の後、今度は静寂が襲ってきた。鼓膜を揺さぶっていた轟音が消え、耳がおかしくなってしまったのではないか、と錯覚する程に、ねっとりと気持ちの悪い静けさだった。
「……エンジンは?」
ラボニが我に返ったように言い、マリー、ヨルゲン、ウェーバーが素早く立ち直って各々(おのおの)の画面を睨む。最初に、ウェーバーが言った。
「消えても、ショートしてもいません。上から水を被ったので、船本体が盾となってくれたのでしょう」
心なしかほっとしたような彼の声に、皆安堵したように肩を落とす。第一の心配が解消されると共に、アンジュには次の不安が芽生えた。肩に引っ掛かった無線機を頭に装着し直し、傍らで転倒した小型ヒッグスビブロメーターを立て直すと、二号機に向かって語り掛ける
「カエラちゃん、大丈夫?」
幸い、彼女の返事は返ってきた。
『何とか直前でゲートを閉め切って、中に避難しました。すみません先輩、水圧でもう開きそうにありません。カエラ・ルキフェル、戦線復帰困難です』
「無事ならいいのよ、カエラちゃん。……祐二君も聞こえるわね?」
続いて祐二に語り掛けると、彼は肯いたようだった。
窓の向こうで再び開けた戦場を見ると、一号機がいつの間にか奪い返した刀を空振りしている。刀身から外れて水の中に落下したのは、ストリッツヴァグンの左腕。どうやら祐二は、敵機の腕ごと捥ぎ取って刀を奪還したらしい。
『先輩たちも、大丈夫でしたか?』
「問題ないわ。怪我人が居ないかは、これから船内全体に聞いてみないと分からないけれど……」
「問題ないものか!」
アンジュが答えている時、ジェイソンがヒステリックに喚いた。
「これが続いたら、我々が完全に崩れるまで時間の問題だ……もう駄目だ、おしまいだ! 俺たちはここで、皆死んじまうんだ! 降ろしてくれ……降ろせえっ!!」
「ジェイソン……」
アンジュは、床に蹲ったままの彼を助け起こそうとした。だが、アンジュが近寄るよりも先に、不意にヨルゲンとテンが速足で彼に近づいた。
「降ろせ……降ろせ……っ……」
「うるせえっ!」
ヨルゲンが、蹲った彼の背中を思い切り蹴りつけた。ラボニ、マリーがあっと声を上げ、蹴られた当人であるジェイソンは横ざまに倒れる。仰向けになった彼の襟首をテンが掴み、乱暴に引き起こした。
「お前はリーダー失格だ、ジェイソン。さすがに俺も、我慢が出来なくなった」
「いつもいつも、てめえは俺たちの邪魔ばっかしやがる!」
ヨルゲンも、拳を震わせながら声を絞り出す。握り締めすぎて爪が掌に食い込んだらしく、ブリッジの床にたらたらと血液が滴った。
「お前、たち……?」
「空気も読まずにだらだらと泣き言ばっかり。いざとなるまで状況を楽観視しかしねえし、それで少しでも悪くなると駄目だ駄目だって、すぐに諦めやがる。もう人間が一人死んだ、この海からは抜け出せねえ、ルキフェルは戦線離脱、そしてダークたちから武器が届くまであと六時間近くある。これが現実だ、認めろ! 俺たちは認めた上で戦っているんだよ!」
ヨルゲンは、手の中に握り締めていた血をジェイソンの顔面に投げ付ける。ジェイソンは最早何も言葉を発さず、震える手で顔に付着したヨルゲンの血に触れた。
テンが、突き放すように彼の襟首から手を離した。
「ブリッジから出て行ってくれ、ジェイソン。戦闘が終わるまで頭を冷やせ」
「………」
ジェイソンは無言のまま、袖で目を拭った。そしてそのまま立ち上がり、ふらふらとした足取りで自動扉の方に進み、ブリッジを出て行った。閉まっていく自動扉の動きが、アンジュにはやけに速く感じられた。
ブリッジ全体に、重い沈黙が下りた。ラボニやマリーの船を操縦する手は最早完全に止まり、ウェーバーのタイピングする音だけが静かに鳴り続ける。やがてそのウェーバーが、テンとヨルゲンの方をちらりと見た。
「お済みですか? なら、さっさと操船に戻って下さい」
相変わらずの冷たい口調が、自分たちを小馬鹿にしているものと思ったのだろう、ヨルゲンはかっとしたようにウェーバーの方に勢い良く振り向いたが、今度はテンが彼の肩を掴んだ。
「今は、それ以上の事をやっている場合じゃないだろ」
テンは、ついジェイソンを追おうとして出口に向かいかけた自分にも「アンジュ」と呼び掛けてきた。
「もうあいつの事は放っておけ。それより、これからは君がリーダーになってくれ、アンジュ」
「えっ、私?」つい声を出してから、すぐに顎を引いて考える。自分でも気付かないうちに、また袖口を指先で弄っていた。
確かに自分は、今まで大分独断で指揮を執ってきた。その結果は常に皆に受け入れられ、今まで来たのだ。この局面でジェイソンが追い出されてしまった以上、確かに頼られるのは自分なのかもしれない……
「……分かった。けど、私ももうどうしていいか分かんないわよ」
「いつも通りでいいんだ。とにかく、さっきまでの作業を続行しよう。……俺たちには、それしかないじゃないか」
テンが言った時、鈍い音と共に床が沈み込んだ。アンジュたちはまたもやよろめきそうになり、ラボニは「もう嫌!」と半泣きで叫ぶ。
「船底、損傷しました。浸水がエンジンに到達します」
ウェーバーの声に、幾分か焦りが混じる。それに危機感を増幅されたように、各員の手が再び操船プログラムを入力し始めた。
(それしかない、か……)
ジェイソンが叫び出した気持ちも分からないでもない、とアンジュは思った。自分も彼のように正直に不安を吐き出せたら、どれ程楽になれるのだろう、と考えると、やりきれない思いが込み上げてきた。