『破天のディベルバイス』最終話 天を破す⑤
⑤神稲伊織
「デスグラシア、ブラックバリアの解除を始めました!」
オペレーターの女子が叫ぶ。皆信じられないという面持ちで、窓の外に浮かぶ漆黒の船を眺める。ディベルバイスの側面に回ろうとするかの如く進路を変えるその船体は、変わらず黒いままだった。だが光を吸収し、逃がさないような闇はなく、船体の色だと明らかに分かる黒へと変化していた。
「外壁を壊された以上、もうバリアの意味はないと思ったのか?」
一人の男子が、ぽつりと呟く。だが伊織は、これでディベルバイスが優勢となった訳ではないだろう、と思い、気を緩めなかった。既に、こちらは敵の船内への侵入を許してしまっているのだ。
両船は互いに接近している。こちらも敵船への突入作戦を仕掛ける狙いがある為、チャンスといえばチャンスなのだが、こちらはもう戦闘機が二機のみとなってしまった。自分たちが不利、向こうが有利という状況は変わらない。
「慎重に行こう。外で戦闘態勢を継続している敵機はないんだ。アイリ、スカイ、聞こえるか? デスグラシアの外壁を崩す事は出来た、祐二の……身を賭した行動のお陰でな。理由は分からないが、ブラックバリアが解除されている。今のうちに、お前たちが先に突入してくれ。武器は中で確保するように。
俺たちは、一旦船から距離を取る。訓練生たちは丸腰だ、お前たちが入って、異常がなかったら後から突入させる」
『ちょっと待ってくれよ、神稲!』
スカイは、「アイ・コピー」と応える代わりにそう言った。
『その何処が慎重策なんだよ? フリュム船を二つも跨ぐ連絡って、俺たちに小型ヒッグスビブロメーターを持ってデスグラシアに入れっていうのか? それで武器もその場で調達なんて、無茶苦茶すぎる』
「いきなり全員を突入させるなんて、出来る訳がないだろ。今いちばん戦えるのは、お前たちじゃないか」
『ブラックバリアは解かれたんだ、このタイミングで重レーザー砲を使えば、デスグラシアを沈める事は叶う。パーティクルフィールドは、まだそこまで使っていないだろ? 一発撃てるだけの粒子は、ここにもあるはずだ』
「駄目だ!」
伊織は即答した。オーズが死に、その首を回収出来なくなった今、プランは変更するしかない。ブリークスを捕虜にする事は、フリュム計画を暴き、人類生存圏にその証拠を突き付ける必須事項だった。
「ブリークスは生け捕りにしなきゃならない。スペルプリマー全てを失った今、もう次の機会はない。ここで仮に奴を倒せたとしても、その後に待っているのはフリュム計画上層部の追撃だぞ。俺たちは……所詮、無力だ。無力だからこそ、日和っている余裕はないんだよ!」
『だからって……』
スカイが更に言いかけたが、伊織はその先を言わせない。彼の台詞を遮り、「アイリはどうした?」と尋ねた。
「おいアイリ、聞こえているのか? 俺は敵船突入の指示を出した。聞こえているなら応答しろ。撃墜された訳じゃないらしいな」
レーダーの信号を確認しながら呼び掛けるが、アイリッシュは無線を切っているのか応答しない。代わりに、スカイが発言した。
『あいつは地表に降りたよ。見えなかったのか、イカルスから打ち上げられた信号の光が? あれは、スペルプリマーが散る時の光だ。アイリは……あいつは、それを打ち上げた渡海を回収しに行ったんだと思う』
「祐二が?」
つい、動揺する。自分が何故動揺しているのかも分からないまま、伊織は半ば自棄気味に「嘘だ!」と言った。「認めろ、祐二は死んだんだ。俺も、お前たちも、どれだけ否定したって変えられねえんだよ!」
『神稲! そうやって逃げるのはやめろ』
スカイの言葉に、思わずかっとした。
「逃げている? それは、突入作戦をやる前からビビっているお前たちの方じゃねえか。第一……そんな光が見えたなら、何で報告してこなかった? 何で、アイリは通信を切る?」
『多分、お前が信じない事を恐れたんじゃないか?』
「何?」虚を突かれる。
『目で見ないうちから伝えたら、お前はきっとそうやって信じない。渡海は多分、お前に先入観なしで言葉を届けたかったんじゃないのかな。見てみろ、今アイリの機体が、そっちに向かっている』
「まさか……」
言いかけた時、「デスグラシアに変化あり!」と声が上がった。
「今度は何だ!?」
「船体から、煙のような物質が放出され始めています! 新手の攻撃?」
「ガス……いや、あれは」
誰かが呟いた時、スカイが唐突に声を上擦らせた。
『離れろ、あれはヴィペラだ! ディベルバイスの外壁、穴開いているだろう! 中に侵入したら終わりだ、皆殺されちまう!』
「おかしいよ、そんなの!」
報告を行った女子生徒が、彼に叫び返す。
「何で、フリュム船がヴィペラを使うの? 外壁からどうしてそんなものを発生させられるの? これから人為的に、ヴィペラ・クライメートが起こされるの? そんな事したら、この辺りのユニットや小惑星は全滅よ。宇宙連合が、そんな事をするものなの? それに……この船には、あいつらの仲間が乗り込んでいるはずじゃない。それまでまとめて、ブリークスは殺す気なの?」
信じられないとは伊織も思った。だが、女子生徒の最後の言葉を聞いた瞬間、それは伊織に、不思議な程に冷静な確信を与えた。
「……ブリークスなら、やりかねない。どういう原理でそのような事が出来るのかは分からないけど、間近で見て疑いようがないなら……」
自分の言葉に、皆が絶望的な表情を向けてきた。伊織は首を振り、自分も同じような顔をしているのかもしれないが、声にも感情が滲まないよう気を付けて指示を出した。
「外壁の重力発生機構をフル稼働させろ。穴が開いた以上完全に侵入を食い止める事は難しいから、出来るだけデスグラシアから距離を取れ。突入作戦は一時中断だ、ケーゼ隊は帰投し、指示があるまで待機しろ。
百年前のネメシスのように、地球を覆い尽くす程のヴィペラはさすがに発生させないだろう。その量では、船の質量を超えてしまう事になる。だが、濃度や範囲がどの程度の規模になるのかは、現状では明言出来ない。向こうにも外壁に損傷個所があるのだから、戦術的にこれを使用してきたのだとしたら、ヴィペラの影響を受けない方法が何かしら存在するんだ。それを見極める為にも、今からは観察と時間稼ぎに徹する事とする」
「……まだ、戦うつもりなのか?」
「当たり前だ。降伏も離脱も、許される状況じゃないんだからな。……ディベルバイス、デスグラシアの方向に四十五度回頭。Y軸マイナス方向に微速後退だ。居住区画の崩れた位置から、ヴィペラが侵入する事だけは防げ。防火シャッターは再度確認、敵は銃を持っているから、時間は掛かっても突破は可能なはずだ」
何処まで、自分たちの危機は続くのだろう、と思う。艦長席に座ったまま膝を握り締め、何としてでも勝たねばならない、と決意を新たにする。決してこちらは、勝機がない訳ではないのだ。
だが、皆は動かなかった。ただ黙って、絶望の表情を続けたままこちらを見つめている。その目には、憐れみの色すら窺えた。
伊織は苛立ち、乱暴に手を振った。
「何をしている? 早く動け!」
「神稲、俺たちさ……」
意を決したように、伊織から最も近い位置に居た男子が立ち上がり、こちらに歩みを進めてきた。その時何故か、伊織は「来るな!」と言って席から立ち、後退りしつつポケットをまさぐっていた。
無意識のうちに取り出した拳銃を、或いは、それを同じく自分でも気付かぬうちにその生徒に向けている事を悟った時、伊織は足ががくがくと震え出した。銃を向けられた彼は当然のように歩みを止めたが、それでも震えているのが彼ではなく自分である事に、伊織は途方もない違和感を覚えた。
「俺たち、もう……」
「言うな!!」
発せられた言葉を掻き消すように、伊織が声を上げたその時だった。
突然、窓の外にアイリッシュのケーゼが現れた。それは大きく旋回すると、ブリッジの正面に向かい合うかの如く停止した。
一瞬の間を空け、それが突進してきた。伊織や、舵取り組の生徒たちがあっと声を上げる間もなく、それは強化ガラスを突き破り、流線形の先頭部分を突き刺して穴を塞ぐようにしながらコックピットをブリッジに食い込ませた。
皆が唖然とする中、ブリッジの中でコックピットが開いた。アイリッシュに続き、数人の生徒がぞろぞろと降りてくる。明らかに、ケーゼに搭乗出来る人員数を超えていた。
「……伊織」
口を開いたのは、アイリッシュの後ろから進み出てきた祐二だった。その隣には、アンジュ先輩も居る。
「先輩……どうして?」拳銃を持つ手が、だらりと下がった。「死んだんじゃ……」
「死んだ? 何言ってるんだよ、神稲?」
自分の方に進んできた生徒が、疑念を孕んだ目で見つめてくる。他の生徒たちの視線も次々に自分の方を向き、伊織は自分の失言に気付いた。
祐二はヘルメットを外すと、伊織を真っ直ぐに見据えて言った。
「アンジュ先輩から全部聞かせて貰ったよ。君が戦う理由、フリュム計画との関係、それに……作戦の最終段階で、君がしようとした事も」
「何だよ、それ……?」
「星導師オーズは、先輩に全部話したんだ。彼女はウェーバー先輩の策略で、君に撃たれるところだった。君もそれで……どうしたらいいのか、分からなくなったんだろう?」
「祐二、何を言ってるんだ?」
伊織は、無理矢理口を笑みの形に変えようとする。頰が痙攣し、痛かった。
「俺、嬉しいよ、お前が生きていてくれてさ。これで一緒に、勝利を喜べるな。もう少し……もう少しで勝てるんだよ。旅が終わる、皆助かる。だからさ、また一緒に戦おうぜ。それが……」
自分でも、自分が何を口走っているのか分からなかった。祐二の顔を直視する事が出来ず、左手を挙げて顔の半分を覆いながら俯く。その手が濡れ、自分が涙を流している事に気付いた。
「恵留の為?」祐二は言った。「自分が本当の事を隠していたせいで、恵留を死なせてしまったって思っているの? ……違うよ、伊織。彼女はここに居る」
祐二たちが体をずらす。その背後から進み出てきた姿に、伊織は自分が幻を見ているのかと思った。
「伊織君」
自分の名を呼んだのは、恵留だった。長い間眠り続けていたからか足取りは蹣跚とし、千花菜に肩を支えられているものの、確かにそこに立っている。
恵留、と彼女の名を呼ぼうとし、声が出なかった。ずるい、と、誰に対してでもなく思った。彼女は、もう目を覚まさないはずではなかったのか。だから自分はこれ程後悔し、これ程自分に出来る事をしようと足掻いたのではないか。
「伊織君、あたしね……ちょっとだけ勘違いしていたみたい。伊織君があたしにくれていた重力、夢から出られないあたしの意識に、ちゃんと届いていたよ。伊織君は、あたしじゃない誰かを見ていた。それを、伊織君は”執着”って言っていた。そのせいであたしが、ああいう事になったんだって後悔していた。だけどあたし……伊織君の事、許すよ。ここまで伊織君がやったのは、あたしの事、ごまかしでも何でもなくて……今度こそ本当に、大事に想ってくれたからなんだよね?
あたし、伊織君が好き。それは眠りに就く前も、起きてからもずっと変わらない。だからあたしは、伊織君を許す。ありがとう、って言う。だから伊織君、これをあたしへの弔いだって思うなら……もう、無理しないで」
恵留の言葉は、増々瞼を痙攣させた。手の中に溢れた涙が、指の間からブリッジの地面に流れ落ちる。伊織は首を振りながら、その仕草が駄々をこねる子供のようだ、と感じた。
「だけど……俺たち、また逃げるしかなくなってしまう。お前にも、また怖い思いをさせてしまう。苦しませてしまう……俺は、お前が生きていたなら、尚の事……」
「忘れちゃった?」
恵留は千花菜の手を解くと、ふらつきながらもこちらに進んでくる。彼女は腕を伸ばし、伊織を抱擁しようとした。
「守って貰わなくてもいい。あたしは、ただ伊織君が傍に居てくれれば……どんなに苦しむ事になっても、これから逃げ続けなきゃいけないとしても、構わない。ただ同じ方向を向いて、悲しい事も全部共有したいの。伊織君には、独りじゃないって分かって欲しい。……我儘かな?」
「恵留……」
呟いた時、入口の自動扉が突然開いた。はっとして振り返ると、そこに銃を構えた護星機士たちが立っていた。後ろ手に恵留を庇い、拳銃を向ける。恵留が示してくれた未来をも彼らは奪うつもりか、と思うと、揺れていた心が再び焼き固められていくようだった。
「お前たちは……!」
「伊織君!」「伊織!」「神稲!」
皆が口々に叫び、伊織が引き金を引こうとした瞬間、
『無色のディベルバイス、ブリッジに告ぐ』
デスグラシアから回線を繋がれ、ブリークスの声が響いた。