『破天のディベルバイス』最終話 天を破す④
④綾文千花菜
廊下に顔を出して様子を窺うと、パイロットスーツを纏った二人の護星機士が、隣の部屋で先程まで千花菜が処置していたウェーバーの両肩を掴み、引っ立てていくところだった。彼の引き出されたらしい経路には、点々と血痕が残っている。彼らは怪我人相手でも容赦をしないらしい。
それでも千花菜は、ブリークスの部下たちがその場で生徒を殺さない事にひとまず安堵を覚えた。まだ何か、自分に出来る事があるかもしれない。
『エマージェンシー!』
ブリッジに居る女子生徒の声が、スピーカーから流れ出した。
『船内に敵が侵入しました! 危険なので、誰も自室の外には出ないで下さい! 部屋には必ず鍵を掛け、身近なものでバリケードを作る事。窓や扉の傍には寄らず、可能であれば身を隠せる場所を探してそこに入る事!』
それを合図にしたかの如く、廊下のあちこちに防火シャッターが降りてくる。ウェーバーを連行する敵の後ろ姿が、その後方に下がってきたシャッターに隠されて見えなくなった。
「ウェーバー先輩、やられたの……?」
恵留が、ぽつりと呟いた。一ヶ月間使われなかった喉が乾いているのか、声は砂の如く、細かくひび割れていた。
「恵留……」
千花菜は、彼女の手をぎゅっと握り締める。振り返り、崩壊した壁にメタラプターが接近してくるのを確認すると、その手を引いて部屋を出た。向かいの空き部屋に素早く移動し、中から鍵を掛ける。敵が向こうに去っている事から、この部屋は既に点検されたらしく、中に人は居ないと確認されたようだ。当分、敵は戻って来ないだろう。
部屋に入ると、恵留に「大丈夫?」と声を掛ける。彼女は覚醒から間もなく体に負担を掛けすぎたらしく、荒い息を吐いていた。
「あたしは大丈夫……でも、他の皆は? 伊織君はどうなったの?」
千花菜は、彼女がいじらしくなってぎゅっと肩を抱いた。彼女は今、ディベルバイスの置かれている状況も、ここが火星圏を遠く離れたイカルスである事も分かっていないだろう。昏睡する前の痛みと恐怖は既に蘇っているだろうし、目を覚まして突如放り込まれた状況にも戸惑い、怯えているに違いない。
それなのに、彼女は自分の事よりも伊織の安否を思っている。彼女は、伊織が自分を恋人と呼んだ事も、今彼が自分の弔いとばかりにフリュム計画に挑んでいる事も知らないだろう。
「恵留、あのね……伊織は……」
何から話していいのか分からず、千花菜は声を詰まらせる。恵留は数回咳払いすると、千花菜ちゃん、とこちらの名を呼んできた。
「あたし、多分今伊織君がしている事……分かるよ。そのせいで、伊織君自身も傷ついている事。皆から怖がられて、恨まれてすらいる事。……あたし、知ってる。彼が自分を犠牲にして、旅を終わらせようとしているんだって」
「えっ?」
千花菜は思わず、恵留の顔を見つめる。しかし、彼女は憶測で言葉を発しているようには見えなかった。その表情は、深い感謝と哀愁、そして悟りすら窺わせるものだった。
「恵留、伊織のしている事を知っているの? 犠牲ってどういう事?」
つい矢継ぎ早に質問を浴びせてしまう。恵留は微笑した。
「伊織君が、眠っているあたしの夢に何度も出てきたの。俺のしている事、絶対に間違っていないよな、って、何回もあたしに聞いてきて……あたしは、それに答える事が出来ない。何かを答えられても、彼には届かない」
おかしいよね、と彼女は言った。「たかが、夢なのに」
千花菜は、それはただの夢ではないかもしれない、と思った。伊織は恐らく、モデュラスをも超越した何らかの存在になっている。強い感情が重力干渉で、他者に訴えかける可能性はある。
「それで……伊織君、これはあたしへの償いでもあるって言うの。自分の作戦が成功した時、彼は罪を背負って死ななきゃいけないんだ、って。伊織君、あたしがもう、目を覚まさないって思っていたんだね」
「恵留は……」千花菜は、声を低めて囁き掛ける。「伊織に、どう答えていたの?」
それは、彼女が伊織に何をどう言いたいのか、という問いでもあった。
危険は承知だ。だが千花菜は、恵留を伊織の元へ連れて行かねばならない、と自然に思っていた。彼は心から、恵留と話したがっていたはずだ。叶う事ならもう一度、と。それが、現実になったのだ。
「嬉しいけど、あたしは伊織君にそんな事、して欲しくない」
恵留は表情を引き締め、くいっと顎を上げてこちらを見つめてきた。
「あたしは生きている。こうして、目を覚ます事だって出来た。もしも、あたしが居ないから伊織君が自己犠牲を選んだんだとしたら……そんなのは、悲しすぎる。伊織君があたしに本気になれなかった事、あたしは分かっていた。だけどその彼が、せっかく本気であたしを好きになってくれたなら……あたしが伊織君にして欲しい事、死ぬ事なんかじゃないよ」
千花菜は聴きながら、はっとした。自分が祐二に、守って貰いたいのではなく、ただ傍に居て欲しい、と思っていたのと同じだ。いつか、祐二と伊織が言い合っていた通りだったのだ。
(祐二……)
一号機が撃墜された事を思い出し、千花菜は胸を押さえた。
恵留には、このような思いを味わわせたくはない、と思った。彼女はここまで、伊織を好きで居続けたのだから。
「千花菜ちゃん」彼女は言った。「あたしを伊織君の戦っている所まで、連れて行ってくれる? 彼と、ちゃんと話をする為に」
「……分かった」
肯き、廊下への扉を開ける。そこで、現実に気付いた。
「でも、どうすればブリッジまで行けるのかな? 本当に全部の防火シャッターが降りているんだとしたら、まさか壊す訳にも行かないし……」
「外に居る皆に頼むのは?」
恵留は、ありがとう、と小声で言ってから指を立てた。
「せっかく、っていう訳には行かないけど、外壁に穴が開いたでしょ? 空気が完全に抜けてしまうまでは時間があるし、何か目印になる信号を出せれば……処置用の部屋だから、ライトもあると思うし」
「それが……」
千花菜は、再び胸の疼きを感じる。
「実戦部隊はね、もうアイリ君とスカイ君しか残っていないの。侵入が開始された以上、メタラプターはもう爆撃で船には攻撃しないと思うけど、その二人は今デスグラシアに直接攻撃を仕掛けに行って、居ないのよ。祐二は……通信が途絶えた。きっともう、生きては……!」
自分で言い、目から涙が零れそうになった。恵留を引っ張るのは自分であったはずなのに、と自虐的に笑おうとしたが、唇の端が数回戦慄いただけで、当然のように上手く行かない。
その時、恵留はこちらの背中に腕を回し、抱擁を返してきた。
「そうかな? あたし……今祐二君を感じるよ」
「感じる……?」恐る恐る、彼女を見る。冗談を言っている目ではなかった。
「千花菜ちゃんも、よく聞いてごらん。……ほら、彼が居る」
まさか、と思いながらも、意識を集中しようとする。
刹那、遠い場所で、確かに何かが響いた。
「………!」
気付けば、千花菜は扉を蹴り開けるように開いていた。廊下を跳び越え、恵留の寝かされていた病室に駆け込むと、突風に抗い、鼻と口を押さえるようにしながら足を進める。
遠くで、小さな、しかし確かな光が明滅していた。
──千花菜! 恵留、大丈夫!? 攻撃された場所は……
その頭に直接届いてくる声に、千花菜は目を見開いた。空気が抜けていく事にも構わず、明滅し、近づいてくる機体を凝視する。背後から恵留が続いてきたが、彼女が浮かべている表情を見る余裕はなかった。
それが実戦部隊のケーゼだと分かった時、そしてコックピットが見えるようになった時、千花菜は咽びそうになりながら懸命に手を振った。届くはずもないのに、声を上げて叫んでいた。
「祐二!」
向かって来るのはアイリッシュの機体だった。コックピットにはやや狭そうに、祐二と、驚く事にアンジュ先輩が乗っている。二人とも、スペルプリマー搭乗の際着用するパイロットスーツを身に着けていた。
何故アンジュ先輩まで、と思ったが、千花菜はその疑問を封じ込め、廊下側の壁まで下がる。ケーゼが壁の穴まで寄って来ると、千花菜と恵留は開かれたコックピットに乗り込んだ。
「重量オーバーだ」アイリッシュがぼやいたが、千花菜は「失礼ね」と返し、そのまま身を詰める。彼自身も、危険運転だと分かってはいるようだが、千花菜たちを放り出すつもりもないようだった。
「祐二……生きていたの?」
「何とかね」勝手に死んだ事にして貰っては困るな、などと気取った台詞を言えないのは、彼の変わらないところだ。
「スペルプリマーの残骸で信号を上げた時、メタラプターにまで向かれた時はちょっと覚悟した。だけどアイリが命懸けで活路を開いて、来てくれた。もう、船に入った奴ら以外の敵戦闘機部隊は外に居ないよ」
祐二はこちらに視線を向けると、恵留を見て微かに目を潤ませた。
「恵留、デスグラシアの艦首砲に巻き込まれたんじゃないかって心配だった……そしたら、ただ巻き込まれなかっただけじゃなかったんだ……まさか、目を覚ましていたなんて……」
「祐二君も、あたしがもう起きないって思っていたの?」恵留が尋ねる。
「そうじゃない、僕は……」
おかしいな、と彼は呟き、ヘルメットのバイザーを上げて目尻を拭った。
「諦められなかった。だから、デスグラシアの攻撃を受けた時はどうしようって思ったんだ。だけど……本当にまた目を覚ますって、信じられていなかった僕も居る」
「……伊織君も、きっとそうよ」
アンジュ先輩が発言する。千花菜、恵留は彼女の方を見た。
「ところで、先輩はどうしてここに居るんですか? スペルプリマー用のスーツまで着て……」
「アイリ君にも言ったけど、それは話すと長くなるの。でも私、その件で伊織君のしようとしている事、彼が秘密にしていた事、全部分かったわ。祐二君も……彼ともう一回、ちゃんと話したいって言っている」
「あたしもです」
千花菜が更に問いを投げる前に、恵留が小さく手を挙げた。
「作戦が終わったら、どういう形であれ伊織君は死ぬつもりなんですよね?」
「どうしてそれを……」アンジュ先輩は言いかけたが、それ以上深く追及はしなかった。「そうね。だけど、私も祐二君も、それは受け入れられない」
「はい、あたしも。だって彼はあたしの……大切な人だから」
「決まりだな」
アイリッシュは、座席の下に置いた小型ヒッグスビブロメーターを見る。
「これがあれば、このケーゼでもブリッジとは通信出来る。だけど渡海も美咲も……直接神稲に会って話したいんだろ?」
「危ない事を頼むとは、分かっているの。だけど……お願い出来る?」
アンジュ先輩は、祐二と恵留を交互に見て言った。アイリッシュは寸刻も躊躇う事なく、「アイ・コピーです」と答える。
「ちょっと乱暴な方法ですが、やるしかないですよね」
危険運転だからちゃんと掴まっていろよ、と皆に言うと、彼はケーゼを急発進させた。船体の周囲にケーブルで接続されたメタラプターたちを避け、艦首の方へと周り込んで行く。
千花菜は、祐二と恵留の手をしっかりと握った。
二人が、伊織と何を話すのかは分からない。降伏したら命を奪われるのだからそれを促す訳には行かないが、故に彼の作戦を挫くのだとすれば、また自分たちは何処かへ逃げる道を選ぶ事になるだろう。
彼らは、その苦しみさえも彼と共有する為に対話を選ぶのだ、と思った。
──だって、私たちはいつも、四人で一緒に居たんだから。
その事実だけは、変わる事はない。