『破天のディベルバイス』第21話 明滅する宇宙⑤
⑤アンジュ・バロネス
コックピットハッチを開けようとするが、相変わらず開かない。やはり、制御系の全てがエインヘリャルⅠに乗っ取られつつあるらしい。
エロス近傍での戦闘の際、アンジュは重力干渉をⅠに対して行う事で、そちらの動きにある程度制限を掛けられていた。それを行わなかったら、ワープする寸前、ディベルバイスはブリッジを潰されていただろう。しかし、シェアリング中とはいえ機体全体を動かすのは、脳にかなりの負荷を掛ける事だった。それだけ、Ⅰを動かしているモデュラスの重力出力が凄まじいという事だ。
(伊織君……)
フリュム船、常闇のデスグラシアがエロスに停泊している間、アンジュは懸命に機体を動かそうとしながら、Ⅰのモデュラスの事を考えていた。
エインヘリャルⅠは、恐らく無人か、搭乗者であるモデュラスが殆ど操縦をしていない。恐らく、同化され、システム上にコピーされた前任者の脳回路がそれを行っている。そしてその脳回路が、本物の神稲伊織である事をアンジュは察していた。オーズが言っていた通り、Ⅰに同化した伊織がⅡに重力干渉を行い、取り込もうとしているのだ。
常時シェアリング状態を通し、アンジュの頭の中には、本物の伊織が放つ怨念のような激しい感情が流れ込み続けていた。脳波を発生させるべく、モデュラス回路により増幅されたその黒い感情は自分を蝕み、精神を崩壊させてしまうのではないか、とすら思えた。
Ⅱの制御が完全に奪われ、全ての操作を彼に掌握された時、何が起こるのか。自分は文字通り電池、部品として、重力を捻出する為に脳を絞られ続けるのか。そうなった時、自分は確実に死ぬに違いない。ウェーバーに謀殺されかけた恐怖を思い出し、アンジュは背筋が震えた。
(私、やっぱり軍人なんて向いていなかったのかしら……)
宇宙連合軍護星機士団。治安維持の為だけに存在する戦力。
百年以上、大々的に行使される事のなかったそれが、過激派との本格的な戦争に使用される事になった。そのタイミングで、自分は進んで訓練課程に志願した。いつか前線に出、死と隣り合わせになる事も分かっていた。命の選択をせねばならなくなる事も、敵を殺す事も。実際に、アンジュは自ら手を下さなかったとはいえ、その言葉で仲間たちに護星機士を殺めさせた。今朝も、ウェーバーを密殺するという昏い衝動を抱えながら、エインヘリャルⅡに搭乗した。
死を恐れるのは、生物の根源的な本能だ。それが、戦場では卑怯な事だといわれるようになる。殺される覚悟を持たずに敵を討ってきたのなら、自分はやはり軍人であるべきではない。
──お前は……この船が直面している戦いと向き合うには、優しすぎる。
いつか、ダークに言われた台詞が蘇った。結局、それが自分の本質だったという事なのか。優しさだけで仲間を守る事が出来ないからこそ、伊織はディベルバイスの指揮権を奪うという行動に出たのか。
それが、最適解となる世界に、自分たちは放り出されてしまったのか。
(私……こんなの……)
思った時、突然聞き覚えのある声が何処からか響いた。
『アンジュ! アンジュ・バロネス! 聞こえるか?』
「えっ?」
アンジュは戸惑う。回線を見たが、当然デスグラシアとのそれは繋がっていなかった。シェアリングで直接脳神経に届いたのか。しかし、今の声は伊織のものではなかった。
『俺だよ!』声は続ける。『ベルクリ・ディオクレイだ! 大型一種操船課専攻の、ガリバルダとバディを組んでいた……』
「ええっ!? ベルクリ……?」
アンジュは、つい声を上げた。養成所時代、クラスは違ったが、何度か授業で顔を合わせた事があった。その彼が、エインヘリャルⅠに乗っている。やはりブリークスに騙され、スペルプリマーに乗せられた後本物の伊織に機体を奪われた、という事だろうか。
質問したい事は山程あったが、ベルクリはそれを察したらしく、アンジュが問いを発する前に説明を始めた。
『俺は、ナウトゥのパイロットだった。お前たちと、これまでにも戦ってきているんだ。ガリバルダが死んで、エルガストルムが撃沈されて、俺も宇宙空間を漂っていたところをダイモス戦線の宗祇少佐に救出されたんだ』
「宗祇……」
フリュム計画の最高機密を知り、オーズやダークにとっては仇同然の人間。アンジュは無意識に、操縦桿を握る手に力が込もった。
『ブリークス大佐の陰謀は、全部聞いた。ガリバルダを死に追いやり、お前たちや養成所の訓練生たちを殺そうとした事も。彼らは、大佐を殺すように言った。それで俺は……復讐心から、月面でセントーの襲来に備えている大佐の元に向かった。そして返り討ちにされて……気付いたら、このエインヘリャルの中に居た。機体が起動された瞬間、システムが勝手に乗っ取られた。今は、何とかシェアリングで会話だけは出来るみたいだけど、その理由も分からない』
聴きながら、何となくアンジュには察しがついた。本物の伊織は現在、Ⅱのシステムを掌握するのに手間取っているらしく、ブリークスが元々操縦させる予定だったベルクリがある程度機体を動かせる状態なのだろう。
そこで新たな疑問が浮かび、アンジュは彼に尋ねる。
「ブリークスは、あなたが自分に殺意を持っている事を知っているのよね? 何で、そのあなたに機体を任せようとしたのかしら?」
『元々、エインヘリャルは大佐がドローンで操る予定だったらしいんだ。俺は、単なる重力捻出機構として乗せられているだけなんだよ。だけど、こうして機体が乗っ取られているのも、ドローンのせいなのか? 俺も一応、局部なら動かせるみたいだけど……』
ベルクリの声が、そこで空気を詰まらせたように潰れた。
『もし動かせたとしても、俺は大佐に手出しが出来ない。彼の心拍が止まったら、俺の仲間たちが居るリージョン五の宿舎が爆破されるように仕組まれているんだ。また……仲間の多くが犠牲になってしまう』
「それって……!」
アンジュは、ぞっとしてコックピットに視線を落とした。
この機体が勝手に動くのは、ドローン技術などではない。フリュム計画に強い恨みを持つ、本物の伊織による干渉だ。ブリークスも、実際に操縦する術を持っているのが彼自身だとしたら、エインヘリャルがその意思とは関係なく動く事に疑念を抱いているだろう。
今エインヘリャルは、デスグラシアに従属するような動きでディベルバイスへの攻撃のみに徹している。だがいずれは、機会を見て、デスグラシア本体にも攻撃を仕掛けるに違いない。もしもそれで、ブリークスが殺されるような事があれば。
『………? どうした、アンジュ?』
「ベルクリ」
アンジュは、意を決して口を開いた。
「ディベルバイス、そしてあなたの仲間たちを助けるには、この機体を戦場から追放するしかないわ。今この機体は、ドローンじゃなく……コンピューターウイルスに乗っ取られているの」
酷い表現だな、とは思ったものの、同化や伊織の事を話せば長くなる。アンジュはとにかく、これから自分が行う危険な作戦に、ベルクリが協力してくれる事を約束して欲しかった。
「私、ラトリア・ルミレースと戦っている時に捕虜にされちゃって……それで隙を見て逃げて、脱出しようとした時、この機体があったの。多分、前にもデスグラシアはオーズと戦っていたんだと思う。……きっとこのままじゃ、エインヘリャルは完全にウイルスに冒されて、全てを破壊するかもしれない。ディベルバイスも、デスグラシアも。そしたら、あなたの仲間たちも──私の同期生、友達も、また多くの命が失われる事になる」
『それじゃあ……』
「デスグラシアは、表面にワームバリアを張っている。この性質がワームピアサーと同じなら、私たちは重力出力最大で突っ込んだ時、何処かのブラックホールにワープ出来るかもしれない。……彼らに手が出せない、もう赤方偏移の観測圏内に戻って来る事が、出来ないような場所まで」
『ちょ、ちょっと待ってくれアンジュ』
ベルクリの声が、狼狽するように高くなった。
『銀河の中心にあるような超大質量のものでもない限り、ブラックホールのシュバルツシルト半径約三キロ、重力源からそんな位置に近づいたら、スパゲッティ化現象で俺たちは……』
「体を細く引き伸ばされて死ぬ。ワープが済んだタイミングを慎重に見極め、重力を振り切る事が出来なければね」
恒星が寿命を終えて誕生するブラックホールなら、事象の地平面に到達する前に、人体に干渉する重力はあるラインを越えた瞬間指数関数的に増加する。そうなれば人は、頭から爪先まで大きさのかけ離れた重力干渉を受け、体を引き伸ばされる。いわゆる、スパゲッティ化現象と呼ばれるものだ。
アンジュは平然と言ったが、生存率はかなり低くなる作戦だろう、と思った。まず同化されないよう細心の注意を払い、システム上の伊織から操作を取り戻す。その後デスグラシアのワームバリアを、その時点でスパゲッティ化されないように抜け、何処かのブラックホールにワープしたらそれもまた、重力が急増を始める場所まで落下しないにうちに最速で抜ける。
だがこの作戦は、第一関門すら突破すればまずエインヘリャルを戦場から排除する事は出来る。自分たちの命がどうなるのかは、その後の話だ。
「制御系がウイルスに完全に乗っ取られるまで、どれくらい掛かるのかは分からないわ。でも、こうしてまだ私たちは、重力干渉で機体を動かす事が出来る。……ただ逃げるだけじゃ駄目。デスグラシアから完全に逃れる前に、ウイルスが全てを冒してしまう」
『………』
ベルクリは黙り込んだ。お願い、協力して、と言ってみるが、リスクが大きすぎる故にそこまで他人に強制出来る事でもないよな、と反省する。だが、他に策は浮かばなかったし、もう一つ危惧すべき事があった。
機体に宿っている本物の伊織が、デスグラシアに攻撃を仕掛けようと接近を試みたら。自分とベルクリは、何の用意もないままにワームバリアへと呑み込まれる可能性がある。そうなったら、生き残る可能性は皆無だ。
自分を見つめ直し、おかしなものだな、と思った。
仲間たちを救う為なら、自分の命を投げ出しても構わない。この作戦には、そのような意思が表れている。それなのに、自分はまだ、生きられるものなら生きたいと願っている。
『……分かった』
やや間があって、ベルクリが小さく、しかし確かな声で返答した。
『俺も、同じ覚悟だよ。ガリバルダが死んだ後、俺、ずっと死んでも構わないって思っていた。刺し違えてでも、これ以上の悲劇を起こさない為にブリークス大佐を止めるんだ、って。でも、今大佐を殺す事が多くの仲間を犠牲にする事なら……俺は、皆が救われる方法を採りたい』
「ありがとう……ベルクリ」
アンジュは、滲みかけた涙を指先でそっと拭った。
きっとそれは、彼への感謝だけではなく、もう自分が皆と会う事はないのだ、という悲しみの気持ちでもあった。
赤方偏移の観測圏外に出てしまったら、ヒッグス通信で信号を放ったところで、この時代の人類生存圏にそれが届く事はない。遠い未来の世界となったここでは、ワープ技術など一般化し、外宇宙に行った自分たちが救助される可能性がない訳でもないのかもしれない。
それでも……もう、自分はユーゲントの皆にも、祐二や千花菜たちにも、そしてダークにも、会う事は叶わなくなる。
(それでも……)
目尻の雫を払った手を、アンジュはぎゅっと握り込んだ。
それでも、懸命に生きようとしてきた皆が、その生きたいと願う気持ちを、無駄なものだったと思わない為に。自分のその願いは決して、一度私情から危険に晒し、希望を奪った彼らへ許しを乞うようなエゴではなかった。