『破天のディベルバイス』第21話 明滅する宇宙③
③神稲伊織
──絶対に、俺は許さねえ。
本物の神稲伊織の声が響いた時、思わず悲鳴を上げていた。実際に叫んだらしく、伊織は喉に痛みを覚えながらがばりと起き上がる。途端に全身に疼痛を感じ、思わず呻いて体をくの字に折った。
「あ、伊織! 駄目よ、いきなりそんなに動いちゃ」
傍で声がし、伸びてきた手が自分を再びベッドに横たえる。視線を向けると、千花菜がこちらを覗き込んでいた。その後方ではウェーバーが、無言のまま視線を伊織に固定させ続けている。思わずはっとし、咳き込むように尋ねた。
「敵は? デスグラシアはどうなったんだ? 俺は、何時間眠っていた?」
「ちょっと、そんなに焦らないで」
千花菜は言い、少々考えてから答えた。
「気絶してから、二時間も経ってはいないはずよ。でも、船へのダメージが酷くって……丁度十分前くらいに、ワームピアサーで一時的に離脱したの」
「現在地はイカルスです。火星の公転軌道外から、近日点は水星より太陽に近い距離までに至る広大な公転軌道の小惑星ですが、現在ではどちらからもそこまで近くはないようですね」
ウェーバーが付け加える。伊織は、やってしまった、と頭を抱えた。
「悪いな、俺がやられたせいで……」
「伊織のせいじゃないよ。祐二もケーゼ隊の二人も、再登用された射撃組も一生懸命戦ってくれた。でも、デスグラシアに攻撃が効かなかったの」
千花菜の言葉に、伊織は思わず彼女の顔を見つめる。
「攻撃が効かなかった?」
「祐二曰く、マイクロブラックホールみたいな異常重力の膜を纏っているみたいで……攻撃しても、吸収されちゃうんだって。それに近づかれて、触れられたらスペルプリマーだろうが容赦なく分解されるだろう、って……勿論弱点はあるんだろうけど、どうやってそれを見つければいいのか分からない」
彼女は目を伏せ、「ごめん」と言った。
「目を覚ましたばっかりの伊織に、こんな話しちゃって。でも、デスグラシアはきっと私たちの居場所を突き止めてまた向かって来る。私たちが気付いていないだけで、フリュム船の持つ基本的な能力なのかもね。……だから、時間がないの。逃げ回る事だって、いずれ限界が来るし」
「……やっぱり、寝ている場合じゃないよな」
伊織はベッドから立ち上がると、部屋を出ようとした。エインヘリャルの中に、本物の伊織の脳回路が残っていた事はショックだったが、体にはそこまで傷を負っている訳ではない。だがその時、ウェーバーが再度口を開いた。
「神稲さん。星導師オーズは死にました。あなたの目的の為に必要な条件は、クリアされたはずでは? これ以上、戦う必要がありますか?」
「必要って……」
彼が、千花菜の前で自分の正体を明かすのではないか、と考え、伊織はつい緊張が走った。同時に、デスグラシアがいつまた襲ってくるかも分からない状況で、戦闘を放棄するような言葉に反感も抱いた。
伊織は咳払いすると、ウェーバーを睨みつける。
「肝腎の通信手段がないんだぞ。今戦いをやめたら、それは投降と同じだ。それに……頼みの綱だったオーズの首も、もう回収出来ない」
「ね、ねえ」
言った時、千花菜がこちらの袖を引いてきた。焦燥や苛立ちが滲まないよう、声を抑えながら「何だ?」と尋ねる。
「そろそろ教えてよ。伊織とウェーバー先輩、どんな作戦を立てていたの? オーズの首って何? どうしてオーズを討てば、フリュム計画が私たちの命を狙わなくなるの? ……祐二、何も分からないまま戦っているのよ。伊織が気を失っている間、ずっと独りで……伊織、あのエインヘリャルと戦って、何を見たの? それは、伊織に何か深い関係のある事なの? もう、隠さないでよ。心配しているの、私も祐二も同じなんだから」
つい舌打ちが弾けそうになるのを堪え、拳を握り締める。
千花菜は、既にある程度勘付いているのかもしれない、と思った。だが、真実を明かして軽蔑されるのも、同情されるのも今は駄目だ。自分はこの方法でディベルバイスを救ったら、最早生きている事は出来ない。その事も、千花菜に言えば、確実に作戦を邪魔される。
恵留の為だ、と彼女は言うのだろう。恵留の為に、伊織は生きねばならないのだ、と。だが、恵留が再び目を開く可能性を信じられる程、宇宙が自分に優しいものだとは思えなかった。
不意に、何故そこまで躍起になっているのだ、と、心の中で冷めたような自分の声が言葉を発した。雑音だ、と思い耳を貸すまいとしたが、やけに冷静な、それで居て徒労感に満ちたその声は、伊織の中で次第に大きく谺した。
『自分自身がオーズの分身であるという事は、証拠を以て示さねばならなかった。オーズの素顔を知る人物は誰も居ない。だから彼の首は、お前が事実を公表する為に必要だった。それが今、失われてしまった。次の証拠は、きっとボストークでフリュム計画の上層部が握り締めて離さない。
……これ以上戦っても、どうにもならないじゃないか。お前も、もうこれ以上背負い込むのは辛いんだろう? 言ってしまえばいいんだ、自分が独りで頑張った事、それでもここまでしか出来なかった事。皆だって、もうそろそろ楽になりたいに決まっている。何回も色々試して、その度ディベルバイスは救われなかった。お前の計画も潰えた今、もうやれる事はない』
──俺の計画は、潰えた。
現状を聞いてから、否、デスグラシアが姿を現した時から、頭では分かっていた事だ。だが、エインヘリャルと交戦した後、何が何でも戦い抜き、敵船を駆逐せねばならない、という思いは膨れ上がっていた。
神稲伊織。自分が名前を借りた、自分と同じ遺伝子を持つ、オリジナルの自分にとって双子の兄だった少年。語弊が生じるのを承知で敢えて比喩的な言い方をするならば、その亡霊は荒ぶり、憎悪と共にこの船を沈めようとした。それを自分の手で供養する事は、あの不幸な事故があったからこそ生を受けた代用品の自分にとって、ある種のけじめだとすら伊織には考えられた。
自己満足だ、と言われればそれまでなのかもしれない。だが、それでも自分の中では、エインヘリャル──本物の伊織を倒さねばならない、という思いが、理屈ではなく渦巻いていた。
「ねえ、伊織ってば……」
自分が黙り込んだ事を怪訝に思ったのか、千花菜がまた言いかけた。が、その時彼女の声はいきなり途切れた。
伊織が、あっと声を上げる間もなかった。突然、ウェーバーが左腕を伸ばして彼女の頭部に回した。肘の関節をその口に当て、袖を噛ませるようにして声を封じる。千花菜の目が見開かれ、伊織の袖を掴んでいた手がだらりと落ちた。彼女はそのまま両手を上げ、ウェーバーの腕を振り解こうとしたようだったが、その試みは失敗に終わった。
「……喋らないで下さい」
ウェーバーは言うと、ポケットに右手を突っ込み、徐ろに何かを取り出す。それを見て、伊織は息が止まりそうになる。宇宙連合軍が使用する拳銃。何故そのようなものを持っているのか、と問い質すよりも早く、彼は「あなたも喋らないように」と言い、千花菜の顳顬にその銃口を押し当てた。
伊織は叫び出したい気持ちを抑え、数歩後退りつつ、
「何の真似だ?」
弱気になって付け込まれる事がないよう、今まで指示を出し続けてきたのと同じ声で問い掛けた。ウェーバーの顔は全くの無表情だったが、今まで感情をあまり表に出す事のなかった彼なので、特段彼自身が危険な本性を現した、というようには見えなかった。それが、余計に不気味だった。
ウェーバーは、「あなたにお願いがあるんですよ」と言った。
「スペルプリマー二号機は、専属のモデュラスを失ったとはいえ健在です。尚もあなたが戦う事を選ぶのであれば、二号機を用いて頂きたいのです。……私が、密かに自爆用のプログラムを加えておきました。エインヘリャルに接近し、それをぶつけてあの機体を葬るのです。無論、あなた自身はプログラムが作動する前に脱出出来るように……」
彼が皆までを言う前に、伊織はそれを遮った。
「あんたは、それと同じような事を言ってアンジュ先輩を殺した」
「………!?」
千花菜の目が、眦が裂けそうな程に見開かれた。嘘、と口を動かしたようだったが、ウェーバーの肘に口を塞がれ、その声が漏れる事はない。
「あんたが、次にどんな悪巧みをしているのか分からない。千花菜を人質にしてまで交渉の材料にしてくるような事だ、企みがないっていうなら、それを俺にも分かるように説明してくれ」
伊織が言うと、彼の眉がぴくりと上がった。
「人質の意味を分かっていながら、あなたに拒否する権利があると思っているのですか? それとも、綾文さんを見捨てるつもりですか?」
卑怯な言い方だ、と思った。自分から行動を起こしておきながら、責められるべきはこちらだ、と思わせるような口振り。仕方なく共犯のような関係には陥ったが、彼はやはり危険人物だ。自分の行動を支持したという理由だけで謹慎を解き、指揮の多くを彼に委ねた自分にも、甘さを感じた。
「……あんたの目的は何だ? 俺は元々……本来のプランを成し遂げたら死ぬはずだった。命なんか惜しくはない。だけどそれが、あんたの悪い目論見に手を貸す事になるのは嫌だな」
伊織が自分の死を口にした事で、千花菜は増々驚愕を色濃くする。ウェーバーは、腕が軋む音が響く程力を込め、彼女の頭部を巻き絞める。
「愚問ですね。あなたと同じく、ディベルバイスが救われる事のみが私の行動理念ですよ」
「言っている事とやっている事が違うんじゃないか? 俺だって、皆に対して脅迫という手段は使った。あんたが千花菜を殺すなら、その理念は破綻する。ブラフなら、俺は絶対にそれには屈しねえ」
「そうですか」
言うや否や、突然ウェーバーは千花菜の頰骨の辺りに銃口を当て、微塵も躊躇う素振りを見せずに引き金を引いた。あっ、と声を上げる間もなく、カッターで引いたかの如き銃創が走る。皮膚と肉に沿うように浅く撃たれたので、激痛は走ったようだが彼女が倒れ込むような事はなかった。
だが、そのような判断が出来る余裕は、伊織には与えられなかった。頭の中で、かっと血液が沸騰したのではないか、と思われた。千花菜の目から涙が、傷口から血液が溢れ出した瞬間、伊織はウェーバーに飛び掛かっていた。
主導権を掌握したと思い込んでいる彼は、自分が動く事など想定していなかったようだった。無表情だった彼の目が見開かれ、まだ先程の硝煙を縷々と立ち昇らせている銃口をこちらに向けてくるが、そのような咄嗟の構えなど、エスベックの知覚能力を持つ伊織には無意味だった。
「この野郎!」
伊織は彼の腕の下に滑り込み、頭を捻じ込んで千花菜を彼から引き剝がした。彼女をベッドの方に押し退け、ウェーバーの腕を捻り上げて力を奪う。その手から拳銃を捥ぎ取ると、腰の辺りに銃口を押し当てた。
そして、気付いた時には引き金を引いていた。ウェーバーは苦悶の声を上げ、床に倒れ込む。ズボンに、じわじわと血が滲み出してきた。
「い、伊織……!」
千花菜は自分の傷口を押さえていた手を、ゆっくりと口元へ下ろす。血を顎から滴らせながらも、それを拭おうともしなかった。ただ、無言で伊織の弾に倒れたウェーバーが呻く姿を見下ろしていた。
手から、拳銃が床の上に零れ落ちた。伊織は呆然と両手を上げ、それを撃った自分という事実を反芻する。だが、それは知覚出来ても、理解が出来ない事だった。認めたくない、という思いが、自分に消化を許さなかった。
自分は今、何をしたのか。
決まっている。守ると決めていたディベルバイスの船員を──それが、危険人物のウェーバーだったとしても──撃った。明確な殺意を持ち、殺そうとした。最早、自分に彼を咎める資格などないような気がした。
「俺は……俺は、何を……?」
「伊織、何やっているの!」
千花菜は、頭を振って立ち上がった。先程まで、自分に処置を施す為に用意していたらしい手術用具や薬、包帯などのワゴンを荒々しく引き寄せ、ウェーバーの横に屈み込む。
「彼を死なせたら、伊織が殺した事になっちゃうよ! 手当てしなきゃ、早く人を呼んできて。あと、何で先輩がそんなもの、持っていたのか分からないけど……誰かにこの事、ちゃんと言って……」
千花菜は傍に落ちている銃を拾い、言ってくる。だが伊織には、最早何も頭に入ってくる事はなかった。茫然自失となった脳裏で、今ごく自然に千花菜の突き付けた事実が回転していた。
(俺が……人殺し……)
口元がわなわなと震え、喉の奥が顫動する。嘔気が込み上げ、今にも吐瀉するのではないか、と思った。
腹に力を入れ、辛うじてそれを抑え込むと、伊織は千花菜の手から拳銃を奪い取った。徐々に広がる血溜まりから跳び退くように足を縺れさせ、回れ右をすると、扉を開けて部屋を飛び出した。
「待って、伊織!」
千花菜の声を遮るように、後ろ手に扉を閉め、逃げる。
だが、自分の中で脆く崩壊しかかった大義名分は、尚も自分が現実から逃避する事を許さないようだった。無我夢中で駆けているうちに、伊織はブリッジへと辿り着いていた。道中の防火シャッターのうち、伊織が船内システムの重力感知を利用し、操作していたものは自分が気を失っている間に制御が途切れたらしい、ブリッジに着くまで、封鎖されている区画は通らなかった。
ブリッジに駆け込むと、第四次舵取り組のメンバーたちは、突如意識を取り戻して駆け込んで来た自分を見て驚いたらしく、口々に伊織の名を呼んだ。だが、伊織にはそれに応じる間もなかった。
「状況を知らせてくれ」
艦長席に座り、傍らにある小型ヒッグスビブロメーターの無線機を操作しつつ、端的に呼び掛ける。男子生徒の一人が真っ先に我に返り、「あ、ああ」と応じた。
「船内に敵が侵入した。混乱を防ぐ為に情報は伏せたまま、皆には部屋から絶対に出ないようにって伝えてある。デスグラシアからは離れたから、今いちばん急を要するのは、まずそいつを探し出す事だな」
伊織は、そっとポケットに入れた拳銃を眺める。弾倉を確認すると、弾は残り一発のみだった。ウェーバーが密かに何かを企み、自分に接触を掛けてきたとすると、彼は戦闘中にブリッジを離れている間、その敵と遭遇したのだろう、と思った。これは恐らく、その敵が持っていた銃だ。
彼は、生身の人間を奪った銃で撃ち殺したのだ。そして恐らく、ここに居る皆はそれを知らない。
伊織は、
「その件なら問題はない」
と言った。「目を覚ましてからここまで戻る間に、廊下でそいつに会った。俺が、始末しておいたよ」
拳銃を掌に載せ、見せると、彼らははっと息を呑んだ。その表情が複雑そうに歪められたが、すぐに各々顔を引き締める。分かった、と、今し方報告をした男子が言った。
「神稲、五号機を壊されちまったんだよな。これからは、どうするんだ?」
「ここで、直接指揮を執るよ。先輩に任せっ放しだったのも、考えてみれば良くなかったからな。デスグラシアは、今日明日のうちにまた襲って来る。それに備えておくんだ」
伊織が言うと、「そういえば」とある女子生徒が言った。
「ウェーバー先輩、何処に行ったか知らない? 彼、神稲君の様子を見に行くって言ってブリッジを出たんだけど、神稲君が目を覚ました時、先輩が部屋に来ていなかった? 通信が途絶しちゃって……」
どくり、と心臓が拍動した。自分の手と、その中に握り込まれている拳銃を見、先程自分が引き起こした惨状──血の池が足元の床に見えるような気がした。
「……分からない」
声が動揺で震える事だけは防げただろうか、と伊織は考えた。
「もしかしたら、その侵入した敵とやらにやられた可能性もある。だけど、捜索は後だ。きっと……彼は、ブリークスの部下に撃たれるような人じゃないよ」
撃ったのは、自分だ。