『破天のディベルバイス』第19話 モデュラスの宿命⑦
* * *
カエラの遺体が船内に運び込まれるのを見ながら、僕は頭の中を必死に整理していた。止めるな、考えろ、と、モデュラス回路からの切り替えで普段の慢性疲労のような症状が蘇りつつある脳に発破を掛ける。
『スペルプリマーと同化した者は、精神構造を回復する事は出来ません』
起動キーを回して最初に現れるメッセージが、真っ先に思い浮かんだ。
精神構造が回復不能になる、とは、モデュラスとなった者は人間としての理性を失う凶暴化や、感情の起伏の増大を指すものだった。つまり、スペルプリマーを動かす電池、一部品となる事こそが、同化だった訳だ。そして、カエラには「完全同化」が起こった。その結果、彼女は心が死んだ。
重力出力を上げると、人体中、天然の重力発生機構である脳が搾られる。だからこそ、自分はカエラに繰り返し危険を訴えた。だがその自分も、最終的に脳への負担が限界となったモデュラスがどうなるのか、分かっていなかった。
思い出されるのは、火星でのハープの事だった。ダークに代わってスペルプリマー四号機を動かした彼女は、小惑星ナーサリー・ライムの落下を阻止しようとし、重力操作を限界まで行い続けた。その結果、彼女は命を落とした。あれも、今まさにカエラに起こった「同化」だったのか。
「そうか……そういう事だったのか……」
伊織は、五号機の脚部に背中を預け、頻りに呟いていた。彼自身も、何かカエラに関する事だけではない理由で混乱し、頭に整理を付けようとしているようだったが、僕は彼に話し掛ける気は起きなかった。
「神稲さん」
何故か格納庫に居たウェーバー先輩は、構わずに彼に声を掛けた。
「あなたには、お話しして頂かねばならない事があります」
「……そうだな。あんたとは、ゆっくり話し合わなきゃならねえ」
伊織は「着替えてくる」と言い、五号機の中へと戻って行く。僕は戦闘中、彼の動きが鈍った事を思い出した。あの時も、ウェーバー先輩から何か連絡を受けていたのかな、と思ったが、やはり聞こうとはしなかった。
ナイジェル・グレゴリーを含め、二人の仲間の命がまた散った。だが、それを悼む気持ちはあっても、「カエラ」という個人の死について、特段の感情も湧いてこない事に僕は自分で驚いていた。仮初の関係だったとはいえ、交際があった事は事実なのだから、何かしら思うところがあってもいいのではないか。そう自問してみたが、そう考えるうちにある感情に気付き、胸の奥が疼いた。
僕は、これでもう千花菜に危害が加えられる事がない、と安堵しているのではないか。確かにこの半日、僕は近いうちにカエラによる報復があるのではないか、という事を危惧していた。その心配がなくなった事を、僅かにでも良かったなどとは思っていない、と自信を持って言えるのか。そう問われれば、僕はイエスと即答は出来ないように思った。
気分が悪くなり、僕は伊織と同様、着替える為にコックピットへ戻ろうとした。結局、カエラに常軌を逸した行動を──今回の事のみならず、自分の承認欲求の為に僕を誘惑した事からずっと──取らせたものが何だったのか、僕には分からないままだった。分からずに、このような事を考えてしまう自分に得体の知れない引っ掛かりを感じた。
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部屋に戻る前に、再度伊織から招集が掛かった。ケーゼは一機ロストしたので、戦闘機組に人員補充が行われる余地はなく、実戦部隊は僕とアイリッシュ、スカイの僅か三人だけになってしまった。
「ノイエ・ヴェルトが停泊している小惑星エロスまでは、明日中には到達出来る予定だ。今回戦った二個旅団級船団には生き残りが居る。ラトリア・ルミレースは今回の件で、報復措置に出る可能性も否定出来ない。いや、間違いなく出る。崩れかかった過激派の隊列が再編される前に、総攻撃を行う」
「……戦う事ばっかり。焦りすぎなんじゃないの?」
ブリッジクルーを務める女子生徒が口を挟む。伊織は、じろりとそちらを睨んだ。
「今俺たちは、戦力を大幅に削られた。だが、それは相手にとっても同じだ。ピンチにもチャンスにも転じ得る状況だが、俺たちはこれをものにしなければならない。そうしないと、反撃を受けるのは俺たちの方だ。勢いに乗った時は、そのまま乗り続けなきゃいけないんだよ」
「その勢いを付けたのは、カエラでしょう」
グレーテが、吐き捨てるように言った。
「そのカエラも、もう居ない。今回と同じようにやっても、勝てるか分からない」
「オーズは非戦闘員だ。敵戦艦も、もう数える程しか残っていないだろう。今回より苛烈な戦いにならないという事は、状況から見て明らかだ」
「神稲、お前さ……」
アイリッシュが、珍しく神妙な調子で開口する。
「やっぱりお前、何か変だぞ。俺たちに、何を隠しているんだよ? そろそろ、お前がこんな行動を起こした理由についても話してくれ。美咲がやられて、自暴自棄になったって訳じゃないんだろう?」
「口を慎め、アイリ」
伊織の声が、そこで脅すかのように低められた。
「前にも言ったはずだ。俺は、もうお前たちの作る秩序の温さには飽き飽きしたんだよ。あれじゃ、ただ死ぬのを待っているようなものだった。治安もどんどん悪くなって、まとまらなきゃいけない船員が空中分解するのも時間の問題だった。……そんな事に気付きもしないで、自分は俺の行動に理由があると分かっている? 自惚れるのも大概にしろ」
「俺たちが役立たずみたいな言われ方だけど? ナイジェルが死んだのも、それで片付ける気かよ、神稲?」
伊織はそこでかっと顔を紅潮させ、一瞬の後に青褪めた。冷や汗が彼の顳顬を伝ったのが、僕にははっきりと見える。彼も、自分の指揮をする戦闘で初めて死者を出してしまった事に、外面以上のショックを感じているのだ。
──それが、僕や先輩たちが今まで受け、抱えてきた痛みだ。
僕は、心の中で伊織に語り掛けた。彼が何を抱えているのかは分からないが、少なくともその痛みだけは僕たちと同じ事だろう。
「……ナイジェルは、自業自得だった」
彼は、沈黙の末にそう言った。アイリッシュはかっとしたように拳を振り上げかけたが、スカイが即座にその腕を掴んで制止する。今の伊織に逆らう事が危険である事は、アイリッシュ自身にも分かっている事だろう。鋭く舌打ちをし、姿勢を元に戻した。
「お前たちは、自分で命を縮めるような事はするな。俺は船に居る皆を、出来る限りの事をして守るつもりだ。だがどうしても自滅する奴が居るなら……そこまで、俺はカバーしきれない」
「伊織……」
僕は、やっとそこで口を開く事が出来た。
「戦闘中に四号機が出てきた時、君は動けなくなったよね。一体何があった? それでもまだ、何も隠していないって言えるのか?」
カエラを撃て、と言った事については敢えて口に出さなかった。彼も、僕が意図的に言わなかったのだと気付いたのだろう、ぐっと唇を噛み、僕を睨んでくる。僕は更に食い下がる。
「僕は、君を親友だって思う気持ちは変わっていない。君の気持ちについて分かったような、傲慢な事は言わない。でも、何かを隠している事くらいは分かる。それを言わないんじゃ、自惚れているのは君の方に思えるよ」
「祐二……」
伊織の、迷っているかのような表情が顕著になる。だが、彼に最早言葉が届く事はなかった。
「ごめんな。俺は今お前の事、親友だって胸を張っては言えない」
* * *
ノイエ・ヴェルトへの総攻撃は、日付が明日に変わる頃という事だった。それまでは全員、トラブル防止の為船内を歩き回る事はせず、睡眠を取るように、という指示が出された。今夜は臨戦態勢になり、明日の昼頃までまとまった睡眠時間は取る事が出来なくなるそうだ。
見回りは、今度は昼間でも行われた。食事は非常食が各部屋に配られ、各々が空腹を覚えた時自分で食べるように、とされた。
僕は、伊織にカエラの昨夜の行動を訴える事が出来なかった。ミーティングが終わった後で言おうと思っていたが、そのような空気がなくなってしまった上、ウェーバー先輩が格納庫で言っていた通り、何やら話をする為に彼を引っ張って行ってしまった。それで、カエラも死んだ以上彼に報告する絶対の必要性も感じられなかった為、結局言わないまま終わってしまった。
「……ねえ、祐二」
部屋に戻る途中で千花菜の部屋の前を通り掛かった際、彼女に声を掛けられた。僕は足を止め、彼女に向き合う。
「ちょっと、話したい事があるの。いいかな?」
僕も同じだった。千花菜には、起こった事の一部始終と僕の心情を話しておかねばならない、と思っていた。「いいよ」
肯くと、彼女は自然に僕を部屋の中に入れた。その仕草で、彼女がやはり僕に特別な感情は抱いていないのだな、と分かり、少々寂しく思うと同時に安堵が込み上げてきた。もう、兄と重ねるような見方はされていないようだった。
「……カエラの事、聞いたよ」
千花菜はベッドに腰を下ろすと、徐ろに口を開いた。
「私、正直自分がどう思っているのか、分からない。カエラが祐二と付き合っているって知った時は、ちょっとショックはあった。ダイモスでは私、祐二にあんなにちゃんと言ったのにね。やっぱり私、祐二が言うみたいに、嘉郎さんとあなたを重ねて見ていたのかもしれない。
カエラの事は、それでも友達だって思っていた。だけど、ちょっと怖くなっていたのは確か。彼女の、私への当たりが強くなっていたような気もしたし、スペルプリマーに乗せて貰っている時に危険なGを掛けられた事も。それで、昨夜襲われて殺されそうになって、本当に怖かった。私が、祐二に嘉郎さんの影を見ているせいで彼女を暴走させたなら、自分のせいだったのかな、っても思った」
「そんな事……」僕が言いかけると、
「そうじゃないの」千花菜はすぐに続けた。「カエラが、何を思っていたのかは分からない。だけど祐二、彼女の本心に気付いたから、もう関係を続ける事は出来ないって思ったんだよね? ……私、カエラが居なくなって、自分の気持ちが分からなくなったの。もうあんな怖い思いをしなくてもいいんだって思うと、何だか安心してしまう自分を否定出来ない。そんな自分が……彼女と同じくらい、怖い」
言い終えると、千花菜は上目遣いに僕を窺ってくる。昨夜の事があって、一日も経たないうちにそのカエラがスペルプリマーに命を奪われた。しかも彼女はその際、僕を殺そうとしていた。
彼女が千花菜を襲撃した事は伊織に知らせておらず、また伊織も先の戦闘で彼女が僕を狙った事も公にはしていない。だがディベルバイスの各部屋では、窓から戦闘の様子が分かる。ブリッジメンバーたちも、先程の衝撃的な出来事について完全に口を噤む事など出来ないようで、噂は早くも広まっていた。
僕は千花菜の言葉を聴いているうちに、彼女の内心も僕と同じである事を悟った。何の解決にもならないかもしれないが、僕は「分かるよ」と言った。
「僕も、ずっと同じ事を考えていた。これで良かった訳がない……そう分かってはいるんだけどね。カエラのした事は、決して許されない蛮行だ。だけど、それを増長させた責任の一端は僕にもある」
伊織に僕の責任を問われた時、僕は反発した。だが、千花菜の前では素直な気持ちを口にする事が出来た。千花菜は、何処か眩しそうな表情になる。
「祐二、やっぱり何か変わった?」
「これが今の僕だよ。……千花菜。僕が言おうと思っていたのはね、今回の事で、君が自分を責める必要は何処にもないって事なんだ。僕も、責任はあるけど必要以上に罰を受けようとは思わない。でも、仲間が何を抱えていたのか、それまで考える事が出来なかったからこそ、彼女の事は悼まなきゃならない。千花菜にとっては、酷な事かもしれないから強いはしないけど……」
混沌とした気持ちは、千花菜が先に口に出してくれた事で霧散していた。僕の言葉に、千花菜は微かに顎を引いて肯いた。
「そうだね……私も、そう思う事にする」
言ってから、彼女は声を弱くする。「だけど……」
「ん?」
「私、ちょっとだけ祐二に甘えるけど許してくれる?」
僕は、少々緊張しながら続きを待った。千花菜はそこでまた躊躇いを見せたが、すぐに以前と同じように、悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「私が眠るまで、今日だけは傍に居て欲しい」
* * *
僕は椅子に座り、千花菜が寝息を立て始めるまで見守った。その間、カエラに感じたような本能的な衝動はなかった。彼女がこれ程安心して眠りに就いたのは久々なのだろう、と思うと、ただその安寧を守りたかった。
静謐な時間だった。
カエラが求めていたのは、このような時間を共有出来る人だったのではないだろうか、とふと思った。
僕は、その人にはなれなかった。カエラも、僕がなれるとは思っていなかったからこそ、あのような手段を選んだのかもしれない。だが僕は、それに対する自分の選択を、後悔してはいけない、と思った。同情で決めた愛など、きっと辛いものに違いないから。だが、それに僕が気付いた事で彼女が傷ついたなら、僕は最初から間違っていたのだろうか、とも考えた。
僕と居た時間、カエラは楽しかったのだろうか?
そんな事を考えても、またどうしようもない程に、僕は千花菜を愛していた。成長する──誰もが──という事の残酷さに、僕は静かに涙を流した。