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『破天のディベルバイス』第18話 集合する自我⑧


          *   *   *


 千花菜の部屋には、鍵が掛かっていた。皆、この深夜だから深く眠っているのか、廊下には声を聴いて駆けつけて来たような生徒の姿も見えない。見回りをしていたグレーテが気付く可能性もあったが、僕はそれを待たず、扉に向かって思い切り蹴りを繰り出した。足が痺れるように震動したが、扉は動かない。だが僕は、諦めずに何度か蹴りや体当たりを繰り返した。

 やがて、中で蝶(つがい)が壊れたらしく、扉は揺れるように開いた。それが開ききる前に隙間から体を滑り込ませ、部屋の中に進入する。

 千花菜は、ベッドに仰向けに横たわっていた。その傍らにカエラが立ち、彼女の上に上体を乗り出すようにしている。その首筋に、白く長い指が、蛇の如く(うごめ)きながら掛かっていた。

 僕は頭が真っ白になり、足が竦んだ。

 だがそれは一瞬の事で、それから頭の中のその空白を埋めたのは、凄まじい瞋恚(しんい)(ほむら)だった。それは刹那のうちに、僕から思考能力を剝奪した。

「やめろーっ!」

 叫びつつ、背後からカエラに飛び掛かった。千花菜の首を絞め上げていた彼女は、恐ろしい程に無感動な顔で頭部だけを振り返らせる。僕と目が合った瞬間、その顔に驚愕の色が兆した。

 僕は、一瞬緩んだカエラの両腕に手を伸ばし、折れても構わないという勢いで手首を拘束する。千花菜の気道を圧迫する指を一本ずつ引き剝がし、彼女たちの接触が完全に切れたところで、思い切り体をぶつける。細身のカエラは力強く押され、壁に激突して行ったが、叩き付けられる瞬間僕の手を振り払って受け身を取った判断力は凄まじかった。

 千花菜が、喉が破れそうな咳を立て続けにする。僕の名前を呼ぼうとしたのか、何度か同じ言葉の断片のようなものが漏出したが、それは言葉になる前に咳に呑み込まれ、口元で消失した。

 僕は、拘束していたカエラの腕が急に振り払われた為、勢いを殺しきれずそのまま壁にぶつかった。行く手ではカエラがその壁に背を着けていたが、僕がよろめくと同時にひらりと身を躱し、こちらの横を抜ける。彼女はそのまま、部屋からの逃亡を図った。

「待て、カエラ!」

 声を掛けたが、彼女は止まらなかった。僕が開きっ放しにしていた入口の扉をするりと抜け、廊下に駆け出して行く。それを追おうとした時、千花菜が再び咳き込んだので、僕は足を止めた。

 千花菜の状態がどのようなレベルなのか、咄嗟には判断出来なかった。カエラを追うべきか、彼女の容態を確認するか。迷ったのはほんの一瞬だったが、それに判断を下したのは、続いて同時に起こった二つの出来事だった。

 廊下でドタバタという音と、「こらっ!」というグレーテの怒声が響き、

「祐二……」

 千花菜が、激しい咳の間からそこでやっと声を絞り出した。

「私を横向きにして……苦しい、肺が破れそう……」

 僕は肯き、仰向けの彼女の背中に手を差し入れ、こちらを向いて横向きの姿勢に変えた。彼女はそこでやっと静かな息を吐き出し、

「楽になった……」

 と呟いた。

「千花菜、一体どうして?」

 僕は、彼女の背を(さす)りながらやっとそれだけを言う事が出来た。千花菜を見て平静を取り戻すと、先程のカエラへの怒りは困惑へと変化した。しかしそれについて自分なりの考えを巡らすには、恐れが大きな障害となった。

 僕があと一歩遅ければ、千花菜はカエラに命を奪われていた。

 その事実が、思考の余地を僕に与えなかった。

「……千花菜は、祐二君の変化に悪い影響を与えると思ったからよ」

 部屋の入口から、カエラの声が聞こえた。はっとして振り向くと、彼女はグレーテに羽交い絞めにされながらそこに立っていた。

「カエラ……!」

「祐二君。千花菜は、あなたが好きな女の子じゃない。千花菜自身もそう。未だにお兄さんの事、引き摺っているんでしょう? 何でそう、祐二君は自分で自分を苦しめようとするのよ? そんな『好きな振り』で傷ついているのなんて、おかしい。このままじゃあなた、自傷痕で動けなくなるよ」

「ゆ、うじ……?」

 千花菜が、僕の顔を不安そうに見上げてくる。その表情を見た時、先程自分に掛けた暗示が、真の意味で僕に作用した。

「カエラ。君は大前提の部分で、既に大きな間違いをしているよ。……誰かを好きだって思う気持ちに理由が必要ないなら、相手がどう思っていようが、自分のその気持ちだけは否定しちゃいけないよ。相手を好きで居る事自体は苦しくない、君はずっと前そう言ったよね? あの時僕が苦しかったのは、千花菜に対しての気持ちじゃなかったんだ。僕自身が、成長出来ていなかっただけなんだよ」

「違う、祐二君!」

 カエラは、グレーテを振り解こうとして身を(よじ)った。

「今のあなたは異常よ。スペルプリマーに乗って、おかしくなっているの。機械に呑み込まれちゃ駄目。私の愛した祐二君は、そんな人じゃない」

「それだよ、カエラ。僕は、モデュラスになって、こうなる事がいちばん怖かったんだ。自分が変わっていく事が、精神干渉の産物なのか、自分自身の成長なのかが分からなくなる事が。今ははっきり分かる。君は、理由もなく自分を好きになる誰かが欲しかった。それは、僕じゃないよ」

 僕が首を振ると、そこで初めてカエラの表情が歪んだ。

「じゃ、じゃあ……祐二君は……」

「僕は、ずっと千花菜の事が好きだった。だけど、言い訳にはならないけど、色々な事がありすぎた。本当の好きって事が分からなかったから、兄さんへの気持ちが捨てられない彼女に向き合う事が(つら)くなって、逃げた。君の誘いに乗ってしまった。最初から食い違っていた気がするのは、きっとこれが理由だよ。

 今でも、千花菜に対する想いは変わっていない。僕はもう、逃げたりしない。君が彼女に危害を加えようとするなら、僕は全力で止める。それでも君が、僕を好きと言ってくれるのかどうかは、君自身で決めればいい」

「そんなに、千花菜の事が好きになったんだ、祐二君」

「昔から、ずっと」

 言い終えた時、あるべきものがあるべき場所に収まったような、すっきりとした気持ちがあった。カエラは何も言わずに僕を見つめ続けたが、やがてがくりと頭を落とした。

 それが再び上げられた時、彼女の顔は最初に部屋へ入った時に僕が見たのと同じ、冷徹な程の無表情に変化していた。

「私、裏切った男には怖いからね」

 その目が、ちらりと千花菜を捉える。僕自身への攻撃なら予知出来るし、対応出来なくても甘んじて受けられるだろう。しかし、今回のように千花菜が狙われる事になったら……僕は、何度も関係を持ったカエラに対し、何処まで非情になりきれるのだろうか、という思いはあった。

 しかし、僕はその内心の不安を押し殺して言葉を放った。

「僕も、大切な人を傷つける人は許さない。……グレーテ、今の時間帯の見回りは、君とカエラだったんだよね?」

「そ、そうだけど……」

 長い間恋人同士だと周知されていた僕たちの、悟りにも近い応酬を目の当たりにしたからだろう。グレーテは、先程格納庫の前で僕を挑発するかのように言葉を掛けてきたのが信じられない程しどろもどろになり、閊えながら返事をした。

「カエラもこの後、僕たちと一緒に過激派船団と戦う事になるんだ。この件については後で、僕の口から伊織に説明して、カエラには相応の罰を受けて貰う。ただ、彼女を単独行動させないようにってだけ伝えて」

「渡海……」

 彼女は、僕と千花菜、カエラの三人の間で視線を彷徨わせた後、困惑したように眉を潜めた。「渡海に、そんな(ふう)に仕切る権利はないでしょ」

 何とか絞り出せた、というような台詞だったが、僕は即座に否定した。

「権利とかじゃない。君だって、今の一部始終を見ただろう? 伊織の意図は知らないけど、この恐怖政治の名目はまず第一に皆の安全を確保する事だ。その第四次舵取り組のメンバーが、無辜の生徒を襲撃した。それは、誰がどう見ても明らかに取り締まるべき行為であるはずだ」

「………」

 グレーテは唇を噛み、(しば)し黙り込んだが、やがて「分かったわよ」とぶっきらぼうながらも言った。彼女は羽交い絞めの姿勢を解き、カエラの両腕を掴んで引っ張りながら部屋の外へ出て行く。

 扉が閉まると、僕と千花菜は顔を見合わせた。

 どちらも、口を開かない。空気が滞るかと思われた。

「……あの」

 最初に発言したのは、千花菜の方だった。その瞳に、様々な情動が映る。安堵、歓喜、当惑、焦燥、悲嘆──唇が戦慄(わなな)き、次の言葉は現れそうで、なかなか紡ぎ出されない。僕が自分でも分からない何かを躊躇っていると、やがて彼女は、寂しそうな微笑を浮かべぽつりと呟いた。

「嘉郎さん……」

 彼女は上体を起こし、縋るように僕に手を差し出してくる。僕は、それで決心がついた。

「僕は祐二だ。兄さんでは、ないんだよ」

 首を振りながら、手を取るのではなく、千花菜の両肩に自分の手を置いた。

「千花菜の気持ちを、僕は否定しない。だけど、さっきカエラに言ったように、僕は何も関係なく千花菜が好きなんだ。それが成立しなくても、構わない。最初から全部分かっていながら、僕は君を追い駆けたんだから」

 千花菜は、僕の台詞を黙って聴いていた。だが、深夜に突然死に瀕した事、呼吸を奪われた事、それから解放された事による脱力から、その意識は曖昧に濁っているようだった。

 彼女はがくりと首を落とし、僕の襟元に凭れ掛かってくる。荒い息が静かになってくるのを感じながら、僕は続けて囁いた。

「君が兄さんの事で、気持ちに整理が付けられるのがいつになるかは分からない。もしかしたら、思い出を抱えたまま、それに囚われなくなれる日なんて来ないのかもしれないけど……そうなった時に、君は僕の気持ちに応えてくれるのかもしれないし、また別の誰かを好きになるのかもしれない。それでも……僕は、君を好きになった事を、絶対に後悔なんかしない」

 ──確かに、僕は変わった。以前なら、このような言葉を堂々と彼女に伝える事など、出来なかった。

 そう思うと、(いささ)か羞恥に近いものが込み上げてきたが、僕はもうそれに呑み込まれる事はなかった。

 千花菜は、眠ってしまったのだろうか。僕のこの声は、彼女にちゃんと届いているのだろうか。目が覚めた時、彼女は僕の伝えきった言葉を、全て夢の中の出来事と思ってしまいはしないだろうか。

 それでも、その時僕は、もう一度言おうと思った。

 千花菜が僕の兄を好きになったように、僕の初めて好きになった女性が彼女であった事。それをもう、僕は(つら)い事として見失ったりは、決してしない事。

 僕はそれから一時間近く、伊織から招集が掛かるまで彼女を抱き締め続けた。

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