『破天のディベルバイス』第17話 反攻の伊織⑩
⑦綾文千花菜
伊織が舵取り組の実権を奪い取ってから、今日で半月が経過した。
彼はこのアモール群に引き返してきてから、周辺を哨戒しているラトリア・ルミレースの小規模部隊や、時によってはバルトロ級の中型巡洋艦にも攻撃を仕掛け、その都度実戦部隊の指揮を執りながら自らも戦っていた。それは非常に正確かつ高効率な方法で、先行きが見えない中で長期間の停滞を強いられていた生徒たちは、段々と彼に従うようになっていった。
船内の空気は、確かに火星圏に居た時よりも大分静かになったような気がした。ウェーバー先輩は彼の行動を再評価し、彼に従ってブリッジに残る事を選んだ。伊織は更に、自分を支持する者の中から有能な人物をピックアップし、第四次舵取り組の編成を行った。その中に、自主的に彼から距離を取るようになった千花菜や祐二、スカイたちは含まれていなかった。
「お前たちの役割は、機動兵器を使って戦う事だ。役に立たないと思ったら、俺はすぐにパイロットを交換するつもりでいる。分かったな?」
祐二は、伊織にそのような言葉を掛けられたそうだ。祐二自身は、伊織も無理をしてあのような態度を取っているのだろう、と言っていたが、それでも千花菜は彼が恐ろしく思えた。
伊織が、親衛隊の戦力が把握出来次第ノイエ・ヴェルトに宣戦布告する、と発表した時も、生徒たちは騒ぎ立てなかった。無茶だ、無謀だ、と思った者も、勝手に自分たちを危険な戦いに巻き込もうとする彼に怒りを覚えた者も居るには違いないが、皆は「伊織に逆らったら何をされるか分からない」という恐怖心から文句を言わないようだった。
* * *
人工呼吸器を着けたまま眠り続ける恵留の手を、千花菜はぎゅっと握った。今の伊織の行動を知ったら、恵留はどのような事を思うのだろう、と考える。
伊織は、恵留の元を毎日訪れてはいるようだった。過激派狩りと、以前自分たちが行っていたものより厳しさを増した、伊織の支持者による船内の巡回という日々が始まってから、千花菜は、彼がまた恵留の傍に居る事を後回しにしてしまうのでは、という不安に駆られた。だが、こっそりと様子を見ていたところ、彼は皆の就寝時刻が過ぎた後で病室にやって来て──涙を流していた。その時は中から鍵が掛けられたらしく、隙間から中の様子を窺う事は出来なかったが、声は聞こえた。
「なあ、恵留……俺、本当にこのままで皆を守れるのかな? 今度こそ、旅をちゃんと終わらせられるのかな?」
何度も答えの出ない問いを挟みながら、彼は「ごめんな」と謝り続けていた。それを聴いているうちに、千花菜の目からも涙が流れ出した。
皆、遠くに行ってしまうのだ、と思った。
ブリッジから追い出され、監禁されたアンジュ先輩。この先、目を覚ますのかどうかも分からない恵留。自分たちと「友達」である事を辞めた伊織。
スペルプリマーに登録し、ディベルバイスの主力となり、疲弊し、カエラと一緒に真っ先に自分との距離を広げた祐二が、今はいちばん自分の心の拠り所になっているような気がした。
(恵留……私、どうしたらいいんだろう?)
千花菜は、胸の内でそっと彼女に問い掛ける。恵留の白い肩は、眠っている間にかなり痩せ細ったように見えた。それが痛々しくて、彼女には絶対に縋る訳には行かないのだ、と思った。
暫らくそうしていると、入口の扉が開く音が聞こえた。千花菜は恵留のお見舞いの際、伊織のように扉に鍵は掛けない。誰だろう、と思いながら振り返ると、祐二が躊躇いがちな表情でそこに立っていた。
「祐二……」
「千花菜……また、ここに居たんだね」
彼は、少々迷ったように視線を泳がせてから、自分の近くまで進んできた。
「他に、居る所なんてないもん。部屋は恵留と一緒に使ってたから今じゃ一人だし、そんな所で籠っていると、色々考えちゃって」
「それは……そうだよね」
「祐二はいいの? カエラと一緒に居なくて」
「そんな気分にもなれないよ。それに……彼女は、強い女の子だから」
祐二の言葉は、何処かこちらを気遣っているようだった。千花菜は曖昧に肯き、心の中で彼に感謝した。
最近、彼がカエラと上手く行っていない事は自分にも分かっていた。彼は伊織の起こした行動に酷く傷心しているようだが、カエラは祐二のそのような心情が気に入らないようだった。戦闘の時に助け合いはするものの、船内の治安が安定してくるや否や彼女は伊織の行いに全面的に賛成するようになった。彼らの間に何があったのかは分からないが、祐二は自分と彼女の価値観の相違に戸惑い、着いて行けなくなっているようだった。
今船内に漂っている空気を、カエラは比較的早く受容し始めている。それが出来ない祐二は、現在千花菜と同じような心境に違いない。
「千花菜、ごめんね」
不意に祐二がそう言ってきた。千花菜は首を傾げる。「どうして謝るの?」
「僕は、伊織を突き放してしまった。考えてみれば、ダークが追放されてから、ずっと伊織は何処か様子がおかしかった。何かに悩んで、考え込んでいるみたいだった。スペルプリマーに勝手に乗って、四号機とシェアリングをしたのだって、何かそれに関わる理由があったのかもしれない。だけど僕は、知ろうとしなかったんだ。自分の事で精一杯だった」
「それは……仕方ないでしょ。祐二、成り行きで舵取り組の筆頭に押し出されてしまったんだから。アンジュ先輩にダーク、今までは二人ともプロで、ちゃんと明確な目標があった。それに基づいて皆を引っ張ろうとした。だけど、祐二は違う。本当はそういうの、嫌なんでしょ?」
幼い頃から、彼はずっと人前に出たがるような性格ではなかった。彼に十分以上の責任を課したのは、自分たち周囲の人間だ。
千花菜はそう思ったが、祐二は首を振った。
「そうじゃないよ。誰にでも、同じ事なんだ。僕は、自分で精一杯やろうって思いながら、責任を押し付ける皆に苛立ってた。それなのに、皆と同じ事を伊織に強いていた。恵留にちゃんと向き合えって……伊織にずっと引っ張られていたのは、僕の方なのにさ」
「……なんか、そういうのって悲しいね」
千花菜は、気付けばぽつりと零していた。つい口に出してしまってから、自分の言葉を反芻して顔を伏せる。祐二から視線を逸らし、恵留に向き直ると、彼女の横たわるマットレスに目頭を当てた。
「本当なら……本当なら私たち、今頃リバブルエリアに居たんだよ。ヴィペラに潜って作業して、宇宙で訓練して、疲れたねー、なんて言いながら、それでも商業区画の方に遊びに行ってさ。ご飯食べて、雑談して、伊織が祐二に絡んだり、女の子に声掛けたりして、恵留が怒って、私が笑いながらそれを揶って……」
「千花菜……」
「コンビニでお菓子買って帰ったら、ディートリッヒ教官に見つかってお叱言食らって。でも結局、部屋で皆で食べながらテスト勉強したり、テスト勉強のつもりがまた雑談になったりしたり。……ねえ、それが普通だったんだよね? こんなの、絶対に普通じゃないよね?」
言っているうちに、目頭がどんどん熱を持っていった。瞳を薄く覆っていた涙が、その熱で膨張したかのように、自分でも信じられないような速さで流れ出す。
「伊織も恵留も、本当はこんな……こんな事にならなくても、良かった人たちなんだよね? 祐二も……変わっちゃわないよね?」
「………」
顔を伏せているので見えなかったが、彼が息を呑み込む音がはっきりと聞こえた。彼は押し黙った後、千花菜の名前を呼んで背中へ歩み寄ってきた。
「……変わりたかったよ。もっとしゃきっとしていて、強くて、君に僕が、いや、俺が守るから安心しろって言えるような男に。でも、無理だった。僕は変われなかった……だから、これが普通じゃないって事も分かる。千花菜が、どれだけ今の状況を怖がっているのかも。僕が出来る事、何もない……だけど、君がそれでもいいって言うなら……」
祐二は、やや舌足らずな調子で言った。あたかもユニット五・七に居た時、引っ込み思案で千花菜の弟分のようだった彼に戻ってしまったかのように。そう思った時、また涙が溢れた。
「少し、こうして傍に居てくれる? 私、ちょっと独りでは居たくない気分なの」
千花菜が言うと、祐二は黙って肯き、隣に腰を下ろしてきた。こちらの体に触れないように、僅かに距離を開けて座り、微かに指先を繋がれた千花菜と恵留の手に当ててくる。それが、却って互いの体温を伝え合った。
何分、何十分そうしていたのか、千花菜には自覚出来なかった。
考えられた事は、カエラと顔を合わせられず、元の部屋から伊織も出て行った今の祐二にもきっと、帰る部屋がないのだろう、という事だけだった。