『破天のディベルバイス』第17話 反攻の伊織④
④神稲伊織
恵留の病室を出ると、伊織はスペルプリマーの格納庫へと向かった。
鍵は、驚く程呆気なく開いた。どうやら固定の鍵がなくとも、エスベックというらしい存在になった自分の脳波にセンサーが反応したらしい。頭に電極も差していないのにこのような事が起こるという事は、やはり自分の脳回路が人間ならざるものへと変化したという事だ。
あのハープともう一度話をしたい、と思った。
自分の予想が間違っていないのなら、すべき事はただ一つだ。それはこの旅を終わらせる手段であり、また恵留への懺悔でもあった。
だがその前に、ハープの誤解を解いておかねばならない。
伊織が近づき、手を添えると、四号機のコックピットを封印していた結束バンドは簡単に外れた。あたかも先程、格納庫の入口が簡単に開いたように。伊織は起動キーを回し、すぐに外に出ると、今度は五号機の中へ向かう。縄梯子を登ってコックピット内に入り、同じく起動すると、『Super Primer : AX』という文字の浮かんだタブレットが上がってきた。両肩にコネクタが差し込まれ、頭にヘルメット型の装置が装着される。
『You have control』
そのメッセージが浮かび上がり、すぐに消えると、『HAMARRが感覚共有を求めています』という文章に変わった。機体の接合部で桃色の光が点滅を開始する。重力出力を上げていくと、シェアリングは開始された。
「ハープ」
視界に変動を確認すると、伊織は呼び掛ける。傍らに、この間と同じようにぼうっと彼女の姿が浮かんできた。
『シン・クマシロ……また……』
ハープは、以前のような怯えの声を出す。だが、彼女がまた錯乱を始める前に、伊織は「話を聴いて欲しい」と言った。
「俺は確かに、神稲シンだ。でも、オリジナルの彼じゃ……星導師オーズじゃない。今は伊織って名乗っているよ。本物のシンの、お兄さんの名前だ」
君が伝えたかったのはそういう事だろう、と伊織は確認した。ハープは戸惑ったようだったが、こくりと微かに顎を引く。
『そうだけど……どういう事? オリジナルとか、そうじゃないとかって……』
「俺は、本物の伊織、シンの両親が関わっていた連合の人体実験で、念の為に作られていたシンのクローンだ。……その人体実験というのが、スペルプリマーの開発だったんだな」
里親だと思っていた夫婦が、自分と遺伝子の連続性を持つ実の両親だった。たとえ自分が、彼らの胎内から生まれた子供でなかったとしても。そして義姉、初恋の人でもあった瞳美は、自分の実の姉だった。
自分は確かに、ショックだった。だが、彼らは本当に、自分たちの行った事を後悔し、懺悔しているようだった。だから自分は、彼らを許した。彼らが求めていた通りに、「本当の家族」として接しようと思った。だが、本来既に存在しない自分が神稲家に居るという事、両親が何を言いながらも、自分に対する罪の意識からか腫れ物に触るように接してくる事に、言いようのない”違和感”──不快感とはまた別のものだった──を感じていた。
瞳美は、そんな自分の気持ちを悟ってか、それからも度々自分を慰めた。両親に、自分たちの関係を知っていた、とカミングアウトされてから、自分は彼女と顔を合わせる事が躊躇われるようになった。家族皆で食事をする時も、極力彼女との会話を避けた。
ある日、自分は思い切って瞳美と話そうとした。内容は、神稲家に入ってから改めて通い始めた学校の課題についてだった。学習箇所で分からない部分など滅多になかったので、それは彼女と話す口実に過ぎなかったのだろう。今思えば当時から自分はモデュラスだった訳なので、当時から記憶力や計算能力が高かったのも肯ける。
自分が扉をノックすると、部屋の中からがさごそという音がし、やがて入っていいという返事があった。扉を開けると、散乱した衣服の中に、瞳美は一糸も纏わぬ姿で立っていた。呆然となる自分を彼女は抱き締めてベッドに倒れ込み、同じように服を脱がせながら囁いてきた。
「私は何も変わらない。ずっとあなたの傍に居て、こうしている間だけでも、気持ち悪い事を全部忘れさせてあげる」
それからは文字通り、瞳美は自分の唯一の心の拠り所となった。自分たちは、自分が何も知らなかった今までと同じように、だが今度は両親に見つからないように更に注意を払って、何かに追われるように交わるようになった。しかし二年後、当然のように再びそれは露見し、彼女は叱責を受けた。
それに言い返した彼女の言葉は、自分の本心を恐ろしい程正確に暴くものだった。自分はそれを耳にしてしまい、それを聞いた両親と、自分はもう自然に接する事など不可能であり、自分がこのまま家に居続ける事はこのように姉を傷つける事にもなるのだ、と思った。
だから、自分は宇宙に逃げた。人の存在など宇宙のスケールの前では些事で、自分の悩みなどあってないようなものだ、と開き直れる場所まで行きたかった。神稲伊織という名は、自分に可能だった精一杯の逃避だった。
「君とお兄さん……ダークの人生を目茶苦茶にしてしまった”人鬼”は、俺ではないよ。でも、だからといって俺に関係のない出来事ではない。俺に何の責任がない訳でも、勿論ない。身内の事なんだから」
伊織は言うと、ハープに深々と頭を下げた。
「オリジナルの俺が、本当に申し訳ない事をした。今更、遅すぎる事だとは思う。だけど、それでも俺は君に謝る。……ごめん」
『……そっか』
ハープは、安堵したように息を吐き出す素振りを見せた。
『私は、同化によって誕生したハープの人格。スペルプリマーが彼女の脳回路を、機体のプログラム内に複製して独立した人工知能のようなもの。確かに彼女は、もう死んでしまった。私は彼女の魂っていうには、あまりにも機械的すぎる。……それでも伊織君、あなたのお陰で安心出来た。ありがとね』
彼女が言うのを聞き、伊織は安堵した。これで、彼女が一週間前のように暴走する事はもうないだろう。
伊織がそう思ってシェアリングを終えようとした時、ハープが『ねえ』と話し掛けてきた。タブレットに伸ばしかけていた指を、伊織は慌てて引っ込める。
「まだ、何か?」
『いえ、ちょっとした雑談みたいなんだけど……伊織君、これから何をするつもりなの? この船からは、とても怖くて、悲しい空気を感じる。皆、この先どうなるのか分からなくて、怯えているみたい』
ハープは、先程までとはまた違う不安を孕んだ声で言った。伊織は、膝の上で拳をぐっと握り締める。偶然と言えばそれまでなのだろうが、伊織には彼女が、自分に最終的な意志を確認してきているように思えた。
「……君が俺たちに伝えようとしていた事、分かったよ」
伊織は言うと、ゆっくりとそれを話し始めた。