『破天のディベルバイス』第17話 反攻の伊織②
②木佐貫啓嗣
「私たちの引き取ったシンは、フリュム計画内では『連合が保護した捨て子である』と言い聞かされて育っていました」
敦史は、いよいよ核心に入った事で無言を貫く木佐貫とヨアンに、変わらぬ淡々とした口調で話し続けた。
「彼には、十二歳以前の記憶がありませんでした。当然でしょう、彼はそれまで、オリジナルのシンの代用品として、培養液の中で成長していたのですから。ですが、言語や生活習慣の形成に必要な食事や被服、交通のルールなどについては既に無意識領域での学習が進められ、手続き記憶としてインプットされていました。だから、計画関係者によって覚醒させられてから、彼らに与えられた偽りの記憶も受け入れられたのです。
全生活史健忘、という記憶喪失があります。生まれてから今まで、自分が何者で、何をしてきたのかが分からなくなる、というものです。しかし、言葉の発し方を始め手続き記憶である事柄は消えません。当時のシンも、まさにそのような状態だったのだと思います。
保護された子供である故、シンという名前は連合によって付けられ、姓はないという事で、彼は納得していました。私たちの元にやって来る事で本当の名前を取り戻した訳ですが、彼はそれが里子である自分に与えられた新たな名前だ、と信じきっていました。
私たちは、彼が来ても自分たちの心は癒されない、あの子が本当のシンの代用品であるという意識は捨てられないだろう、と思っていました。ですが、彼はシンと全く同じ遺伝子を持つ、私たちの子供です。それを否定する事は出来なかった。私たちは自分たちで思っていた以上に、彼を愛しました。それこそ、里子だと彼に信じ込ませている事が、辛くなる程に」
自虐的な夫婦の言葉から、木佐貫は仕方がないだろう、という思いが捨てきれなかった。形は歪んでいたとしても、そこにあるのは純然たる親子愛だ。しかし、自分がそれを言う前に──言っていても気休め程度にしか捉えられなかっただろうが──、美智子が話を引き継いだ。
「娘は……愛する弟と個体は異なれど、全く同じ存在が自分の前に再び現れた事で、死に瀕していた心を取り戻しました。そして新しいシンを、溺愛するようになりました。自分を里子で、私たちと血の繋がりがないと思い込んでいるシンは、そこで彼女を愛してしまった。
娘もまた、シンが直接私の……自分の母親のお腹から生まれた子供ではないという事が、彼を単なる弟として見る事を邪魔したのでしょう。彼が戻って来た事を喜ぶあまりに、自分の中で姉弟愛が変化しつつある事を自覚したようでした。
彼らがいつ、自分たちのその感情を打ち明け合ったのかは分かりません。少なくとも私は、四年前まで彼らの関係に気が付きませんでした。ですが今思い返せば、丁度その頃放送されていたあの恋愛ドラマ……『風花の塔』を観ていた二人の目は、決して他人事を見る目ではなかったように思います。
四年前の夏のある夜、私は暑さで目を覚ましました。換気の為にベランダに出る戸を開けた時、私たちの寝室の隣、娘の部屋が閉め切られていた事が気になって、つい覗き込んでしまったのです。カーテンだけは、何故か開けっ放しになっていましたから。そして私は……」
ここまで話が至れば、木佐貫にも美智子がそこで目撃したものが分かった。きっと彼女は、声を上げるのを堪えるので精一杯だっただろう。
「私はこの事を、主人に報告するだけでもかなり悩みました。正直、彼らの行為の何処に問題があるのか、私にははっきりと言葉にする事が出来なかったのです。倫理や道徳、模範解答なら幾らでもあるでしょう。しかし、我が子を人体実験に提供し、挙句にヒトのクローンの存在を認めた私たちに、そのような言葉は何の意味も持ちませんでした。娘は弟への愛故にそれを許し、シンもまた娘が彼の本当の姉であるとは、知らなかったのですから。私たちの犯した罪に比べれば、彼らの行為は過ちとすら呼べないようなものでした。
理屈では分かっていても、私がそれから感じ始めたのは……違和感でした。私たち家族が、『里子のシン』を含めた一家が、目には見えない部分で歪んでいる事を、どうしても意識せざるを得ませんでした。今更と言われれば、それまでだったのですけれどね」
「妻からその一件を聞き、私は何も知らないシンは当然として、事情を知りながらそのような行為に及んだ娘を咎める事も出来ない、と思いました。本を糺せば彼女の愛していたオリジナルの弟たちを奪ったのは、間接的とはいえ私たち親なのですから。悩みながらも、家庭の中で毎晩、実の姉弟が関係を持っている。それは、妻の言う通り例えようのない気持ち悪さを覚えさせました。……私たちの身勝手さ、心の弱さだと言われれば、それまでなのかもしれませんが」
木佐貫は敦史の言葉に、深く肯いた。自分が彼らと同じ立場だったら、と考えると共感出来てしまうからこそ、何の言葉も掛けられない。そもそも、家庭を持たない木佐貫に出来る想像など、限界はたかが知れていた。
「でも……結果的に、お二人はシンさんに真実を告げられたのですね?」
ヨアンが、先を促すように言った。美智子と敦史は同時に肯く。
「見て見ぬ振りは、出来ませんでしたから。……親として」
美智子は、寂しそうに息を吐いた。
「私たちは、子供たちを集めてその場で本当の事を言いました。勿論、フリュム計画やスペルプリマーに関する事、シンがモデュラスである事などは伏せながら。その頃私たちは、フリュム計画から研究手当や賠償金を貰っていたので、生活は比較的豊かになっていました。シンにはその事を、遺産相続の結果だと教えていたのですけれどね。
……私たちには一卵性双生児の息子が居て、彼らは事故で命を落とした。それは宇宙連合が密かに行っている遺伝子研究で、実験中に発生した事故だった。家にあるお金は、その研究に協力していたから得られていたものだ。私たちは、息子たちの死を受け入れられず、スペアとして作られていたクローンを引き取ったのだ、あなたは本当に、私たちと血の繋がった家族なのだ、と」
「シンは、最初は信じませんでした。何かの冗談か、とも言いました。しかし、私たちが彼と娘の関係についての話中に始めた説明である事、また彼に十二歳以前の記憶が存在しない事、双子と娘が一緒に映った写真をその時に見せた事で、彼は信じるしかないと思ったようでした。
話の中で、私たちはシンに、自分たち親が彼を責める資格はない、という事を繰り返し伝えました。また、むしろ自分たちの方こそ彼に責められるべきなのだ、とも言いました。彼にとっては全く現実味のない事だったでしょうが、娘は彼の本当の姉なのだという事だけでも、伝えたかったのです。話の間、娘は羞恥心の為か、一切容喙をしませんでした。話は、『正直に打ち明けられた事は良かった。私たちを軽蔑したかもしれないが、嫌でなければこれからは本当の家族として認識して欲しい』と締め括りました」
「シンは、その時は納得したようでしたが、心の中に生まれたしこりが解消されないのは当然だったでしょう。義姉が、本当は自分と血の繋がっている事を知っていた上で自分に体を許していたという事、里親だと思っていた私たちが実の親で、しかも本当の息子を人体実験に差し出して大金を得るような人間だったという事……決して、一回の話で気持ちの整理が付くはずはありません。
しかし、お互いにどうする事も出来なかった。出来る事は、引き続き家族として共に暮らしながら、徐々に分かり合っていく事、それしかありません。ですが、早くこの事を意識しなくて済むようになろう、と考えると、余計に意識は膨れ上がっていきます。彼の中でも、死んだはずのシンという自分が居る違和感、死んだ自分が私たちの『本当の家族』だという事への気持ち悪さは、確実に育っていました。
そして、彼らはそれで終わりはしなかった。娘は、また弟に自分と関係を持たせたのです。分かっていても、シンが真実を理解しても、自分を抑える事が出来なかったのか、一種の失恋を経験させてしまった弟を慰めようとしたのか、もしくは……自分だけが、彼の拠り所となろうと考えたのか。後から直接彼女に聞いたので、彼女から誘った事は間違いないようです。ただ、その理由についてはどれだけ問い質しても口に出そうとしませんでした」
「問い質した、とは?」
木佐貫は軽く身を乗り出した。
「判明したのは、偶然私たち両親が共に外出し、子供たちが家に居た時の事でした。連絡に不備があったのか、娘が不用心だったのかは分かりませんが、鍵を開けて家に入った時、毛布を巻き付けた娘が丁度階段を降りてくるところでした。シンが本当の事を知ってから二年……今から、丁度二年前ですね。私は、私たち親の目を盗んでそれを続けていた事を悟りました。
今度は娘だけを呼んで、叱責しました、シンが分かっている上でそのような事をしたら、世間的には絶対に許されない事だ、と。やはり私たちが言えた事ではないですが、娘には反省した色が見られませんでしたので。ですが、娘はそこで反駁してきました。
『親の自己満足を子供に押し付けて、自分たちだけで解決した気にならないで。シンは、二年間ずっと自分をこの家の異物のように思っていた。自分のせいで、家族に楔を打ち込んでしまったと思っていた』
彼女は、そのような事を言いました。そしてそれを、あの子は……シンは、物陰で聴いていたのです。彼は、娘の言った通り自分の居るせいでこの家に不和をもたらしていると思ったようでした。いや、それは都合のいい解釈で、本当はオリジナルの息子の死を受け入れられず、自ら進んで禁忌を冒した私たちを軽蔑していたのかもしれません。
彼はそれから一ヶ月も経たないうちに、家を出て行きました。残して行ったのはメモ用紙に書いた置き手紙だけで、そこには『これ以上自分が家に居れば、義姉に迷惑を掛ける』と書いてありました。……そうです、義姉だったのです。彼は、血は繋がっていながらも同じ母胎から生まれた訳ではない姉を、最後までそう呼びました。自分は代用品であり、本来この家に居るべき者ではないのだ、というメッセージを、私たち家族は読み取りました」
「娘さんは……」
ヨアンが、控えめに口を開く。それは、木佐貫がずっと気になっていた事でもあった。話を聴くうちに、口に出すのが躊躇われてきていた事だった。
「瞳美は」
美智子はそこで初めて、木佐貫たちに娘の名前を言った。
「リージョン五の一般的な高校を卒業出来る年齢である、十八歳になった時に、何も言わずに出奔しました。あたかも、シンを追うかのようでした。彼らが再び会えたのかどうかは分かりません。ただ……」
刹那、彼女の声が詰まる。だが木佐貫やヨアンが何かを言う前に、すぐに言葉を続けた。
「彼女の姿が最後に見られたのは、火星・地球間往還シャトルの中でした。そして、丁度その頃ラトリア・ルミレースの地球圏進出が本格化し、娘が乗ったと思われるシャトルが流れ弾によって事故に遭ったというニュースが報道されました。……彼女の死が確認された訳ではありません。生死不明、しかし生きている事はもうないだろうという状態のまま、二年が経ちました」
「………」
木佐貫たちは言葉を失った。
フリュム計画に関わった事。進んで我が子を提供した事。クローンであるシン少年を目覚めさせた事。どれも、夫婦の選択だ。自分たちで引き起こした結果だと言えばそれまでなのかもしれない。
だが、木佐貫には計画そのものが彼らを不幸にしたように思えてならなかった。人類の希望となるべき計画、だがその為に失われる人命はある。その事を、今まで自分はブリークスの暴走によって引き起こされた悲劇だと思っていた。だが、それだけで済む話ではなかった。
──計画の存在そのものが彼らを不幸にしたというなら、その双子が生まれた事すらも、間違いだったのだろうか?
考えると、何処までも螺旋を描いて落ちて行くようだった。
「その上で、やっと居場所が分かったシンまで……」
美智子は語りを再開した。だがそれは、最早独白に近かった。
「居場所が分かったのが、木佐貫さんたちによる死亡通知でだったなんて……それにあの子が、兄の名前で……」
「特別な理由はなかったのだと思いますよ」木佐貫は言った。「神稲シンという名前は、フリュム計画上層部にとっては兄以上に特別な意味を持っていたでしょうから。彼にどのような目的があったにせよ、もしそのままの名前で護星機士訓練課程に入学していたら、誰かが目を付けていたでしょう」
それに彼は、世間的にはまだごく普通の少年だったのだ。偽りの身分証明書を作るにしても、顔が同じでいちばん身近な、しかも本物が現れる事のない者の名前があれば、それを利用する以外にない。
「でも、彼は決して……連合に介入して人体実験の全貌を暴き、あなた方に対する恨みを晴らそうとしていた訳ではないと思います。もしそうであったのなら、目を付けられる為にわざと本名であるシンを名乗っていたでしょう。私の無責任な想像かもしれませんが、彼は……オリジナルのシンさんとは別の人生を歩む事で、自由になりたかったのではないでしょうか」
「木佐貫さん……」
ヨアンが、自分の口調からその気配を読み取ったらしく、慌てたように自分の名前を呼んだ。木佐貫は一瞬迷いが蘇ったが、決意を改めて首を振った。
この夫婦には、本当の事を明かすべきだ。彼らは絶望し、自分たちを激しく責めている。ならば、たとえあの船に居る少年少女たちが現在極限状態に置かれているのだとしても、僅かにでも希望のある現実を排除する事は出来ない。
「神稲さん」
木佐貫は、腰の位置を整えて頭を下げた。
「申し訳ありません。私は、フリュム計画の人間としてあなた方に一部、嘘を伝えておりました」
「嘘……?」夫婦の顔が、戸惑いの表情に変化する。
「彼は──現在神稲伊織と名乗っているシンさんは、生きています。リーヴァンデインが倒壊した時、少数のユーゲントの者たちが、リバブルエリアにフリュム船・無色のディベルバイスを輸送していたのです。その者たちが船を起動し、地球に居た訓練生たちを救出しました。
そしてフリュム計画は……船の存在を知った彼らを、口封じの為抹殺しようとして攻撃を仕掛けています。現在過激派の特殊部隊と報道されている新型宇宙船こそ、ディベルバイスです。そして乗組員は、シンさんたち訓練生なのです」
「………!?」
夫婦の目が、驚愕によって見開かれた。
「上層部は交戦規定フェイズ三により、巷間の各コンピュータのバックドア機能を使用、情報統制を行っています。この事を、決して他言しないで下さい。計画の為ではありません、あなた方の安全の為です」