『破天のディベルバイス』第11話 闇の時代⑧
⑤アンジュ・バロネス
九月二十二日、グリニッジ標準時午前二時三十八分。
仮眠室で目を覚ました時、デジタル時計はそう表示していた。夜間の操船とブリッジ担当は交替で行ってきたが、ラボニ、ヤーコンらと代わるには、まだ少し時間がある。なかなか寝付けなかったが、眠りも浅いらしい。
もう一度眠ろうとしても無理だろうな、と判断し、アンジュは起き上がった。服を着て、緊急用の無線機を手に部屋を出る。
ブリッジの扉を潜ると、艦長席にダークが座っているのが見え、思わず息が止まりそうになった。何かあったのだろうか、と動揺する。ダークの担当は、自分と同じ時間帯だったはずだ。
「ああ、気にしなくていいのよ」
ラボニが、アンジュの驚きに気付いたのか振り返ってきた。呆れたような、微笑ましいような微妙な表情を浮かべ、悪戯っぽく言う。
「ダークったら、ショートスリーパーだから、とか言って結構前に出てきたのよ。早く目を覚ましてしまったが、だからといって無為な時間を過ごす訳には行かない、自分も観測に加わる、って。それで、三十分も経たないうちに寝ちゃっているんだから世話がないわよ」
「結構可愛いでしょ、ダーク? そんな無防備な顔して寝る事、裏社会時代にはなかったんだよ」
ケイトも言う。アンジュは、少々頰が熱くなった。
「ケイトちゃん、ダーク君の寝顔を前にも見た事あるの?」
「まあねー。でも、アンジュちゃんが想像しているような嫌らしい事じゃないよ」
「別に、何も嫌らしい事を考えている訳じゃ……」
「ギルドメンバーと、路上とか下水道で雑魚寝。そんなの普通だから」
アンジュは恐る恐る、ダークの寝顔を見つめる。以前、ニルバナでの戦勝祝いの時にも感じた事だが、彼はやはり、本来であれば普通の少年なのだろう、と思った。幼い──つい守りたい、と思ってしまう程、その顔はあどけなかった。
力こそ法、というような殺伐とした世界に生を受けなければ、彼も普段から、自分にこのような顔を向けてくれていたのだろうか。
「でも、まだ癖は抜けていないんだよね」
「癖?」アンジュは、ケイトの方を向いた。
「拳銃を持ったまま眠る癖。よく、力が抜けないよね」
彼女に言われ、思わず視線を下げる。ダークは確かに、右手を膝の上に落とし、腰の拳銃のグリップをしっかりと握っていた。トリガーには、指すら掛けている。それが、眠る時ですら警戒を解けず、心の平穏を得る事が出来なかった事によるものだと考えると、アンジュは何だか彼が不憫に思えた。
暴発したら危ないよな、と思い、そっと手を伸ばす。
ダークの指を、一本ずつ包むように拳銃から剝がそうとした。だが、小指に触れたアンジュはそこで、思わずはっとして手を引っ込めた。
(ダーク君……?)
彼の指には、本当は起きているのではないか、と一瞬疑ってしまう程にしっかりとした抵抗があった。何があっても、この銃を離してはならない、と無意識にまで刷り込まれているかのような。離してしまったら、もう命はない、とまで思っているかのよう、とすら言えた。
アンジュは再び手を伸ばすと、今度は彼のその手を取って、ぎゅっと握り締めた。本当は彼本人を抱き締めたいような気持ちだったが、さすがに仲間たちが見ている為自粛する。ダークがとても愛おしかった。自分が、彼が安心して眠れるような場所になれたらいいのに、と思った。
「ダークと、そういう事するのは難しいと思うよ」
ケイトが、またも口を出してきた。
「地球圏に出てきてから大分穏やかになったけど、警戒心は脊髄反射みたいなものだから。夜這いと夜襲の区別はつかないはずだからね」
「夜這いって……」
アンジュが再び顔を赤らめた時、ダークが突然ぱちりと目を開けた。
コンマ数秒後、彼は弾かれたように起き上がり、左手を素早く動かしてアンジュの腕を拘束すると、銃口を眉間に向けてきた。アンジュはつい悲鳴を上げそうになり、ぐっと息を呑み込む。そこでダークは気付いたらしく、安堵したようにほっと息を吐き出した。
「何だ、お前か」
「あ……ええ。ごめんなさい、私……」
アンジュは、つい言葉に詰まる。ダークは首を振り、腰に銃を戻した。その際、先程勢い良く立ち上がった事でポケットから飛び出しかけていたのだろう、何かが彼の足元に落下した。
「あっ、ダーク君」
咄嗟にそれを拾い上げ、掌の上に乗せる。錆びた鎖の付いた、写真を入れる小型のロケットだった。蓋は開き、中の写真が見えていたが、アンジュはそれを見てつい言葉を失った。
困惑したような表情を浮かべる十歳前後の黒髪の少年と、同じ色の髪を持ち、無理をして精一杯頑張っているかのような笑顔を浮かべた少女が映っていた。少年の方が幼い頃のダークであると、アンジュは直感で分かった。
「……見るな」
ダークは素っ気なく言い、アンジュの手からロケットを奪う。アンジュは引き下がらず、彼の手の方へ身を乗り出した。
「それ、誰なの? あなたと一緒に映っている女の子」
「……妹だ。今はもう居ない」
いつも通りの淡々とした口調が、心なしか普段よりも暗鬱に聞こえた。アンジュは絶句し、聞かなければ良かった、と後悔した。
「ごめんなさい、知らなくって」
「気にする事はない」
ダークはロケットを、元通りにポケットへ戻す。アンジュは少し躊躇い、ラボニたちがこちらを注視していない事を確認してから、彼の耳元に口を寄せた。
「ねえ、あなたの言う火星圏の革命って、妹さんに何か関係がある?」
「………」
彼は、眉根に皺を寄せて黙り込んだ。やはり不愉快にさせてしまったかな、と心配になった時、
「ない。それは昔の事であり、革命は現在進行形だ」
ダークはぼそりと答えた。
アンジュはそれ以上尋ねようとせず、大人しく彼から離れた。ラボニの方に歩み寄り、それ以上陰鬱な事を考えないように口を開く。
「疲れたでしょう。少し早いけど、私たちが代わるわ。あなたたちは休んで」
「駄目よ、アンジュ」ラボニは首を振る。「それじゃ、マリーたちと不公平になっちゃうじゃない。あたしはちゃんと交替時間までオペレーションするわ」
「オペレーションって言っても、状況に変化はないんでしょう?」
「それはそうね。バイアクヘーは今、近くの小惑星に停泊している。距離は二万キロってところね。明日中に接近して、交戦する事になると思う」
「大丈夫かしら、皆……」
アンジュは、ただただ不安だった。
先月、ラトリア・ルミレースの先遣隊二千と交戦した際、祐二たちスペルプリマーとケーゼ隊の連携はあまり良くなかった。伊織からの報告によると、ケーゼパイロットを務めた一人の男子生徒が、作戦上の対立からカエラの二号機に発砲する事まであったという。
あれから、大規模な過激派の先遣隊との交戦は起こっていない。宇宙連合軍とも、エンカウントする頻度が殆どなくなった。連合も、セントー司令官のバイアクヘー率いる船団との衝突に向けて、地球圏側で兵力を温存する意図があるようだ。もしくは、フリュム船一隻を撃沈しディベルバイスに対し、分散した小規模な部隊をぶつけても仕方がない、と戦略を変えているのか。
いずれにせよ、フリュム船撃破の実績は過激派には伝わらない為、ディベルバイスの示威はバイアクヘーに通用しない。旗艦のスペックがこちらに劣るとしても、向こうにはジウスド級戦艦を含む多くの船が居るのだ。兵力も、今まで戦ってきたラトリア・ルミレースの何十倍、何百倍という規模だ。生徒たちの現在の力で、迎撃する事はかなり厳しそうだ。
「確かに、個人の操縦技術や敵への恐れは減っているように思う。だが、それが一種の驕りをもたらしている事は否めない」
ダークが、自分たちの話が耳に入ったらしく、再び口を出してきた。
「実戦に於いて大切になるのは、仲間との協調性だ」
「ダークの言う言葉とは思えなーい」ケイトが意外そうに言う。「何か、あたしたちと会う以前のダークは一匹狼って感じがして」
「無論、単独戦法が有効な事はある。だが、今の俺たちは軍隊だ。頼りすぎるのも愚かだが、独断で突っ走り、他者の足を引っ張る者は害悪だ」
「非常に宜しくねえ状況だな、そりゃ」
ヤーコンが、頭を彼の方に向けた。
「今、あいつらにその協調性があるとは思えねえ。渡海たちが、最大限譲歩しているってところだな。あれじゃ、せっかく最強のスペルプリマーがあるのに、その性能を十分に発揮出来ねえよ。宝の持ち腐れだ」
「彼らが、元々私たち第一次舵取り組の出って事もあるかもね」
ラボニの声が、少々尖って聞こえる。
「ユーゲントに近い者は嫌われ者だもんね。あなたたちダークギルドが、あたしたちを自分たちの犬みたいに扱うんだから」
「ラボニ」アンジュは小さく咎める。ダークを、この大事な日の前に刺激して欲しくはなかった。
ラボニは、あなたこそ本当に寝返ったんじゃないの、というような厳しい目を自分に向けてきたが、ダークは軽く鼻を鳴らしただけだった。
「我ながら、人望がないようだ。俺は確かに、貴様らを制圧した。半ば脅すような形で、訓練生たちを戦わせている。だが、このような言葉がある。……徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」
「……マクシミリアン・ロベスピエール」アンジュは呟く。
「勉強しているな。俺が目指している船内秩序は、まさにそれだ」
「独裁者にでもなるつもり?」
ラボニは顔を顰める。
「独裁政治が悪しきものとして扱われているのは、権力を得た者がそれに溺れ、道を踏み外すからだ。だが、それが絶対に間違いのないものだとしたら? その独裁者の判断が、誰にも文句の言える余地がない程、状況に即したものだったとしたら。確実に、未来を良くする保証があるとしたら」
「危険思想ね。自信過剰って言ってもいいわ。間違えない人なんて、居ないもの。宇宙連合ですら、人類生存圏の舵取りを誤る事がある」
「この船に居る連中は、他人の間違いは認めない。自分の正しいと思っている事以外は、全て間違っていると思っている。その間違いが絶対的なものだった時は、集中砲火の的とする。……人は間違えるものだから仕方ない。この旅で、それが通用する程状況が甘いと思っているのか?」
「あなただって、完璧じゃない。間違っていないって皆が認めるなら、今頃一致団結して、バイアクヘーに立ち向かおうって気迫になっているわ」
アンジュは「そこまで」と言い、ラボニの肩に手を置いた。
「交替時間、ラボニ」
「アンジュ……」
「とにかく、皆の士気や理解がどうであれ、もうディベルバイスが明日の戦いを避けて通る事は出来ない。それじゃあ、精一杯やるだけ。私たちは皆を引っ張るからこそ、舵取り組なんだから」
言いながら、アンジュは自分の役目を再確認する。
ホライゾンと戦った際、アンジュはユーゲントが生徒たちをまとめる為、唐突にブリッジの指揮を託された。あの時は皆死にもの狂いだったが、自分に判断を委ね、導いてくれる事を求めてきた。
今、ディベルバイスと直接通信の出来ないケーゼ隊を指揮しているのはニーズヘグであり、そこで艦長職を務めているのはサバイユだ。だがもしかしたら──これまでもダークギルドと訓練生たちとのパイプ役であった自分が、この状況に対して、少しでも薬となれるのだとしたら。
「……ダーク君、お願いがあるの」
思いついた事を、アンジュはそのまま口に出した。
「私を、明日はニーズヘグに乗せて。明日は私が、祐二君たちに指示を出す」
ダークは、ぴくりと眉を上げてこちらを見つめてきた。
「どういうつもりだ?」
「何でもないわ。ダーク君、あなたに言われた通り、私は自分の役割を果たすだけ。決して自惚れる訳じゃないけど、皆、あなたたちに指揮権を託すって私が言ったからこそ、従ってくれているんだろうと思うの。私は確かに、皆からの風当たりに耐えきれているとは言えないし、不満を受け止めきれてもいないわ。だけど、ダーク君。あなたは目的の為に、私を同志に迎えてくれた。私にはちゃんと、あの子たちを導く力があるんだって、認めてくれているんでしょう?」
このような事を言ったら、またラボニたちからは裏切ったものと見做されるかもしれない。だがアンジュは、無理にでも自信を持たねばならない、と思った。ダークの作ろうとしている秩序を、自分も守らねばならないのだ。
ダークは暫し無言を貫いていたが、やがて「いいだろう」と答えた。やや俯くように頭を下げ、表情を隠して付け加える。
「……間違える事のない独裁。それを成し遂げられる人間が居るとしたら、それはお前だろうな、アンジュ・バロネス」
「買い被りすぎよ」
アンジュは、やや自虐的な気持ちで唇の端を綻ばせた。
「私は、そんな神様みたいな人にはなれないもの。自分の最良と思った事で無理矢理に皆を押さえ付けられたら、どれだけ楽だろうって思う事もある」
きっとこちらの台詞こそ、自分の本心なのだろう。無理をしている自分の姿勢を美化する事は、どうしてもアンジュには出来なかった。