すれ違いから婚約騒動へ
目の前には、待てをする犬のように見下ろすルーカス。記憶の中にある子どもではない。高い背に、広い肩幅。鍛えられた体躯に長い手足。
しっかりとした成人男性で、社交界で淑女たちに騒がれるのも当然で。
ただ、その距離がすごく近い。お互いの吐息がかかる位置。
傍から見ると甘い男女の逢瀬のようで、このまま距離がますます縮まりそうなのだが、残念なことにシルフィアの頭の中は騎士団長とルーカスの妄想が花開いていた。
(あぁ、何故ここにいるのが騎士団長ではなく私なのでしょう……そうです! この執務室の壁になれば、二人のあんな逢瀬やこんな密会を見ることが!? いえ! 王城の壁になれば他の殿方や騎士の方々が愛を育む様子を見守ることが……そうとなれば、王城の壁になる魔法を開発しなければ!)
新たな目標を見つけたシルフィアはその決意を一切悟らせることなく、淡く微笑んだまま黒い腕の中で悠然と膝を折った。
「では、また会える日を楽しみにしております、ルーカス様」
思わぬ口上に黒い眉がピクリと動く。
「その呼び名はやめていただけませんか? 以前のまま、愛称で呼んでいただきたい」
「では、またここに来てもよろしいですか?」
シルフィアにとっては壁になる方法を探すための口実なのだが、そんな思惑など知らないルカが満面の笑みになる。
「ぜひ、いつでも来てください!(師匠と二人きりの時間ができる!)」
「ありがとうございます(これで、王城の壁になる方法を探せますわ!)」
にっこりと笑い合う二人。それぞれの心境をお互いが知ることはなかった。
~※~
翌朝。
シルフィアが自室から出ると同時に待ち構えていたようにメイドのサラが突撃してきた。
「昨夜はお疲れ様でした。ガラン伯爵子息やデイオット侯爵子息のお姿を拝見することはできましたか?」
サラは昨夜、シルフィアが帰宅した時に根掘り葉掘り聞きだしたかったが、慣れない社交界で疲れているだろうから、とメイド長のマギーにキツく止められていた。あと、放心状態で戻ってきたベルダの対応に手を取られていたのもある。
丸い目をランランと輝かせている腐の同士を前に、シルフィアは昨夜の出来事を思い出した。後半はいろいろあったが、前半は想像以上の眼福で耽美な腐の光景で、この世の楽園であり、理想郷であり……
蘇った記憶に翡翠の瞳がうっとりと宙を見つめる。緩みそうになる口元に力をいれ、しとやかに微笑みを維持しながら話した。
「えぇ。ガラン伯爵子息のデイオット侯爵子息の仲睦まじいお姿だけでなく、バード伯爵子息と護衛騎士のコリンズの尊い主従関係も拝見いたしましたわ。周囲には美しく着飾られた淑女の方々もおられましたが、尊い愛の前では儚い塵のごとく。美しき薔薇を引き立たせる朝露……いえ、そよ風ですね。どの殿方も本の通りの麗しく、愛を育まれておられました」
「あぁ、私もそのお姿を拝見したかったです。そういえば、騎士団長様と大魔導師様はいかがでしたか?」
その質問にシルフィアの声が詰まる。瞬時に情報の取捨選択をおこない、腐に必要な情報だけを選び抜く。
「…………本の通りの逞しくも端麗なお二人でした。ただ、仲は私たちが知っているより進展しているかもしれません」
「それはどういうことですか!?」
食いつくように迫るサラをシルフィアが落ちつくように両手でなだめる。
「それは仕事をしながら話しましょう。早くしないとお義母様の機嫌が悪くなって……」
そこで、屋敷中が騒がしくなった。
普段は静かに気品をもって動くように、と再三注意をする執事長が荒い足音を立てて廊下を走っている。次に顔を青くしたメイド長のマギーがやってきた。
「お、お嬢様! た、たたた、た、大へ、大変です!」
言葉もまともに紡げないほど息があがっている。年齢を考えると、このまま失神するのでは、と心配になるほど。
「とにかく、深呼吸をして。ほら、大きく息を吸って、吐いて」
落ち着かせようとするシルフィアの肩をマギーが掴んだ。
「そのような悠長なことをしている場合ではありません! 早く着替えてください!」
「……着替えを?」
視線を落とせばいつものメイド服。別に汚れていないし、着替える必要性が浮かばない。
「お嬢様に、婚約の申し込みが! しかも、ご本人様が直接来られて!」
想定外すぎる展開にシルフィアが固まる。しかし、その隣に立つサラは嬉しそうに両手を合わせた。
「まあ、やはり昨日の社交界でお嬢様の美しさに気づかれた殿方がおられましたのね」
「どういうことですの?」
「お嬢様では壁になりきれませんから!」
力強く言い切られて、シルフィアが頬を膨らます。
「そのようなことはありません。私は壁以上の壁になっておりました。その証拠に騎士団長でさえ私の存在に気づいておりませんでしたから」
「今はそれより着替えを……」
そこに一段と大きな足音が近づいてきた。
思わず全員が振り返る。その先には、この屋敷の主でありシルフィアの実父であるワイアット・クライネス。いつもはキッチリと頭に撫でつけている焦げ茶の髪が乱れ、茶色の目が焦りに揺れていた。
「まだ着替えていないのか!?」
マギーより狼狽した顔。しかも、シルフィアが前に顔を合わせた時より白髪が増えている。それぐらい顔を合わせていないということなのだが。
急かす実父に対して、シルフィアは困ったように頬に手を当てて首を傾けた。
「そうは言われましても、他の服もメイド服と大差ありませんし」
「はあ? そのようなことあるわけないだろ!」
「そう言われましても」
義母によって高価なドレスはすべてベルダに。ワイアットはシルフィアに興味がないため、知る由もないのだが。
説明しても納得してもらえない雰囲気にシルフィアが悩む。
一方、この展開に最初は慌てていたマギーの頭が冷えてきた。あれだけシルフィアに少しでも目をかけるように言っていたのに、まったく聞き入れなかった結果がこの事態である。
他の使用人も同じことを考え、徐々に冷静になっていく。
その中で一人、焦り慌てているワイアットだけが狼狽し、声を荒げた。
「と、とにかく、持っている中で一番良い服に着替えて応接室へ行け!」
「では、このまま参ります」
持っている服の中で一番上等なのはメイド服。ならば、このまま登場するしかない。
背中をむけたシルフィアに対して、ワイアットが苛立ち混りに怒鳴った。
「待て、シルフィア! 何でもいいから、早く着替えろ!」
「旦那様。お言葉ですがお嬢様が言われるように、一番上等な服は今着ている服になります」
これまでシルフィアを放置した仕返しとばかりにマギーがツンと言葉を返す。
そんなバカな、とワイアットが他の使用人に視線を移せば、返ってくるのは冷めた目。全員がマギーの意見に同意しているのは聞くまでもない。
時間が迫る中、ワイアットは頭をかきながら叫んだ。
「と、とにかくメイド服以外で何とか……そうだ! ベルダの服を適当に見繕え!」
名案と言った様子のワイアットだが、マギーが平然と話す。
「では、旦那様がベルダ様を説得してください」
「なに!?」
「私たちが言うと時間がかかるどころか貸していただけないでしょう。それでは時間もかかりますし、相手の方をお待たせしてします」
並べられた正論にワイアットがグッと言葉を詰まらす。
「……わかった。シルフィア、ついてこい」
ワイアットが荒々しくベルダの部屋へと向かう。
その後ろをシルフィアをはじめ、マギーとサラが続いた。