メイドから社交界の壁へ
翌日。
「あぁ、本当に最高でした」
昨日、一気読みした本の余韻に浸り、うっとりとした顔で窓拭きをするシルフィア。今はサラが読んでいるので、彼女の仕事も手早くすませていく。
「まさか、騎士団長が大魔導師のためにプライドを捨てて、あんな行動をするなんて。しかも、助けた後の気まずさを隠しながらも、無事を確認した時の安堵した様子。無事で嬉しいという気持ちを素直に言えないもどかしさと、すれ違い。どれも本当に最高でしたわ。そこからの大魔導師の言葉も、もう……あぁ、この気持ちを何て表現したらよろしいのでしょう」
ほぅ、と息を吐きながら翡翠の瞳が空を映す。それは、背中に小さな白い羽が生え、今にも天へ昇っていきそうなほど。
しかし、シルフィアの体は浮かび上がることなく、手にしている雑巾をクシャリと握りしめただけで終わった。
「己の語彙力の乏しさが恨めしいですわ」
無念、と俯いたところで、ベルダの声が飛んできた。
「窓ふきぐらい、さっさと終わらせなさいよ」
「す、すみません」
先程までの陶酔感が嘘のように表情を消し、窓ふきに戻る。淡々と手を動かしていると、盛大なため息が背中に圧し掛かった。
「あなたのようなノロマを今晩、王城で開かれる社交界に連れて行ってあげるんだから、感謝しなさい」
「社交界?」
貴族の令息令嬢は15歳になると王城で開かれる社交界に出席して、他の貴族と交流をはかる。ただ、シルフィアは魔力0の無能と判定されたため、顔を出しても家の恥になるだけだから、とワイアットが社交界に出席することを許さなかった。
シルフィアが確認するように振り返ると、ベルダが意味ありげに目を細めており。
「慈悲深い私がお姉さまに世間を教えてさしあげますわ」
蔑みを含んだ笑みにシルフィアは心の中で納得した。
(社交界で私を世間知らずと笑い者にしたいのでしょう。あと、流行おくれのドレスを私に着させて引き立て役にするつもりでしょうか)
外に出たくない。腐を堪能できる今の生活を維持したい。
でも、拒否することは許されず。
「はぁ……」
鏡台の前に座るシルフィアが闇より暗いため息を吐いた。
その背後には気合いが入ったサラ。
「しっかり飾りましょう!」
顔をあげれば大きな鏡に長く滑らかな亜麻色の髪と、小さくも整った顔が映っている。大きな翡翠の瞳を縁取る長い睫毛。ツンとした形のよい鼻に、花弁のような唇。女性らしく豊満な体に細い手足。
普段はメイド服と地味な化粧で誤魔化しているが、その下には美女が隠れていた。
今にも霞になりそうなシルフィアが消えそうな声で呟く。
「目立たないようにしてください。壁の一部になるように……」
「そんな!? お嬢様は美人なのに壁なんて、もったいな……ハッ! それよりも、これはチャンスですよ!」
「チャンス?」
サラの力んだ声にシルフィアの顔が引き上げられる。
すると、鏡越しにそばかすの上にある丸い目が大きく頷いた。
「はい。生の騎士団長様や大魔導師様を間近で拝見するチャンスです! いえ、それだけではありません。ガラン伯爵子息やデイオット侯爵子息など、本のモデルになられている方々を実際に拝見することができるかもしれませんよ!」
サラの提案にシルフィアの曇っていた顔がみるみる晴れていく。来光とともに天上からラッパを吹き鳴らした天使が舞い降りてきたかのような表情で胸を押さえ、真っ白だった頬を紅潮させる。
「みなさま、今晩の社交界に出席されるのかしら!?」
「きっと出席されます! 今晩は新人の集まりですから、名のある方々は出席されて交流をされるはずです!」
力強い同意にシルフィアの魔力が溢れかけ、誰にも気づかれない程度に亜麻色の毛先が犬の尻尾のように左右にピョコピョコと揺れる。
「では、本に書かれているような場面をこの目で実際に拝見することが……あぁ! そのまま、会場の壁となって見守り続けたいですわ!」
シルフィアがうっとりとしている間に、サラが化粧道具を並べていく。
「今晩だけでも立派な壁になれるように、ナチュラルメイクで仕上げます!」
「お願いいたします!」
そんな燃えあがる二人をマギーが残念そうな顔で微笑みながら見守っていた。
~※~
高い天井と煌びやかに飾られた王城にある大きな広間。
本日、社交界デビューするうら若き男女を中心に色とりどりのドレスで飾られ、華やかな会話で盛り上がる。ここで、どのような人脈を作るかで将来が左右されるため、獲物を狙う狩人のように目をギラつかせてながらも、表面上は紳士、淑女として振る舞う。
そんな光り輝きながらも、策略と思惑と欲望が渦巻く中で、シルフィアは別の感動に打ち震えていた。
「あぁ……あの逞しい方はガラン伯爵子息。そのお隣で笑っておられる美麗な方はデイオット侯爵子息。そんな近くに……あぁ! 肩に手をのせて笑い合われて! そこまで顔を近づけたら、唇が……あぁ、触れそうで触れない絶妙な距離! なんて素晴らしい! 本の通り仲睦まじいお姿すぎて失神してしまいま……あ、こちらにおられるのはバード伯爵子息と、護衛騎士のコリンズ様! このような場でも護衛を側に置くなんて。しかも、話しかけてくる令嬢には冷えた目で睨みますのに、バード伯爵子息には甘い視線を……あぁ、なんて最高な主従関係……すべてが眩しすぎますわ」
尊すぎる光景の数々に、シルフィアは心の中で額に手を当てて天を仰ぎながら床に倒れていた。わが生涯に一片の悔いなし、という辞世の句を歓喜の涙で床に書き残すほど。
だが、現実ではそのような様相は一切悟らせず、穏やかな微笑みを浮かべたままパッと扇子を広げる。
「扇を準備して正解でした」
気を抜けば緩みそうになる口元を隠すため、扇子で顔の下半分を覆う。
ちなみに、シルフィアをこの場に連れてきたベルダはこれでもかというほど派手なピンクのドレスで着飾り、甲高い声で会話に花を咲かせまくっていた。囲んでいる人たちが若干引いているが、蝶よ花よと溺愛されて自分が中心のベルダはまったく気づいていない。
「ねぇ、お姉さま?」
突然、話を振られたがまったく話を聞いていなかったシルフィアは答えることができず、扇子の下で曖昧に微笑むのみ。流行遅れで、藍色の暗いドレスは地味を通り越して侍女のようにも。
その姿にベルダが大げさに肩を落とした。
「もう。私がいないと何もできないんですから。困ったお姉さまですの」
シルフィアの周囲に響く蔑みを含んだ軽い笑い声。
前世で何度も聞いた。腹の探り合い、建前だけのお世辞。そんな世界が嫌だった。
(今は、とても気が楽ですのに)
亜麻色の髪を少しだけ揺らし、扇子の裏でそっと視線を落とす。
使用人同然の生活。でも、慣れ親しんだ人たちに囲まれ、不毛な駆け引きも、機嫌取りも必要ない。何よりも好きなことに没頭できるし、同士もいる。
屋敷での生活を回想する中で、シルフィアは重要なことを思い出した。
「そうですわ。騎士団長と大魔導師のお姿を目に焼き付けなければ」
小声で呟くと、気配を消して高笑いをしているベルダから離れた。
油断すると踊り出しそうになる足に力を入れて足音を消し、亜麻色の髪をなびかせて華やかな広間を泳ぐように移動していく。その姿は、不思議なほど誰の目にも留まらない。
(壁になる努力をして良かったですわ)
腐を見守るため、気配を消して音もなく移動する術をド根性で身につけたシルフィア。気配を消す魔法もあるが、それだと魔力で気づかれる可能性があるため、身体能力だけに磨きをかけ、筋力と持久力だけなら、そこら辺の騎士にも負けず劣らず。
そこで、ふと耳に入ってきた小話にシルフィアの足が止まりかけた。