腐は命懸けの嗜みです
「もしかして、幻と言われている、あの本(腐の小説)でしょうか? 注文したのは一年以上前になりますが」
「……まさか、あの貴重な本(腐の小説)が? ついに届いたというの!?」
魔力の高まりとともにブワリと広がる亜麻色の髪。
それを抑えながらシルフィアは息を呑んだ。
腐の同士たちの中で、幻の逸品と呼ばれる一冊の本が存在した。その本は、印刷された部数が少なく裏では宝石より高値で取引きをされるほど。
再販はないと囁かれていたが、半年前その本が密かに完全受注で発売されることが決定した。そのため、サラがあらゆる手を尽くして執念とともに注文、購入したのだ。ただ、注文されてからの印刷、製本になるため、いつ届くのかは不明だった。
「かなり厳重な作りになっておりますので、一見しただけでは普通の本に見えるでしょうし、中を読んでも製本に失敗したと思うだけで、書かれている内容については気づかれないでしょう。現在、注文している本はそれだけですので、ほぼ間違いないかと」
「数年待ちは覚悟しておりましたのに、こんなに早く届くなんて! すぐ、取りに行かなければ」
犬の尻尾のようにブンブンと左右に揺れる毛先とともにシルフィアが立ち上がる。
そこで背後から甘く絡みつくような低い声がした。
「いかがされました?」
言葉とともに襟足から伸びた長い黒い髪が頬を撫でる。背中に感じる体温に驚くことなくシルフィアは振り返った。
「クライネス家に帰ってもよろしいですか?」
ごく普通に訊ねたつもりだったが、穏やかだったルーカスの顔が凍る。それから、慌てたように端正な顔が迫ってきた。
「何か不備がありました!? それとも、不満が!? すぐに改善しますので、言ってください!」
あまりの必死さにシルフィアは驚きながらも、落ち着かせるように話した。
「いえ。そういうことではなく、本を取りに帰りたいのです」
「……すべての本を持ってきたのでは?」
ルーカスが目を鋭くして顔をサラへ向ける……が、それを白い手が遮った。
「そうやって、すぐに睨まない。注文していた本が届いたそうなので、取りに帰るだけです。すぐに戻りますから」
手紙には大事な話もある、と書かれていたが、シルフィアの頭は貴重な幻の本(腐の小説)のことで一杯で。とにかく本を。一刻も早く、この手に本を。そのためなら、何をしてもいい。
心の中で準備運動と駆け足を始めたシルフィア。
(こうして会話をしている時間も惜しいですわ)
内心では焦りまくり、今にも走り出したい気持ちが爆発寸前。だが、表情は少し困っている程度にとどめる。それも、気を抜くとすぐに崩れそうだが。
すると、黒い腕が抱きしめ、耳元で囁いた。
「では、『クライネス家に帰る』ではなく、『クライネス家に戻る』と言ってください。師匠が帰る場所は私の屋敷ですから」
懇願しながらルーカスが首元に顔を埋める。
まるで、幼子が甘えるような仕草。
そのことに、シルフィアの前世の記憶が刺激される。幼い弟子が時折みせた可愛らしい仕草。ふんわりと蘇る、淡く和やかな空気。
戦場の前線にいることが多かった日常で、唯一の癒しと穏やかな瞬間だった。
穏和な雰囲気に、シルフィアの気持ちが絆される…………が、それ以上に心は家に届いた本(腐の小説)へ飛んでいた。
どんなに懐かしく、温かな記憶でも、腐への欲望には勝てない。
一刻も早く本を手にするため、飛び出したい気持ちを抑えてシルフィアは黒い髪を撫でた。
「わかりました。本を取りにクライネス家へ戻って、ここに帰ってきます。…………これで、行ってもいいですか?」
本音が見え隠れする最後の言葉にルーカスがフッと声を漏らす。
「そんなに読みたい本なのですか?」
「えぇ」
素直な返事に顔をあげたルーカスが黒い眉をさげて困ったように言った。
「本に嫉妬してしまいますよ?」
唇を尖らせ、少しだけ拗ねた声音を混ぜた甘え声。
その様子にシルフィアが首を捻った。
「ルカが嫉妬するのは、本ではなく……」
騎士団長に群がる淑女では? と言いかけたところでサラの鋭い視線が目に入った。真剣な表情のまま、音もなく首を横に振り、言ってはいけない、と訴える。
サラは大魔導師の愛情が騎士団長ではなく、シルフィアに向けていることに気づいていた。現実と物語が違うことは知っているし、それはそれ、これはこれ、と分けて考えることもできる。
それゆえ、この状況に悩んでもいた。
(お嬢様がルーカス様と騎士団長様の恋愛話を愛読書にしていると知ったら……いえ。知っても、ルーカス様の態度は変わらないでしょう。ですが、黙っていた方がよさそうです)
そう判断したサラのおかげで、ルーカスはシルフィアの隠れた趣味を知らないまま。
そんな二人の目だけの会話を知ってか知らずか、黒い服が少しだけ離れた。それから、諦めたように声をかける。
「わかりました。ですが……早く帰ってきてください、ね?」
最後の『ね?』にドス暗くドロリとした様々な感情が見え隠れする。
サラはそこにすさまじい執着を感じ取ったが、当の本人であるシルフィアが気づくことはなかった。
~※~
こうして、なんとかルーカスを説得したシルフィアは久しぶりの実家の屋敷へ戻った。
義母や妹に見つかったらアレコレ言われそうなので、こっそりと裏口から屋敷に入り、自室だった部屋を目指す。
実家を出て数日しか離れていないのに、前より壁の傷や汚れが目立ち、花瓶などの装飾品が減っているような気もする……が、今はそれどころではない。
「本はどこでしょう?」
走りたい気持ちを抑え、誰にも見つからないようにひっそりこっそりと廊下を進む。
(自分宛てに届いた本なら自分の部屋に置いてあるはず、です!)
そう考えてシルフィアは自室だった部屋に飛び込んだ。しかし、そこには空の家具が並ぶのみで本は一冊もない。
「どこに……?」
焦りを表情に出さないまま、クローゼットの扉を開け、ベッドにかけられた掛布をはぎ取り、埃を舞い上がらせる。
幻の逸品とされ、崇められている作品。だからこそ、同士以外の者の手に渡った時が……見つかれば厳罰どころか、処刑されてもおかしくない内容。それでも、腐を求める者たちの間で広まっている。
『腐は命懸けの嗜み』
それがシルフィアたち腐の同士の共通認識だった。命を懸けてでも、止められない止まらない。求め続け、推し続ける。それだけ美しく、同士たちが求める続ける理想の世界。だからこそ、結束も固い。
「一体、どこに……」
亜麻色の髪を床につけ、這いつくばってベッドの下や家具の裏を探す。顔は無表情のままだが、全身から必死さが滲み出ている。
そこに、疲労混りの声がした。
「帰ったなら、声ぐらいかけろ」
シルフィアが顔をあげると実父であるワイアットがドアのところに立っていた。
心無しか頬がこけ、やつれたような雰囲気。
だが、これまで屋敷で起きていた状況を知らないシルフィアは首を捻っただけで軽く流した。
「本を取りに戻っただけですので、挨拶をするまでもないかと」
「手紙には話があると書いていただろ」
「あ……」
完全に忘れていた。
無表情のまま固まったシルフィアに、普段ならノロマや無能という罵りの言葉が飛んでくるのだが、今日は不気味なほど静かだった。代わりに重苦しいため息が落ちる。
「まぁ、いい。こっちに来なさい」
「え? あの、本は……」
「話が済んだら渡す」
そう言われたら付いていかないわけにはいかない。
(早く! 早く! 早くしてください!)
ノロノロと歩くワイアットを追い越したい気持ちを抑えるあまり、亜麻色の髪の毛先がウズウズとうねる。
しかし、応接室へ連れてこられたシルフィアは入り口で足を止めた。メイド扱いだったため、掃除以外で応接室に入ることも禁止されていたのだ。
だが、それを知らないワイアットが当然のように命令する。
「突っ立てないで、さっさと座れ」
「……はい」
足音もなく室内に入り、シルフィアが静かにソファーへ腰をおろした。慣れない状況に何となく居心地が悪い。あと、早く本を手にしたい。
そんなソワソワを表面に出すことなく、澄ました顔のまま綺麗な姿勢を維持する。
そこに、ワイアットが反対側のソファーにドガッと座って訊ねた。
「大魔導師との婚約だが、ベルダに譲る気はないか?」
思わぬ内容にシルフィアはすぐに返事ができなかった。