第8話 算楽の出題
☆注
今後、会話において使用されるセリフのカッコ書きは、
「 」は陽の民の言葉、
『 』は異国語(主にセレンの民の言葉)となっております。
ご了承ください(^^)
テイが読んでいるのは、アシャが自分で作った算楽本だった。前の頁に出題があり、次の頁に解答がある。
こっそりと様子を伺っていたアシャは、へえと感心した。テイの読む手つきは、解き方をちゃんと考え、求めた答えが正解かどうか確認しながら読んでいる人間のそれだった。
それにしても、かなりのはやさで頁をめくり、次から次へと何冊も読み進めている。その手が止まり、テイはふいにアシャに向かって振り返った。
アシャは思い切って話しかけてみた。
「あなた、算楽が好きなの?」
『この問題の答えは?』
算楽を理解できる知恵があるのが意外に思えるくらい、見るからにぼーっとして不愛想な少年だ。問うたところで返事がないくらいアシャには想定内だった。
「それは賭け算楽用の本だから答えは載せていないわ」
テイが聞きなれない異国の言葉を使っても、言っていることはカンでわかった。とりあえず相手にも陽の言葉で通じるか試してみる。
「なんだったらあなたも賭けにのってみる?私が選んだお題に正解できたら、宿代はタダ。答えられなかったり間違えたりしたら、宿代倍増しか、代わりのいいもので支払ってもらうわ」
「いいものって?」
アシャの誘いに反応したのはキョウの方だった。濡れた手足をふいて、使った後の手ぬぐいを丁寧にたたんでいる。
「そうね。たとえば公路図」
「そんなもの賭けて何にするのかな」
「いけない?あれって、写しを作るとけっこういいお金になるのよ」
話しながら、アシャはテイのために、たらいの水を新しいものに汲みかえて床に置いた。テイは動かない。キョウは呆れたような声でひやかした。
「宿屋のお嬢さんのこづかい稼ぎにしては剣呑だね、公路図の複製は違法だと聞いたけど?」
「余計なお世話!公路図を持ってないなら賭けはなしよ」
どうして亜人である彼らが軍と絡んでいるのかは知らない。それでも、一般人よりはより詳細な地理情報に触れている可能性があった。ここはアシャとしては絶対に引けないところだ。
「さあ、どうする? 賭けにのらないなら、その本はしまって、こっちにきて足を洗ってちょうだい。私、食事の準備に行かなきゃ……」
「そういえば、この街に都の宮廷地図師が住んでいるそうだね。公路図だったらその人に見せてもらったらどうかな?」
せかすアシャに、キョウがさらりと言った。アシャは内心ぎくりとした。
誰かがヨアンじいさんの関係者を探している……幼馴染のセンから聞いた忠告が、頭のかたすみでチカチカした。
じいさんの事を聞きまわっていたというのはこの二人だろうか?
アシャは心に浮かんだ疑惑をおくびにも出さず、明るい調子でけらけらと笑い飛ばした。
「はあ?だいぶ前に亡くなった画家のおじいさんのこと? 噂じゃあ、そうとうモーロクして世話人の顔も分からないくらいボケてたって聞いたわ。公路図の話なんてとてもとても……」
『おい』
それまで黙って二人のやりとりを聞いていたテイは、アシャに近寄ってくると懐から何かを取り出した。最新の公路図を期待していたアシャの思惑は、大きく外れた。それも、とんでもない方向に。
『公路図はないが地図ならある』
異国の言葉でそう言って、テイがアシャに見せたのは、まさに。公路図どころか、本物の地図で。
「ちょ、そ、それっ」
動転したアシャの手から、つるりと水さしが滑り落ちる。床の上にぶちまけられた水が、ざばあ、と激しい水音をたてて三人の足元に広がった。
び、
び、
びっくりした……っ!
そして、疲れ果てた。アシャは食堂の10人がけの大きな卓に突っ伏して、ぜえぜえと背中で息をついていた。
一日の仕事を終えて、ようやく手すきになったところだ。夕方から今まで、目の回る忙しさで。食事の配膳をしたり湯殿の片づけをしたり客の用事に対応したり、急に宿泊客がふえた分、労働量もいつも以上にはんぱなかった。
亜人の二人は部屋にこもりきりだ。神殿の掟で決められたものしか食べられないのだとか言って、夜になっても食堂には姿を現さなかった。それで命が救われた。
夕方は、ヨアンじいさんのことまで聞かれていた気がする。あの二人の口からその名前が出るなんて、よっぽど警戒すべきことなのに。そのあと地図を見せられた衝撃で、すべてふっとんでしまった。
あんまりにも虚を突かれすぎた。激しすぎるほど気が動転した。あのあとどうやって水浸しの床を掃除して、彼らをどのように部屋に案内したのか、アシャはさっぱり覚えていなかった。
(だって……とても正気じゃいられないわ、あんな)
テイが公路図のかわりに取り出して見せたのは、大陸南路の地図だった。しかも、アシャにはそら恐ろしいほど見覚えのある、古ぼけた地図。あれはまさしく、何年か前にアシャが描いて、そして親爺に取り上げられた、切なくも思い出深い地図のうちの一枚だ。
できることならあの場で飛びついて取り上げてしまいたかった。とっさにこらえた自分の理性が恨めしい。
(なんで今さら!しかも、なんであいつが持ってるのよ!)
こと地図に関して、アシャには絶対の自信がある。自分が見間違えるはずはないけれど、もう一度この目で見て本物かどうか確かめたい。そして、それが本当にアシャの描いた地図であるなら、なにがなんでも取り返したい。いや、ものが偽物でも複製でも関係ない、もとがアシャの地図である事実に違いはないのだから、死んでも取り返す。そのためには、たとえどんな手を使ってでもかまうものか!
アシャは握りこぶしをつくってふつふつと闘志をたぎらせていた。
(でも、亜人に力づくは無理よね……?)
少なくとも二人のうち片方は、神殿の大鐘を持ち上げ素手で岩を砕くという、見た目からは想像できない力をもったセレンディラだ。いくら年の頃が似ているからって、隣のセンと同じ扱いはできない。
すきをみて摺り取ろうか。それとも、なにかネタを作って脅し取ろうか。アシャはあれこれと思案した。できなくはないけれど、どちらも今すぐには難しい。しかも相手はいつまで滞在するかはっきりしないときている。
しばらく考えて、アシャは眠り香を使うことにした。
これまで賭けの支払いを宿代倍ですませた客から、追加で公路図をほんのちょっぴり拝見させてもらうために常備してあるものだ。このお香を焚いてその煙を吸わせた客は、アシャが部屋に入って少々の音をたてたところで、まったく気づかず朝まで目覚めることはない。今までに何回も試したから、その絶大な効果は保証済だ。
今夜、客がみんな寝静まったあとで決行しよう。セレンディラだって眠っていれば怖くない。彼らの部屋に眠り香の煙を充満させて、熟睡している間にこっそり地図を回収してきてしまおう。そうだそうしよう。
決断したら早かった。アシャは眠り香の匂いに気づかれないように、念のため、虫よけの薬だといって強めの香を焚いて各部屋を回った。そして深夜を待った。