第2話 女将の依頼
せわしなく呼び鈴を鳴らしていたのは通いの奉公人ではなく、大通りに面したこの街でも指折りの大店『双竜亭』の女将だった。
アシャは相手を確認すると急いで玄関の戸を開ける。でっぷりとした女将の身体が、香と脂粉と汗の匂いと一緒にはいってきた。
「悪いねえアーシャ、忙しい時間に」
「もうお客さんは全部はけたから大丈夫。どうしたの女将さん」
「あんたにまた頼みがあってね。……ああそうそう、この間は通訳をやってもらって助かったよ」
「あんなの、どうってことないわ。いつでも声かけてちょうだい」
アシャは気さくに応じてほほ笑んだ。
宿屋という仕事柄アシャは、東の隣国イドリスや、南方のカルディンの言葉にも触れる機会が多かった。とはいえ外国人はみな、陽の国のなかでは陽の言葉で話す。ほとんど使える者のない外国語をアシャが身につけたのは、もちろん彼らから地図の話を詳しく聞き出すためだった。
「あんたは良い娘になったねえ。いくつになった?」
「十六よ、女将さん」
「もうそんなになるかい。早いねえ。ノドが男手ひとつで、拾い子を育てるって言いだした時には、皆どうなることやらと呆れたもんだけど」
ノドというのは、アシャの養い親、この大熊亭の主のことだ。女将とは古い馴染みらしい。
「この街のみんなのおかげだよ。どうしようもない親爺だからね」
まんざら社交辞令でなく、アシャは心からの感謝をのべた。
ノドは宿屋の仕事だけはかろうじてこなしても、大酒飲みで喧嘩っぱやくて博打好きで、まっとうな親とはとうてい言えない。アシャがすれもせずに明るく元気に育ったのは、この街の宿屋組合の助けがあってこそだった。
中身はもちろん見た目にだって自信がある。
アシャの金の髪は、丁寧にくしとけば蜂蜜のような光沢になる。栗色の瞳はぱっちりと大きく肌はまっしろ。背はすっきりと高く、胸はまん丸くふくよか。宿屋の看板娘として、料理や掃除洗濯、客あしらいはもちろん、算盤や通訳までこなしてしまう。
年頃になれば、この宿場町の男たちが、アシャをぜひにも妻にと望んで行列をなすだろう。と、もっぱらの評判……のはずだった。
現実的なアシャは、そういった高い自己評価が、世間の評価とそれほどずれてはいないことを冷静に把握していた。
(これで内緒の趣味さえなきゃねぇ……差し引きすると大赤字で、我ながら台無し)
内心、うふふふふふと薄暗くひとりごちながら、アシャは女将に愛想よく笑いかけた。
「それで?なにか急ぎの用だったんじゃないの?」
「ああ、そうだった。今夜の大熊亭に、空きはどれだけある?とんでもない大所帯の客が都からやってくるって先触れがいきなりきたんだよ。うちの店はいま、上を下への大騒ぎさ」
女将の嘆きに、アシャは目を丸くした。
「双竜亭くらいの大店なら、そんな不躾な客、断ってしまえばいいんじゃない?」
「それがそうもいかなくてね」
とうてい断れない筋からねじこんできたんだよ、と女将は汗をふきながらぼやいている。アシャは怪訝そうに眉をひそめた。
宿には部屋数や広間の大きさなどの規模以外に、格式というものがある。17番『経』の街で都の貴人が宿泊できるのは、双竜亭をはじめとする数軒の大店だけだ。
そういった格式高い店は敷居も宿代も相応に高く、下々の客には足を踏み入れることすら難しい。逆に、この女将にそれだけ無理をきかせるということは、そうとう身分の高い客が、しかも突然にこの街にやってくるということだ。さほど忙しくない時期とはいえ、女将のこの様子ではおそらく客は数百人規模。それは大騒ぎにもなるだろう。
アシャがきりもりする大熊亭は、格式でいうと、中の下といったところ。大店に空きがないときだけ、貴人の従者を宿泊させたり荷を預かったりすることができる。今日もさぞ忙しいだろうに、女将はわざわざアシャに直に頼むため、店から大急ぎで駆けてきたらしかった。これを拒んでは女がすたるというものだ。
「わかったわ、うちで空いている部屋は全部、双竜亭のお客にまわすわ」
「ありがたい。それじゃ後で人をよこすから、よろしく頼んだよ、アーシャ」
女将は一安心したように汗を拭くと、次の宿屋へとばたばたと向かっていった。女将と入れ替わるようにやってきた手伝いのおばさんに、アシャは宿の徹底的な大掃除を頼んだ。この分ではどこの宿も大慌て。昼過ぎには人手の取り合いになるかも知れない。そして当然この騒動の余波をくらって、アシャの夜のお楽しみはお預けになるだろう。腹立たしいことこの上ない。
(どこのどんなお高いご身分の一行か知らないけど、周囲への迷惑ってものを考えて行動して欲しいわね!!)
そんな貴人の従者なら、きっとふんぞり返った威張った連中が大勢やってくるに違いない。粗相がないように、きちんと準備しておく必要があった。料理やもてなしはもちろんのこと、自分の屋根裏部屋に隠した地図に関するあれこれも……万が一にそなえて念のため、場所を変えておいたほうがいいかも知れない。
なぜなら、陽の民が許されている地図は、公路図だけだから。
アシャが愛してやまない国土図や都市図は、所有することはおろか、使うことも見ることさえかなわなかった。そのことについて異を唱える者もいない。そもそもほとんどの民が、公路図以外の地図の存在を知らないのではないのだろうか?それを考えると、アシャは泣きたいくらい悔しくなる。
(みんな、どうして?地図が欲しくないの?)
地図がなければないで、旅も商いもどうにかなってしまっている現状が、アシャの不幸に追い打ちをかけた。知らなければ、そしてとりたてて問題がなければ、どこからも不平の出るわけがない。
公路図以外の地図と名のつくものすべて、政府のご禁制品であることには疑いようがない。けれど、それが何故なのか、それを破ったらどんな罰になるのかは、アシャが今よりもうんと子供のころから、誰に聞いてもはっきりしなかった。だからアシャは、自分で描くようになったのだ。
(そうよ……あたしは地図のない世界なんて我慢できない。世界のかたちをこの目で確かめたい。なければ、自分の手で作るまでだわ!)
幼い決意が、想像以上に重い罪になるのだと思い知ったのは、アシャが自分で描いた地図を客にみせびらかした時。相手は隣国イドリスからきた年老いた商人だった。
覚えたてのイドリス語で、子どもなりにせいいっぱい、異国の商人とやりとりしていたように思う。そしてふと、描いていたものを見せようとした。
子供の落書きをにこにこと眺めていた商人は、それが地図だとわかった途端、人殺しにでもあったような顔つきで後ずさり、恐々としてアシャを見た。ふるえる指先が、地図を指す。
信じられない、まさか、この子が描いたのか?禁じられているのに?それがどんな罪になるか分かっているのか?
言葉を超越した怯えが、沈黙を通してまざまざと伝わってきた。その客は慌てふためいて出立すると、大熊亭には二度と帰ってこなかった。
定期的に国と国の間をまとまった人数で行き来する隊商は、宿にとって実入りが多いありがたい客だというのにだ。
太い客を逃して反省したアシャは、二度と客に自分が描いた地図を見せないことにした。その代わり、客のこない厨房でこそこそと地図を描いて楽しんでいたら今度は親爺に見つかって、手が後ろにまわるか、首が飛ぶぞなんて大目玉をくらったうえに、お気に入りを全て没収されてしまった。
そんな風に、アシャの地図製作の歴史は、地図に対する無理解と恐怖と迫害の歴史でもある。
都からの客がもし役人だったなら。宿泊前に、宿の内部を改められるかも知れないし、そうでなくても酔っぱらった勢いで夜中に屋根裏まで忍んで来るかも知れない。あらゆる事態に備えて手を打っておかないと、いままで努力してきたあれこれがすべて無駄になってしまう。
「今朝がたあんなおかしな夢を見たのも、この前触れだったのかなあ」
アシャは大きなため息をひとつはあ、とつくと、持ち手つきの買い物籠を腕に下げて宿の奥へと声をかけた。
「市場へ行ってくるわ。留守をお願いね」
ともかく動くしかない。ぼやぼやしていると、市場の食材まで他の宿屋に根こそぎ持っていかれてしまいかねない。アシャは太い三つ編みを背に揺らしながら、市場のある街の広場へ向かって走り出していた。
「見てなさい、貴人さまだか誰がくるのか知らないけど。今夜はうちの自慢の料理人が、都以上のご馳走をおみまいしてやるわ」
迷惑料と、地図の恨みも上乗せしてやる。
請求書みて腰ぬかすんじゃないわよ!